第13話 思い出の店
かつて、明美にはとても気に入っていた店があった。
その店は、明美が小説家としてデビューした直後に、先輩の作家に連れてきてもらった店だった。
その先輩も、担当の編集者に教わった店なのだという。
明美自身、同期の作家や後輩の作家を連れて来たこともある。この店なら、連れて行った相手にも喜んでもらえるだろう。自信を持ってそう思える店だった。今なら、いつもの居酒屋をそうした用途でも使うが、いつもの居酒屋と出会うのはデビューから数年後のことなのである。
今通っている居酒屋よりは価格帯がやや高級で、置いている日本酒のラインナップも一段階上だった。
もちろん、価格帯の違いは店の格の違いというわけではない。
日本酒には強くこだわり、日本酒に合う肴にも徹底的にこだわるという、客に飲ませる気しかないような姿勢はどちらも同じで、そういう店が明美は好きなのである。
メニューにない日本酒も積極的に仕入れてきては出すという一期一会感もあり、いっときはかなりの頻度で通っていた。
編集部が近くにあり、打ち合わせなどの帰りには必ず寄るし、打ち合わせはそれが楽しみでワクワクする、という時期が確かにあった。
酒席でそんな昔話をしながら、その頃には出会っていなかった友人と美味しい料理と酒を楽しむのも、またオツなものである。
「その店は色んな料理が美味しかったけど、特にだし巻き玉子が美味しかったのよ。ウニが中心に巻いてあるのがあってさ」
「え、そのだし巻き、贅沢すぎませんか……?」
「まあ、そうね。もちろん、それなりのお値段はしたけど」
今日は、さくらも日本酒である。今日の店は特に日本酒にこだわっている、と明美から聞いて、じゃあ同じものを飲む、とのことである。
ポテトサラダとマグロの大和煮、そして殻付きアーモンドの三点盛りのお通し。
それだけでも飲ませる気満々の出だしだが、次いで運ばれてきた刺身の盛り合わせは、カンパチ、メジマグロ、イサキ、干しアワビ、鯛の昆布締めが並んでいる。
「これは確かに、日本酒にして正解でした」
刺身を見て、さくらが言う。
そう言って持ち上げた猪口に満たされているのは、十四代の本丸である。明美が飲んでいるのも同じものだ。日本酒については任せる、とさくらに言われて、明美が選んだ酒だ。
フルーティで飲みやすく、人気が高い酒だ。明美自身、かなり好きな酒である。
「わ、美味しいですね、このお酒……!」
さくらの素直な反応が、選んだ明美としても嬉しい。
今では人気が上がりすぎてネットで探せばプレミア価格が付いてしまうクラスの日本酒だが、この店ではそれほど高い部類ではない。
その酒を造っている蔵元は、経営が難しかった頃に取引してくれたところには今も義理堅く優先して卸している、という話も聞く。もしかしたら、この店もそうした経緯で仕入れているのかもしれない。
「それで、そのお店、どこにあるんですか?」
「うん、まだあるなら、さくらさんを真っ先に連れて行くんだけどね」
苦笑する。その苦笑は、明美は自覚していなかったが、少し寂しさも混じってしまったかもしれない。
「え……」
「いいお店だったんだけどね。お店の中心になってたスタッフさんが怪我をしたことがきっかけで、営業をやめちゃったのよ」
「それは残念ですね……」
「とはいえ、同じオーナーさんがやってるお店が他に二つほどあってね」
「あ、もしかして、このお店って」
「うん。そのうちの一軒。ここの他のもう一軒はコース料理専用の、ちょっと普段使いにはハードルが高い高級店なのよね。なくなっちゃったお店は、こことその高級店の間くらいのお値段かな」
「なるほど……」
そして、さくらが鯛の刺身を一切れ食べる。
「あっ、昆布の香りがすごく良いです……!」
「でしょ」
マグロも、張りがあって歯応えがいいにも関わらず、とろけるような柔らかさがある。干しアワビも一度干したことで倍加した旨味と、柔らかさと弾力を兼ね備えた歯触りが素晴らしい。
「この店、名前に『とり』とか付いてて鶏料理を推してるんだけど、コースのお店の食材と一緒に仕入れているみたいで、鮮魚もすごくいいのよ」
「そうなんですか。じゃあ、唐揚げとかもあとで頼みたいですね」
「唐揚げといえば、前にここで普通のブロイラーの唐揚げと地鶏の唐揚げを一緒に頼んで食べ比べる、とかやったのよね」
何気なく明美がそう言った瞬間、さくらが眉を吊り上げた。
「なんですかそれ! なんでそのときに呼んでくれなかったんですか!」
「え、だって、まだ知り合ってなかったし……」
「っていうか、明美さん、こないだの本でそんな話、書いてませしたよね!」
「うん、書いたけど」
「まさか、そのときも取材をしたとか……?」
「してないしてない! 完全に記憶で書いたわよ! 取材するならさくらさんを呼ぶに決まってるでしょ!」
そう言われて、ようやくさくらも少し落ち着いたらしい。
「あ、はい……。それもそうですね」
「まあ、今日それを試してみてもいいけど、それは改めて別の機会に動画のネタにするっていうのはどう? ここはハイボールも面白いのがあるから、日本酒で始めちゃった今日より、最初からそのつもりで来た方がいいと思うのよ」
「あ、それがいいかもしれないですね。そういう目的ありきの飲み方も面白そうです」
と、そんな話をしているところに店員がやってきた。
「賑やかで楽しそうですね。こちら、はぐら瓜の浅漬けです」
そう言って、コトッと皿を置く。
「すみません、ちょっと昔話をしてまして。あ、これ、初めて見るお酒ですよね。今まで見たことないですけど」
「農口尚彦研究所ですか。これ、すごいお酒ですよ。高名な杜氏さんがクラウドファンディングで資金を集めて、若い人たちを集めて造ったお酒なんですよ」
「マジですか」
「お飲みになりますか? かなり味がしっかりしているので、負けない味の煮魚なんかオススメですが、鯛のかぶと煮でもお持ちしましょうか?」
「さくらさん、それでいい?」
「あ、はい。今日は明美さんにお任せします」
「じゃあ、それで。あと、地鶏の炭火焼きも」
「はい、かしこまりました」
注文を受けた店員が去っていく。
「あの人だよ」
その店員の背中を見やって、明美は小さな声で言った。
「え? あ、なくなっちゃったお店の怪我しちゃった人ですか?」
「そう」
「ああ、無事に治って復帰してるんですね。よかったです。でも、それでも、明美さんが好きだったお店は結局なくなっちゃったんですよね……」
「まあ、今思えば、その判断は正しかった気がするけどね。不景気続きでニーズも両極化してるでしょ。中間的なあのお店のニーズはどんどん減ってただろうし、現にこうして二店舗に注力して繁盛してるわけだし」
「そういうものでしょうか?」
「そりゃあ、もしなくなってなかったら、なんて誰にもわかんないけどさ」
「確かに。でも、そんなに美味しいお店なのに、経営が難しかったかも、なんてのはあんまり信じたくないですね」
「うん、そうね。でもさ、わたしらの業界でもちょくちょく言われるじゃない。『面白ければ売れるはず』とか『クオリティさえ高ければ人気は出るはず』とか」
「あー、よく言われますね」
さくらが苦笑する。実感が伴った苦笑である。
「そりゃあ、質は大事だよ。それは間違いないけどさ、それって人目に触れた後の話なんだよね。どんなにハイクオリティでも、誰にも気付かれなかったら人気なんか出ないし、情報が多い現代ではそのまま埋もれてく作品なんか山ほどあるわけで」
「ですね。その理屈が正しいなら、隠れた名作なんて言葉は生まれないですし」
「きっとお店も一緒なんだよ。どんなに美味しくても、立地とか値段とか、いろんな理由で入ってすらもらえなければ、やっぱり正当な評価を受けるのは難しいと思うのよね」
「それは……確かに」
「もちろん、わたしみたいに続けてほしかったお客さんもいただろうけど、少数の熱烈のファンだけじゃ支えきれないものってあるわけでさ」
「身につまされますね……」
そんな話をしながらお互いに酒を注ぎ合い、刺身を食べ終わった頃に、先ほどの店員が鯛のかぶと煮を運んできた。
大きな器に真っ二つに割られた鯛の頭と、尻尾、そして煮汁の色に染まったゴボウが盛られており、上にたっぷりの針生姜が飾られていた。
「わ、すごいですね……!」
「これは美味しそうね」
二人の反応に、店員も嬉しそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。
「最初に頼まれたお酒だと、繊細すぎてこのかぶと煮には負けてしまうかもしれません。すぐに農口尚彦研究所もお持ちしますので」
丁寧で気持ちのいい対応と、美味しい酒、料理。
あの店同様、良い店だ、とあかりは思う。
好きな店も、いつまでも続くとは限らない。人気だけでなく、後継者問題や、他にも店を畳む理由などいくらでもあるだろう。
だからこそ、好きな店には通えるうちに通っておきたい。
鯛の頭に箸を入れながら、明美はしみじみとそう思うのだった。
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