第9話 寿司屋の刺身
『ごめんなさい、今日はお仕事の打ち合わせが入っちゃってて、取材には行けそうにないんです』
さくらから、そんな返信が来ることもある。
当たり前の話だが、明美もさくらも、お互いとだけ仕事をしているわけではない。取引先によっては、相性のいいコンビとして認識してくれているし、優先的に組ませてくれるところもあるが、当然ながら文章のみ欲しい、逆にイラストのみ欲しいという仕事相手も少なくはないのだ。
それでも、じゃあ取材を先送りにできるかというと、なかなかそうもいかない。
明美にも仕事はあるし、現在は〆切がないとはいえ、それはつまり収入の当てがないということである。早いところ企画を通して、〆切を獲得しなければならない。そのための企画書作りに割く時間も重要で、予定がずれ込めばその辺がグチャグチャになってしまうのだ。
「まあ、取材っていってもお互い自腹で飲み食いするだけだし」
これが動画で収入があって、そこから取材費を捻出しているというのなら予定を調整するべきかもしれないが、単に一人で食事をしに行ってついでに写真を撮るだけなのだから、気に病む必要もない。
『じゃあ、今回は一人で行ってくるね。今日行くお店がよかったら、次は一緒に行こうね』
そんな返事を送信して、ため息を一つ吐き、明美は上着を着て、ポケットに財布とスマホをねじ込んだ。
「今日は一人かあ……」
寂しげに呟いて、明美は一人家を出た。
その日は、二人で寿司屋に行く予定だった。
そこまで極端に高い店ではないが、それでも、一人で行くことには後ろめたさを感じてしまう。価格帯に関係なく、どこかで寿司は特別な食べ物、という意識が明美の中にはあるのだ。
その寿司屋は、いつもの居酒屋よりも少し狭いくらいの規模だった。一〇人ほどが座れるカウンター席があり、お座敷は四人くらいで囲めるテーブルが三つほど。
カウンターにはケースの中にネタが並んでおり、年季が入った店内の様子と、小さめのボリュームで演歌が流れている辺りに昭和っぽさが残っている。
カウンターの中には白髪の大将と、まだ三〇前後くらいのご子息らしき男性が並んで仕事をしており、「いらっしゃいませ」と席に案内してくれた年配の女性は大将の奥様であろうか。
一家でやっている、という空気感がそこはかとなく感じられる。
「ええと……」
壁のあちこちに貼られた短冊を見やり、価格帯を確認する。
握りでは、一番高い『極上』が四〇〇〇円ほど。しかし、並みや上くらいなら一〇〇〇円から二〇〇〇円くらいで食べられる。肴も五〇〇円から七〇〇円くらいの品が多く、いつもの居酒屋と近い感覚で頼めそうである。
「お酒を召し上がるなら、お得なセットもありますよ」
お茶とおしぼりを持ってきてくれた奥様(推定)が、親切にそう教えてくれた。
「セットですか」
メニューを見れば、店の名前を冠したセットの記載があり、お酒(地酒は除く)とお通し、刺身、天ぷら、〆の握りで三〇〇〇円しないくらいの値段である。
これはいいな、と明美は即決した。もし足りないようなら、一品くらい足しても満足感は高そうである。
「地酒はダメなんですか……」
貼ってあった短冊の『久保田』『梅一輪』『緑川』『玉乃光』などの文字を見ながら、残念そうに呟く。
「日本酒なら、菊正宗なら二合でもいいですよ」
カウンターの中から、大将が言った。
「あ、じゃあ菊正宗の冷やを二合で、このセットをお願いします」
日本酒で単に『冷や』と言った場合は、常温のことを意味する。冷蔵した冷酒とは別物であることは知っておきたい。そもそもが、冷蔵技術がない頃の『燗』に対する概念なのである。
実際、お通しの酢の物と一緒に出てきた徳利に入っていた菊正宗は、常温の正しく冷やの日本酒だった。
暑い時期には、ひんやりとした口当たりのキリリと冷えた日本酒が美味しい。香りも落ち着くので、とても飲みやすくなる。
寒い時期には燗の熱さそれ自体が美味しい。また、温まると湯気とともに香りが立つため、口に入れる前から日本酒の香りが広がる。
その両者に比べると、常温の酒というのは特徴がないように思えるが、そのものの美味しさを楽しめるのもまた事実だ。温度という余計な情報がない分だけ、酒自体の旨味、甘味、コク、香りなどを純粋に味わうことができる。
菊正宗は安価な大衆酒ではあるが、その味わいまでがチープなわけではない。むしろ、値段を考えたらこの味は相当にクオリティが高い、と明美は思っていた。
そして次に出された刺身の盛り合わせ。
マグロの赤身、エビ、ボイルホタルイカ、そして青魚、いわゆる光り物と言われるものの四種が盛り合わせてある。
――この青魚、なんだろう。
まず候補に挙がるのは、アジ、イワシ、秋刀魚。
時期はまだ寒い春と冬の間。言うまでもなく秋刀魚の旬は秋、アジとイワシも、種類にもよるが、ほとんどは初夏から夏にかけてである。
明美が知る限りでは、今はどれも当てはまらない。とはいえ、流通的に、秋刀魚はさすがにないだろう。
――見た感じはイワシっぽいけど……。
一口食べてみる。
驚いたのは、酢で〆てあったことだった。寿司屋では珍しくないのかもしれないが、寿司屋に通い慣れていない明美にとって、酢で〆たものが言及なく刺身として出されるというのは初めてのことで面食らってしまった。
――美味しい……! しかも、これ、お酒に合いすぎる……! けど、この酢が味の判別にとっては邪魔というか、かなり混乱する……!
青魚特有のクセは確かに感じる。しかし、その臭みを美味さに転嫁する酢の仕事ぶりが見事すぎて、全部が『美味しい』という情報に上書きされてしまうのである。
これは、お店の人に訊いてみるべきか、と顔を上げるも、ちょうど家族の四人連れと常連らしき中年の夫婦が席に着いたところで、忙しそうなタイミングになってしまっていた。
そのままなんとなく訊くタイミングを逸してしまい、野菜たっぷりの天ぷらの中に大振りなエビと季節的に嬉しいフキノトウがあったことの喜びで、その質問はどこかへ飛んでいってしまった。
結論から言えば、寿司屋での飲みは大満足に終わった。
〆の握りは控えめな量で、もしかしたらさくらには物足りないかもしれない。しかし、飲んだあとに〆として食べる量であると考えれば、明美にとっては多いくらいだった。
刺身でも天ぷらでもエビが美味しくて、ついつい『エビの塩焼き』を追加で頼んでしまったくらいである。それと、地酒も一杯だけ追加して、それでもいつもの居酒屋での飲み食いより少し安いくらいなのだから、満足しないはずがなかった。
これはいいぞ、と創作意欲も高まり、帰るなり動画作りに着手したのだが、その満足感に落とし穴が潜んでいるとは、ほろ酔い加減の明美は知るよしもなかった。
さくらが明美の家を訪ねてきたのは、寿司屋での動画をアップした翌日のことだった。
「もう、SNSに『穴があったらその中で死にたい』なんて書き込むから、心配したじゃないですか」
「ごめんごめん」
勢いで書き込んでしまったのだが、もちろん本気ではない。死にたいくらい恥ずかしい思いをした、という意味である。
「まあ、気持ちはわかりますけど。さすがにイワシを間違ってアジって言っちゃったのは恥ずかしいですもんね」
「言わないでよ、もう」
そう、動画でアジだと言ってしまった刺身が、実はイワシだったのではないか、という話になっているのだ。
視聴者というのは恐ろしい。
中には本職の板前や仲買人がいてもおかしくないのである。
そうした詳しい人たちからのコメントで「イワシだろう」とたくさんのツッコミが入ったのだ。もちろん、それは本における読者の存在も同じで、変わらずそういう『怖さ』はある。しかし、動画などのサイトでは即座にコメントという形で直接指摘が来る。
「菊正宗二合がね……すいすい飲めちゃうからペースが速くなりすぎたのもきっと大きな原因なのよ……」
「明美さん、いくらお酒が強いけど、過信はダメですよ」
「うん、反省してる。まあ、次に行ったときにでも確認は取るつもりだけど、十中八九あれはイワシなんだろうなあ……」
とはいえ、指摘を受けた瞬間の「しまった、恥ずかしい!」という感情も、一晩経ってみれば「これはこれで面白いのでは」と思い始めている辺り、明美も根っからの作家であり、エンターテイナーということなのだろう。
即反応がある、というのは、それも込みで計算したエンタメの在り方が模索できる、ということでもあるのだ。
「次からはちゃんとお店の人に確認を取って、メモも取って、間違うときも狙って面白くなるような間違いを心がけることにする」
「明美さん、そういうところですよ……」
呆れ顔でため息を吐くさくらを他所に、明美は「さて、次はどのお店に行ってみようか」と、近場の店をネットで調べ始めるのだった。
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