第5話 ホタルイカ
二本目の動画を公開する頃には最初の動画は五〇〇〇再生を越え、二本目の動画も一本目と同じくらい再生回数は伸びている。順調な様にも見えるが、再生回数の伸びは緩やかになっていた。
趣味でやるだけなら、初めての動画にこの反応は申し分ないだろう。しかし、動機自体が少し異なる明美にとっては、満足するには足りない数字だった。
贅沢な感想なのかもしれないが、もうひと伸びというか、もう少し爆発力を出すことは出来ないものか、というのが目下の明美の悩みである。
「それはさすがに、高望みすぎるんじゃないでしょうか」
いつもの居酒屋で、明美のそんな話を聞いたさくらは苦笑した。いつものように、飲み食いしながらの取材兼打ち合わせである。
「いや、結構問題なのよ。反響がないなら、さっさと終わらせて、反省点を活かした別シリーズを立ち上げることも簡単だけど、なまじ反応があるとなかなかやめるってのも勇気が要るじゃない」
反応があるということは、少なからず期待されるということでもある。
数字やコメントでダイレクトに反応が感じられる分、斬り捨てるのにはかなりしんどい決断が必要になる。自分の作品を好きだと言ってくれている人を、なかなか無下にはできない。
「あー。でも、五〇〇〇人が見てくれたなら、まずは上々だと思いません?」
「それも数字のマジックでねー。同じ人が何回も見てる可能性はあるし、最初の一〇秒で見るのやめちゃった人も同じ一でカウントされるからね」
「それは確かに……。でも、少なく見積もってもギリギリ四桁くらいの人は見てそうだし、少しくらいは本の宣伝とかを入れてもいいんじゃないですか?」
「あー、それねー。わたしも考えてはいたんだけど、ちょっと規約とかを読むと難しそうなのよね。ボイスロイドには商業利用の禁止、っていう一文があってさ。商業流通に載ってる書籍の広告や告知って、どう考えても商業利用じゃない」
「そんな規則があるんですか……」
「うん。どこからが商業利用になるかはちょっとわからないけど、変に冒険する段階でもないでしょ。一応、別途契約料を支払って商業で使えるようにする手もあるから、それをやっても採算が取れる段階になったら考えればいいかな、って」
「いろいろ難しいんですね」
「そうなのよ。だから今は、人気を取ることを最優先に考えましょ」
「ですね」
「まあ、練習も兼ねて、続けてみるしかないかもね。継続するうちに火が点くかもしれないし。あとは更新頻度かな。今は週一ペースでやってるけど、これ、〆切抱えたりしたら絶対不可能な作業ペースなのよね」
「ですよね。わたくしが手伝うにしても、どこかの段階でペースを落とすことにはあると思いますけど」
「最初のうちは維持したいよね。更新頻度は絶対に人気に直結すると思うから」
「頻度のためにお酒も飲まなきゃいけない、って口実としては最強ですもんね」
「そう、それもある」
二人して、くすくすと笑う。
そんなところへ、
「はい、ホタルイカの沖漬けと、ホタルイカの天ぷらね」
と、顔なじみの店員が料理を運んできた。
いつものように日本酒を飲んでいる明美は沖漬けを、生ビールを楽しんでいるさくらは天ぷらを頼んだのだった。もちろん、ある程度のシェアは大前提である。
春の味覚であるホタルイカは、居酒屋で季節を感じることができる代表的な食材かもしれない、と明美は思う。沖漬けなどは保存も利くし旬ではない時期の流通もあるが、良いのが入ってきて店側からオススメされると、ああもうそんな時期か、と思うのだ。
沖漬けはいわゆる醤油漬けである。元々は船に醤油樽を持ち込み、沖で獲れたばかりの魚介類をその場で醤油に漬けたことに由来するが、今では醤油漬け全般のことを指す場合が多い。特にホタルイカは内臓に寄生虫がいるため、下処理として一度冷凍する必要がある。
小さなホタルイカの場合は、一匹をまるごと一口で食べられるのが魅力である。
身も、肝も、一口で味わえるのだ。つるりとした食感とともに口に入ってきたホタルイカが、醤油の味と肝の旨味を撒き散らしながらも、小さいながらもイカの噛み応えを歯に残して喉の奥へと消えていく。
そして醤油と肝の味が舌に残っているうちに日本酒を口に含む。米の甘味と吟醸香が加わって、濃い後味がえもいわれぬ味わいに昇華するのだ。
他の種類も含めてイカは日本酒に合う、と思う。その中でも、ホタルイカは一番好きかもしれない、と毎年のように明美は思うのだ。
「天ぷらも一つどうぞ。わたくしも沖漬けを一匹頂きますけど」
「もちろん、どうぞどうぞ」
天つゆにくぐらせたホタルイカの天ぷらは、沖漬けとはまったく違う食感である。火が通ったホタルイカは、ふっくらとして、イカらしい弾力を持つようになる。衣の食感と、弾力の奥にある肝の味は、熱によって生臭みが半減し、良い具合にクセが抜けて品がよくなる、といった趣だ。
「うーん、沖漬けは美味しいですけど、ビールだと生臭さが気になりますね」
「あー、かもね。ビールだと、刺身も合わないって言う人もいるもんね。よかったら日本酒、一口飲む?」
「いいんですか? じゃあ、遠慮なく頂きます」
相性というのは、とても重要である。人の好みはそれぞれだが、揚げものには日本酒よりビールの方が合うように、醤油の味わいとも魚介の香りとも、他の酒よりは日本酒に軍配が上がる、と明美は思う。
長いこと愛されてきた組み合わせなのだ。愛され続けた時間の中で、合うように合うようにと工夫が凝らされてきた、というのもきっとあるのだろう。年季が違う。
そんな折、明美にとって右側、左のさくらと反対側のとなりに座った客が、
「ホタルイカの素干し、ありますか? それと、九頭竜の熱燗を」
とカウンター越しにママさんに訊いた。
まだ三〇そこそこくらいの男性で、知り合いでこそないものの、何度かこの店で見かけたことがある顔である。明美やさくらと同じくらいの頻度で通っている常連なのだろう。
「素干しでよろしいの? 今日は沖漬けとかボイルとか、お刺身にできるのもありますけど」
生食については寄生虫の危険があるホタルイカだが、方法がないわけではない。冷凍処理や内臓の除去など、手順や表示などが厚生労働省によって通知されている。
「いや、どれも美味そうなんですけど、素干しがいいんです。俺、イカは干したヤツが一番美味いと思ってるんで」
「はい、じゃあ、すぐに炙ってお出ししますね」
「あ、いえ。そのままで。これで炙りながら食べるんで」
そう言って、男性の常連客はポケットからライターを取り出した。細かい彫刻が各所に施された、高級そうな代物だ。
「あら、あなた、煙草をお吸いになるの? 吸っているところ、見たことない気がしたけれど」
ママさんが首を傾げた。
「吸いませんよ。人生で一度も吸ったことないです」
常連客が笑う。
「え? 煙草も吸わないのに、そんな高価そうなライターを持っているの? 使い捨てもできないから、お手入れも大変でしょうに」
ママさんの顔は依然として不思議そうだ。横でそれとなく聞いていた明美もさくらも、ワケがわからなくて顔を見合わせる。
「いえね、元々、こういう小道具っていうか、ガジェットっていうか、好きなんですよ。特にこのライターは一目惚れでして。でも、道具って使ってこそじゃないですか。煙草を吸わない自分が買っても、このライターに申し訳ないなって思って、わりと長いこと購入に踏み切れなかったんですよ」
愛おしそうにライターの彫刻を撫でながら、常連客は言葉を続ける。
「でも、あるとき、他の店で、ホタルイカの素干しに百円ライターを添えて出すのを見かけたんです。それを見て、あ、自分にもライターを買う理由ができた! って思っちゃいまして、すぐにその店を出て買いに行ったんですよ」
「じゃあ、そのライターはホタルイカの素干し専用なの?」
思わず、明美は口を挟んでしまった。
「あ、ごめんなさい。聞こえちゃったんで、つい」
「いえいえ」
常連客は照れ臭そうに笑った。
「変ですよね。このライターにも、もしかしたら申し訳ないことをしてるのかもしれません。干物を炙るためのライターなんて、珍妙な役割を背負わせてしまったわけで。でも、このライターで炙ると、他ので炙るより格別に美味い気がするんですよ」
「どんな用途でも、大切にしてもらってるならきっとそのライターも幸せだと思いますよ。はい、素干し」
そう言いながら、ママさんは常連客に小鉢に盛ったホタルイカの素干しを出した。
干されて乾燥したホタルイカは、本来のふっくらした厚みを失ってぺっちゃんこになってしまっている。
常連客は素干しの一匹をつまみ上げた。足の部分を持って、ライターに火を点け、胴の部分を火にかざす。
チリチリと音を立てながら、ホタルイカが徐々に反り返っていく。平たいホタルイカがお辞儀をするような反り方をしたところで、常連客はライターの火を消し、パクリと一口でホタルイカの素干しを口の中に入れた。
干されたイカは、その旨味を何倍にも凝縮させ、増加させる。特にホタルイカは丸々一匹分であり、肝もそのまま干されているので、イカを丸々味わうことができる。その旨味たるや、格別だろう。
ただでさえ酒飲みにとっては理想的な肴だというのに、運命的とさえ思える道具を使う喜びまで加味したら、その美味しさはどこまで跳ね上がるのだろうか。
――いいなあ、そういうの。
幸せそうな常連客の顔をチラリと見て、明美は、酒の楽しみ方には数限りない可能性があるのだと再確認したような気がした。
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