第14話 お通しと敷居

 たとえ仕事の都合があったとしても、やはり寿司屋に行く機会を逃してしまったことは口惜しかったらしい。

「寿司屋の第二回はまだなんですか?」

 さくらにそんなふうに言われてしまっては、無下にはできない。

「じゃあ、これから行ってみる?」

「はい!」

 一転して見せられた笑顔の眩しさに、わかりやすい子だなあ、と苦笑しつつも、そんなところが魅力なんだよなあ、と再確認するのだった。


 昭和の香りを色濃く残す寿司屋のカウンターに、二人並んで座る。

「前回はお得なセットを頼んだから、今回は単品で攻めようと思うのよね。わたしは日本酒を頼むけど、さくらさんは?」

「ええと、今日は焼酎にします。わたくし、ビールと魚介類の組み合わせって、ちょっと苦手で」

「あー、ちょっとわかる」

 そんな話をしているところに、「お通しです」と料理を出された。

「えっ」

 そのお通しを見て、明美は驚きの声を上げた。それはさくらも同様だった。

 その皿には、天ぷらが乗っていた。

 インゲンが数本束ねられたものと、少し小ぶりなエビが一尾。

「お通しに天ぷらなんて初めて見ました」

「うん、わたしも」

 皿の隅に盛ってあった塩をちょん、とつけて、明美はインゲンを食べてみた。

 サクッとした衣の食感は、明らかに揚げたてであることを物語っている。

「普通、お通しって作り置きしておいてサッと出す、みたいなものなんじゃ……」

 明美の呟きに、老齢の大将はカウンターの中からニヤリと笑って、座敷の席に運ばれていく天ぷらの盛り合わせを指さした。

「タイミングがよかったね、お嬢さん方」

 なるほど、と二人は顔を見合わせた。

 あの盛り合わせのついで、というわけだ。

 だが、ついででもこれは嬉しい。

 前回のセットの中には天ぷらも含まれていた。この店は寿司屋でありながら、天ぷらも美味い。それがお通しで出てくるのは幸運としか言い様がない。

「美味しいですね、天ぷら。でも、そういえば、お通しって不思議じゃないですか?」

 さくらに問われて、明美は首を傾げた。

「そう?」

「だって、頼んだわけでもなく出てくるわけじゃないですか」

「あー、まあねえ」

 そういう文化である、と明美は考えていたし、そういうものだ、と最初に受け入れてからは何も疑問に思わなかった。

「わたくし、居酒屋って初めてが明美さんとの顔合わせだったんですよ。ほら、編集さんと三人で」

「あー、何年前だっけ。あったね、そんなこと。あのときが初めてだったんだ」

「はい。だから、お通しのこととか、いろいろ教えてもらえたじゃないですか。今でも明美さんにはいろいろ訊いてますけど。でも、そういう連れて行ってくれる人がいないと、わかんないことも多いと思うんですよね」

「なるほど……」

 言われてみれば、明美自身も、最初に居酒屋に行ったのは大学生の頃で、同じサークルの先輩にいろいろ教わった覚えがあった。

 その後も年上の編集者だったり、先輩作家だったり、ずっと教えてくれる人には事欠かなかった。

「わたくし、怖い常連さんばっかりだったらどうしよう、とか思ってずっと入れずにいたんですよ」

「そんなお店はかなりレアだと思うけど……でも、確かに、居酒屋って独特の文化があるよね。全然知らないと、敷居が高かったりするのかも……」

「そうなんですよ。実際、わたくしも興味はあってもなかなか入る度胸がなくて」

「なるほどねえ」

 案外、教えてくれる知り合いに恵まれず、二の足を踏んでいる人は多いのかもしれない。

「そういえば、最近はお通しもトラブルの元になってるって話よね」

「そうなんですか?」

「ほら、外国人観光客が飲み屋街とかによく行くって話、あるじゃない」

「あ、はい、この前ニュースで特集してました」

「まあ、わかるけどね。観光地より、その土地で日常的に食べてる美味しいものを食べてみたい、ってのは」

「どうしても観光地の名物って、着飾ってるっていうか、よく見せようとしてる感がありますもんね」

「そりゃあ、観光地側だって貧相なものを出したくないのはわかるんだけどさ」

「確かに、海外旅行に行って、現地の人たちが日々楽しんでる美味しいものがある、って聞いたら食べに行きたくなりますよね」

「でも、わたしたちがチップに戸惑うみたいに、日本の居酒屋でも知らなきゃ驚くようなこともきっとあるのよね。その中でも目立つのがお通しなのかなって」

「美味しいんですけどね、お通し」

「まあ、ちゃんとした店ならね」

 飲みものが運ばれてきたタイミングで、とりあえず自家製の松前漬けと、前回で因縁のイワシの酢〆、そして鯨ベーコンを注文しつつ、明美は話を続けた。

「だって、注文してもいないものが勝手に出てきて、代金を請求されるんだもん。知らなければ驚くし、釈然としないものを感じる人も出てくるわよね」

「わたしも最初はすごくびっくりしました。明美さん、そもそもお通しってなんなんですか?」

「それはまあ、諸説あって難しいんだけど、現状では『お店の維持管理費を取る席料に一品つける』あたりの解釈が妥当なんじゃないかしら」

 言いながら、明美は松前漬けをつまんだ。

 刻んだ昆布とニンジンだけの、シンプルな松前漬けだった。ニンジンも昆布もコリコリしていて食感が良い。数の子などの海の幸をふんだんに使った松前漬けも美味いが、素材が少ないのも悪くはない。何より、安い。

「居酒屋ってさ、お酒とお料理はもちろんだけど、内装とかBGMとか、その他にも快適な空間作りみたいなのも必要なわけじゃない」

「そうですね。他の飲食店も同じだと思いますけど」

「そうなんだけど、居酒屋って客一人あたりの滞在時間と注文数の幅があるでしょ。お酒や料理にそのコストを転嫁すると、たくさん頼む人が払う割合と頼む量が少ない人の間で差が開いちゃうのよ。極論、ろくに頼まないで長居する人が一番得をしちゃうわけ」

「あー、いますよね、枝豆とビールだけで粘る人とか」

「まあ、それが悪いとまでは言わないけど、お店としては上客ほど負担が増えるんじゃ困るわよね。だったら、一律定額にして、心付けとして一品出した、って感じなんじゃないかしら」

「なるほど。考えてみたら、ラーメン屋さんとか定食屋さんだと、普通はお客さん一人の単価ってそこまで差は出ないですもんね」

「うん、だから料理のお値段に維持費を加えちゃっても不公平にはなりにくいんだと思うのよ。まあ、この話はわたしも知り合いの店長さんから聞いたのを受け売りしてるだけなんだけどね」

「お店の人も、いろいろ考えてるんですね」

「そりゃね」

 返事をしつつ、今度は鯨ベーコンを一枚口に入れた。

 鯨ベーコンの美味さは、脂の美味さである。鯨の脂は独特の香りと噛み心地で、万人受けはしないものの、好きな人間の心を鷲づかみにする魅力がある。常に食べたいという物でもないが、ときおり無性に食べたくなるような、不思議な食べ物だと明美は思う。

「もしかしたら、そういう需要もあるのかもね」

 冷やの菊正宗で鯨の脂の味を流し込みながら、明美は呟いた。

「需要、ですか……?」

 さくらが首を傾げる。

「居酒屋入門みたいな、まだ入ったことない人に向けて、こんな感じなんだよ、気楽に入って大丈夫だよ、みたいな動画」

「あー。明美さんと知り合う前のわたくしには、すごくありがたいかもしれません」

「結構いるかもしれないよね、そういう人って」

「個人的にはさ、居酒屋が好きでああいう動画を作ろうって決めたわけじゃない。だったら、何か居酒屋業界に貢献できるなら、そのくらいはしたいじゃない」

「ネタにさせてもらってる身ですもんね」

「そうそう」

 もう少しつまみを頼もうか、それとも早々にお寿司を頼もうか、とメニューを眺めながらも、明美は次の動画の構想を頭の中で組み立て始めていた。

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