第4話 蕎麦屋の鴨
さくらは、PCの画面を凝視していた。
明美の家で、明美の肩越しの画面をである。
「で、ここにこうやって写真とか絵のデータを並べて、こっちのウィンドウで位置を調整するの。このソフト、ホントによくできてて、こうやって文字にエフェクトをかけたり、ちょっとした演出ならこれだけでできちゃうのよね」
「なるほど」
動画の編集について、一応自分も知っておいた方がいいだろう、と考えて、さくらは教えてほしい、と頼んだのが昨日一緒に飲んだあとの別れ際だった。
動画内の奥行き、背景と人物などをの素材をどう並べたらいいのか、というレイヤーの話などは、イラストを描くのに使っているソフトに類似点があって、さくらにも理解しやすかった。
ただ、そこに音声や時間の管理が加わり、さらに仕上げにエンコードをするくだりなどでは、うなずいてはいたが、半分くらいしか理解できていない自覚があった。
「まあ、やってみないとわかんない部分も多いと思うよ」
笑って明美が言う。おそらく、さくらの理解度などは見透かされていたのだろう。
「当面はわたしが動画は作るから、さくらさんはもう一人のキャラの立ち絵と、追加の表情に専念してね」
「結局、もう一人も出すんですか?」
「うん、せっかくボイスロイド二つ買ったんだし、使おうかなって」
さくらは、明美の言葉を聞きながらボイスロイドのパッケージを二つ、手に取った。一つはすでに動画に使用されたボイスロイドで、銀色の髪のおとなしそうな女の子の絵が描いてある。もう一つは眼鏡をかけた女の子で、そちらは新製品なのだそうだ。
初心者にも使いやすいと評判のものと、最近発売された新商品、その二つをとりあえず買ってみたのだという。
買ってしまったのなら仕方ない。使わないのはもったいない、とさくらも思う。
「すでにデザインが決まってる女の子の絵で個性を出すのって、難しいんですよね」
元のデザインから離れすぎれば、キャラクターを認識してもらえない。しかし、そのまま描いても、自分の個性は出しにくい。
「わかる。それ、口調とかでも一緒なのよ。ボイスロイドって、性格とかもある程度個性が定まっちゃってるから、大きく崩すのは勇気が要るし、崩すにしても元のキャラをしっかり理解してないと面白くならないのよね」
「そういう意味では、二次創作に近いのかもしれないですね」
「うん、近いっていうか、ほとんどそのものよね。少し慣れてきたら、声だけ借りて一からキャラをこっちで組むことを考えるのも手かもしれない」
しかし、そのためには、ボイスロイドのキャラ人気に頼らず人気を集める努力が必要になる。そのためには、今作っている動画で知名度を上げておくことが望ましいわけだ。
「先は長そうですね……」
「それはそうよ。始めたばっかりだし。それより、ごはんはどうするの?」
データを保存し、編集ソフトを閉じながら明美が訊いた。もうすっかり日も暮れる時間になってしまっている。
「あ、考えてませんでした……」
「じゃあ、ちょっと取材がてら、近くのお店に食べに行かない?」
明美が立ち上がって、上着を探し始めた。
その店は、いつもの居酒屋ではなく、最寄り駅近くの蕎麦屋だった。蕎麦居酒屋、との看板に偽りなく、すでに何人ものサラリーマンらしき客が天ぷらや冷や奴、枝豆でビールや日本酒を楽しんでいる。
「まだ開店直後くらいなのに、今日は混んでるわね」
さくらは初めて来た店だが、明美は顔なじみであるらしい。
「いらっしゃい、実は近くのお蕎麦屋さんが商売を辞めちゃってね。ここ何日かは、そっちから流れてきてるのもあるのかもしれないね」
白髪になった老齢のご主人が、そう言ってさくらたちを席に案内してくれた。
そう広くない店内は相当に年季が入っている。テーブルや椅子がところどころ傷んでいたりするが、それも趣と言えないこともない。
「近くのお店って、理容店のとなりの? そういえば来るとき通ったけど、シャッター降りてたかも」
「そうそう。張り紙出てなかった?」
うーん、と明美は首を傾げている。
「あの、わたくし、見ましたよ。親の介護とお店が両立できなくなったから閉店します、って書いてありました」
「え、ウソ、ホントに?」
「そうなんだよね。うちも他人事じゃないよ、俺が蕎麦を打てなくなったらこの店は終わりだからね」
「親父さんの跡を継いでくれる人とか、いないの?」
明美の質問に、ご主人は首を横に振った。
「長く務めてくれる若いのがいてくれれば喜んで店を譲るんだけどねえ。そういう人はいないし、今から教えるんじゃ間に合わないだろうねえ」
「そんな、もったいない。この店、美味しいし、常連さんもたくさん付いてるのに」
「でもねえ、若い人に継がせるのも気が引けるんだよ。私らはもういい歳だから、生きていくのに充分な稼ぎがあればいいけど、若い人だと結婚とか子育てとか、お金がかかることもたくさんあるでしょう」
「え、こんなに繁盛してるのに、儲かってないんですか?」
そんなバカな、と思ってさくらは訊いた。訊いてから、不躾な質問だったと思ってうつむいてしまったが、
「いいときばかりじゃありませんよ。飲食店は浮き沈みも激しいですから。特に、代替わりなんかするとね」
とご主人は朗らかに笑った。
「ああ、確かに、味が変わったりして離れる客が出てきたりするよね」
うんうん、と明美がうなずく。
さくらはメニューを見やった。二百円台や三百円台のちょっとした肴も多く、しかも冷や奴や天ぷら、〆の小盛り蕎麦などが千円程度で食べられるお得なセットなどもある。この安さが店の人気を支える一因であることは、おそらく間違いないだろう。
「特に最近は飲食は厳しいですからね。若い人に苦労を強いるのも申し訳ないですよ。それで、飲み物はどうします?」
「あ、えーと、わたしは日本酒かな。幻の瀧でも貰おうかしら。さくらさんは?」
「わたくし、お蕎麦屋さんで飲むのは初めてなんですけど、何がいいでしょうか?」
「それなら、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りなんていかがですか。蕎麦屋以外ではなかなか飲めませんよ」
ご主人に勧められて、さくらは「では、それをください」と答えた。
「じゃあ、今、お酒とお通しを持ってきますね」
ご主人はそう言って調理場へと入っていった。
「さて、お料理はどうしよっか。蕎麦屋で飲むなら、板わさとか渋めなのが定番だけど、鴨肉とか天ぷらも美味しいよ」
「あら、鴨! 素敵ですね」
「鴨南蛮とかで使うから、老舗ほどちゃんとした仕入れのルートを持ってるだろうし、いい肉を使ってるんじゃないかな」
「鴨なら、肉を焼いたのとつくねもありますよ」
ご主人がそう言いながら、運んできた日本酒の小瓶とガラスのぐい呑み、蕎麦湯割りのグラスと、お通しの蕎麦味噌の器を二人の前に置いた。
「わあ……」
さくらにとって、蕎麦湯割りは初めて見る飲みものである。湯気を立てる少し白く濁った液体には、黒っぽい小さな実がいくつも浮いている。そして、底の方には茹でた蕎麦から出たのであろう白い粉が少し沈殿していた。
「浮いてるのは蕎麦の実ですよ。このお通しの蕎麦味噌にも使ってますけど、麺のお蕎麦の原材料ですね」
「そんじゃ、乾杯」
手早くぐい呑みに日本酒を注いだ明美と、グラスをぶつけ合う。
「頂きます」
早速、さくらは舐めるように一口飲んでみた。
熱さと蕎麦のいい香りが口と鼻に充満するようだった。カッとするような感覚は、熱い蕎麦湯のせいか、蕎麦焼酎のアルコールのせいか。ときおり口に入ってくる蕎麦の実を噛めば、いっそう香りが強くなる。
「すっごいお蕎麦の香りですね」
言われた通り、これは蕎麦屋でなければ味わえないだろう。
「お料理はどうします?」
「わたしは板わさとか焼き海苔とか頼むけど、鴨、行っとく?」
「はい。鴨焼きとつくね、両方ください!」
少しして運ばれてきた鴨は、どちらも甘辛い味付けで焼いたものを溶き卵につけて食べる、というすき焼き風だった。どちらも焦げ目の付いた焼きネギが添えられている。
鴨には、鶏とは明らかに違う野趣みにも似た独特の香りがある。そして、その旨味の最たるものは脂の甘さだ。
口に入れれば、独特の弾力と、噛むほどに染み出してくる脂と旨味、そこに甘辛いタレと溶き卵のまろやかさが混ざり合って、口の中に幸せが生まれる。
つくねの方も味付け自体は同じだが、食感が違うと味の印象も全然違ってくる。ふわりと解けていくような感覚は、まるで同じ材料からできているとは思えない。
「こんなに美味しいのに、跡を継ぐ人がいないんですね……」
「まあ、こればっかりは外野が口を挟めないわよね。でもさ、どこかのラーメン屋さんで、常連だった若いファンが閉店を聞きつけて弟子入り志願して、見事に味を受け継いだ、みたいな話も聞いたことあるよ」
「この店でもそういうことになる、ってことですか?」
「いや、それはわからないけど、そういうことも起こりうるかもよ、って話」
板わさ――かまぼこの刺身をパクリと食べて、明美は日本酒をちびりと飲んだ。
「飲食店ってさ、そもそも生き残りが厳しいのよ。データを取った年代にもよるけど、五年のうちに廃業する率が二割近くあるらしいのよね。このくらいの規模のお店だと、強みは店主と奥さん、育った子どもが手伝う、みたいな形で人件費をかけずに回せるのが一番のメリットなんだけど……」
「なるほど、跡を継ぐ若い人が独り身だと、従業員をアルバイトとかで雇わなきゃいけないんですね……」
そうなれば、当然、人件費をどう賄うか、という計算が必要になる。
さくらはメニューを見やった。サラリーマンの味方です、と言わんばかりの安いおつまみの数々。果たして、この価格からそうした人件費まで捻出することは可能なのだろうか。
「案外、お店がなくなるのって普通のことなのよね。思った以上にちょっとしたことで傾いちゃったり、気がついたらなくなってたりするの。だから、なるべく好きなお店には通ってお金を落とすことで応援してるんだけどさ」
「わたくしたちにできることって、そのくらいですもんね……」
「でも、どんなに応援したって、なくなるときはなくなるわけでさ」
「案外、そうなったとき、わたくしたちがやっている動画とかが、貴重な記録や資料になるのかもしれないですね」
「だね」
ちょっとしんみりした空気の中で、さくらは温かい焼酎の蕎麦湯割りを一口飲んだ。鴨の強い味が残っている口には、蕎麦の香りが心地いい。
「よし」
グラスを置き、意を決したように、さくらはメニューを手に取った。
「記録、しっかり残しましょう。ええと、蕎麦がきとか、お蕎麦屋さんじゃないと食べられないですから頼むべきですよね。あと、お蕎麦屋さんのカツ丼は最高ですからカツ煮も外せません。それからだし巻き玉子と、うーん、天ぷらは〆に天ざるを頼むとして、一品料理からもう少し……」
「え、ちょっと、鴨って結構ボリュームあると思うんだけど、そんなにたくさん追加で頼む気なの……?」
「はい。このくらい大丈夫ですよ」
驚いたような、呆れたような、そんな顔で、明美は笑い出した。
「よし、二人目のキャラの設定が今できた。二人目はたくさん食べる子にしよう」
こうして、期せずして二人の動画をこれから担っていく二人の女の子の人物像が想像された。相対的に、すでに動画に登場している一人目の女の子に大酒飲みという記号が与えられることになるのも、ほどなくのことであった。
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