第15話 べく杯と焼き魚
居酒屋に通うようになって、店の人や常連客と顔見知りになってくると、他のオススメのお店の話なんかも聞こえてくるようになる。
いつもの店の店員さんたちが好んでいく寿司屋の話。
常連の社長さんが愛用してる蕎麦屋の話。
地ビールが美味い店、肉料理が充実している店、昔ながらの焼き鳥屋。
そうした情報は、動画作りをしている明美とさくらにとっては、ネタを拾えるという意味でとてもありがたかった。
そういった経緯で仕入れた店の情報をネットなどでもチェックして、新規開拓に役立てるというわけである。
ネットの情報だけで選ぶよりは、生の声による後押しがある方が期待も膨らむというものだった。
そうやって選んだ一軒に、今日は二人して足を運んだというわけである。
居酒屋と一口に言っても、最近では特色を打ち出すところも多い。
その店は、焼き魚を特徴的な出し方をする店だった。
それを楽しみに来たわけである。
小さな店である。いつもの居酒屋の半分くらいの広さしかない。
「やっぱり明美さんは日本酒ですか?」
「うん、まあ、焼き魚ときたら日本酒を飲みたくなるよね。さくらさんは?」
唸りながら、さくらはドリンクメニューを見て悩み始める。
「品揃えを見ると、日本酒を推してる感じですよね……。わたくしも日本酒にしようかしら」
「今日は同じものを飲むより、別々に頼んでいろんな種類を試してみない? ここ、ハーフサイズも頼めるみたいだから。一口ずつシェアすれば、結構いろいろ試せるでしょ」
「あ、はい。じゃあ、そうしますね」
手早く注文を済ませる。
すぐに頼んだ日本酒が運ばれてくる。
目の前に置かれたグラスは、変わった形をしていた。ガラス製で、円錐をひっくり返したような形状。言うまでもなく、尖った円錐では置けば倒れてしまうので、木製の支えのようなものと対になっている。
「面白いグラスですね」
「べく杯ね」
「べく?」
「漢文で『可』という字を『べく』と読むの。何々するべく、のべくね。この字は常に句の上に来て、下には置かないの。そこから、飲み干さなければ下に置けない杯、だからべく杯というのね。四国のお座敷文化よ」
「へえ、いろんな酒器があるんですねえ……。でも、なんていうか、アルコールハラスメントの権化みたいな存在ですよね、これ」
さくらの物言いに、明美は苦笑してしまった。
「そうね。だから今はこうして、下に置くための支え込みで、ちょっと変わった酒器くらいの扱いになってしまったのよ、きっと」
それぞれの杯に日本酒を注いだ店員は、瓶を置いたまま立ち去った。今では瓶の写真を撮る客も少なくはないのだろう。そうした配慮は、動画のための撮影をする明美とさくらにとってもありがたい。
瓶やべく杯に注がれた日本酒を写真に収めるさくらを横目に眺めながら、明美はべく杯を手にして、
「アルコールの強要はよくないけどさ、こういう酒器のなりたちとか使われ方とか、そういう文化を面白がる心は持っていたいよね」
と呟いた。
「ですねえ。あ、この変わった杯、動画のネタにはいいんじゃないですか? 解説とか豆知識的な意味で」
「うーん、確かにそうなんだけど、ちょっと試してみたいことがあるんだよね」
「試してみたいこと、ですか?」
さくらは首を傾げた。
「小説なら、迷わず豆知識としてべく杯のことは会話やエピソードに織り込むと思うのよね。でも、動画だと違うアプローチもあるのかな、って」
「どういうことです?」
「動画って、わたしたちが作って終わりじゃないでしょ。もちろん、小説でも感想をもらったりすることはあるけど、動画にはコメントという双方向性というか、即時性が強い機能があるわけよ」
「ありますね、コメント」
サイトによっては動画画面を直接流れたりするし、そうでないサイトでも動画の下にどんどん書き込みがぶら下がっていったりする。
「動画を見ながら、思い思いにコメントを書き込んで、それを他の視聴者と共有できる、ってことは、わたしたちは『どんなコメントをしてもらうか』ということまで考えて動画を作る必要があるのかな、って思うのよ」
「それは理解できますけど」
「つまりね、あえて『べく杯の情報は出さない』ことで、コメントで知ってる人に言及してもらう、みたいなこともできるんじゃないかな、って思ってさ」
「ああ、なるほど。でも、みんながみんなべく杯のことを知ってるわけじゃないと思いますし、期待した反応が来るとは限らないんじゃないですか?」
「それはもちろんそうだけど、そこはトライ&エラーを繰り返して技術として確立するしかないわよね」
小説とマンガでは有効な演出は違うし、映像作品もその二つとは違った見せ方が必要になる。動画にだって、特有の有効なやり方が必ずあるはず、と明美は考えていた。
ただの映像作品より、動画は『見る者が関われる余地』が大きい。いわば、視聴者のコメントも込みで一つの作品になる、というような側面がある。そこには必ず、面白さにつながる何かがあるはずなのだ。
「まあ、酒器よりも、こっちで尺を取る方が動画的には盛り上がるでしょ」
そう言って、明美は運ばれてきた皿に目を向けた。
「わあ、美味しそう」
さくらもそれを見て、目を輝かせる。
運ばれてきたのは、サワラの西京焼きと、鯖の一夜干しだった。どちらもこんがりと焼かれて、湯気が立ち上っている。どちらも普通の焼き魚よりはかなり小ぶりで、焼き鳥のように串が打ってあった。
「うん、間違いなく西京焼きね」
串を手に持って焼き魚をかじり、明美は言った。
「これ、いいアイデアですよねえ。焼き魚って美味しいけど、どうしても骨があって食べにくいっていう欠点がありましたし」
「まあ、骨が多い魚はこういう形にはしにくいと思うけどね。でも、一串二百円とかでいろんなのが楽しめるのはすごくいいと思う」
片手に焼き魚の串を持ち、もう一方の手でべく杯を持って同時に楽しむ。
なるほど、これは楽しい。
西京焼きの柔らかい味噌の風味と、サワラの柔らかく脂の乗った身はとても美味しいが、それに上乗せする形で手軽さと目新しさがある。
もともと美味しいものに付加価値が上乗せされるのだから、好ましいに決まっているのだ。いつもの居酒屋の常連たちが褒めるのも、よくわかる話だった。
「ここ、他のお料理も期待できそうですね」
さくらが焼き魚の串を手に舌鼓を打ちながら、上機嫌で言った。
「ホントにね。あ、トビウオのたたきだって、これ美味しそうじゃない?」
「ホンビノス貝の酒蒸しとか、〆の奥久慈卵の卵かけごはんとかも気になりますよね」
さすがに、信頼する店に集う人たちの情報は当てになる。
そう実感して、明美は今後はもっとあの店ではアンテナの感度を高めておこう、と心に決めた。
実際、この店には動画を抜きにしても今後も足繁く通うことになるだろう。
少なくとも、焼き魚をメインに飲もうと考えたときには、この店はとてもよさそうだ。ラインナップにも四国や九州の素材や料理が多く、そうした趣を楽しみたいときにも良いかもしれない。
そんなことを考えつつ、明美は今度は日本酒のラインナップに目を移した。どうやら季節の酒などもたくさん揃えているらしく、好感が持てる。
次に頼む酒、その次に飲む酒のプランを考えつつ、明美はべく杯の酒を飲み干した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます