空に浮かぶ月は、間もなく正円を描こうとしていた。


 城内の医務室に運ばれた俺は、ウルリカの付き添いのもと軽い診察を受けてからベッドに寝かされていた。

 診てくれた医者は、滋養に良い薬草を煎じてくると先ほど部屋を出て行ったのだが、ウルリカの目を盗んで俺とガッチリ握手を交わしていったので、彼も今回の計画の共犯者であるらしかった。


「……シン、平気か?」


 ベッド脇の椅子に腰を下ろしたウルリカが心配そうに覗き込んでくる。


「軽い貧血らしいんで、横になってれば大丈夫です」


 ということにさっきの医者がしてくれたのだ。

 そうか、と安心したように息をついたウルリカの肩越しに、出窓のふちに花瓶が置かれているのが見えた。


 そこに飾られた花々が、窓の隙間から入り込んだ風でふわりと揺れたのを見届けてから、俺はゆっくりと目を伏せる。


「ウルリカ王女」


 突然の呼びかけに、ウルリカが不思議そうにこちらを見る気配がしたが、構わず言葉を続けた。


「王様は怖いんだと思います」


 閉じた瞼の向こうでウルリカが息を飲む。

 短い沈黙のあとに、消え入りそうな声で問い返された。


「……何、が」


 そっと目を開く。

 そして、どこか覚悟を決めたような顔で俺を見るウルリカの、揺れる瞳を見据えた。


「――また、大切なものをなくすことが」


 俺の言葉に、レースの手袋に包まれた細い手がゆるく拳を握った、その瞬間。

 医務室の扉が盛大な音を立てて開かれる。


「ウルリカッ!!」


 尋常じゃない勢いで部屋に飛び込んできたのは、アドルフだった。


 橋造りの現場からそのままやってきたのか、首にタオルをかけた土まみれの姿はどこからどう見ても土木作業員だったが、紛れもなくこの国の王様である彼は一直線にウルリカの元へ駆け寄ってきた。


「ウルリカおまえ具合は! 平気なのか!? どこが悪いんだ!?」


「な、なんだよ、いきなり! 何言ってんだよ!?」


「何じゃないだろ! 俺はウルリカが急病で倒れたって聞いて……」


「はぁ!? 倒れたのはシンだぞ!!」


「はぁあ!!?」


 大混乱な王族二名を尻目に、開け放たれたままの入り口から涼しい顔をした宰相殿が入室してくる。


「申し訳ございません、陛下。報告に手違いがありました。倒れたのは私の息子で、ウルリカ王女殿下に運んで頂いたようだ、とお伝えするはずだったのですが」


 そんなことをしれっと言ってのける弟に苦笑しつつ、俺もベッドの上で身を起こす。


 アドルフはしばし呆然と立ち尽くしていたが、再度ウルリカに視線を移し、無事を確認するようにその全身を眺めたあと、深く安堵の息を吐きながら娘を抱きしめた。


「ウルリカ、ああウルリカ。何ともないんだな?」


 何も言わずにただ頷いたウルリカは、自分を閉じこめる腕の微かな震えに気づいたのだろうか。

 彼女はふと肩の力を抜いて、父の背に手を回した。


「親父。……父さま」


 アドルフが驚いたように目を見開く。そう呼ばれるのは久々だったのかもしれない。


「“私”には、ずっと疑問に思っていたことがあるんだ」


「…………」


 ウルリカの静かな声に何か察したのか、アドルフは僅かに身をこわばらせたが、もはや娘から逃げることも、言葉を遮ることもしなかった。


「母さまが亡くなってから、父さまはなぜ私を避けるようになったのか。なぜ私を、」


 そっと抱擁を解いたウルリカが、真正面から父の顔を見上げる。


「――恐れるような目で見るのだろうか、と」


 それを聞いて、いよいよ観念したように溜息をついたアドルフが静かに口を開く。


「……そうだな、俺はお前が怖かった。いや、怖くなったんだ」


 大切だからこそ。愛しているからこそ。

 怖くて怖くて、たまらなくなったのだと、王は言う。


「あいつが死んだ時だって世界が終わるかと思うほど辛かった。これでもしウルリカまで失ったら、俺は今度こそ正気じゃいられないと思った」


 彼がただの“アドルフ”なら、それもまた良かったかもしれない。

 しかし彼は王だった。そして王は国を愛していた。王妃と王女の愛する国を、彼もまた愛していた。


「怖かったんだ。ただでさえ失ったら狂いそうなほど大切な娘と共に過ごして、さらに大切な存在になってしまうのが。もしも娘を失ったら、国を滅茶苦茶にしてしまいそうな自分が」


 だから遠ざけた。これ以上、大切にならないように。

 失う恐怖に飲み込まれぬように。


「でも、まるで意味なかったみたいだな。ウルリカが倒れたって聞いたときは、俺のほうが先に死ぬかと思った」


 自嘲気味に言うアドルフに、ウルリカは一度何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言えずに泣きそうな顔で俯いた。

 そうして広がってしまった重苦しい沈黙を破ったのは、今まで場を静観していた白のだった。


「貴方が何を恐れているかは、重々承知しておりますが」


 いつもどおりの淡々とした声に、神妙な空気がいくらか緩んだ気がしたのも束の間。

 軍曹殿と呼んだほうが違和感のなさそうな弟の鋭い双眸がぎらりと光った。


「こちらの知ったことではありませんな」


 その威圧感に押されるようにして、アドルフとウルリカが揃って一歩後ずさる。

 力を抑えていても、俺達の本質はやはり竜だ。人間を含めた普通の生き物には何か本能的に感じる恐怖があるのかもしれない。まぁ直接彼らに向けられたものではないから、いくらかマシだと思うが。


「まるで王女殿下が国王陛下より早くに亡くなる事が確定しているかのような口振りですが、順当に考えれば陛下が先です。ご安心を」


「おまっ……い、いや、分かんねーだろそういうのは!」


 不敬どころじゃない宰相の物言いに、アドルフはひるみつつも言い返す。

 すると白のはいつもの真顔のまま「そうですね」と頷いた。


「命に保証などありません。確かに貴方より先に逝ってしまう日が来るかもしれない」


 国王が苦い顔でその言葉を受け止める。


「しかし」


 白のが、すいと目を細めた。

 窓のない方角から流れてきた風が、俺の髪と、花瓶の花を揺らす。


「そのような“いつか”への恐怖で、“今”貴方の隣を生きる自分を無視されるのは、甚だ不愉快だ」


 目を逸らすなと、告げる声。

 その揺るぎない意志の込められた言葉に背を押されるようにして、ウルリカが今度こそ口を開いた。


「……私だって失うことは怖い。父さまより先には死なないつもりだけど、シルトが言ったみたいに命には保証がないから、絶対とは言えない」


 強い光を宿したウルリカの瞳が、アドルフを映す。


「でもきっと、失うばかりじゃないはずなんだ。新しく出会う命も、希望もあるはずなんだ」


 例えウルリカがこの世を去ったとしても、そのときには、もしかしたらウルリカの子供が生まれているかもしれない。

 その孫が、その家族が、絶望をすくえる希望が、アドルフの傍にはいるかもしれない。


「だからっ……あんたは、今ここにいる私を、ちゃんと見ろ!!」


 いつかの別れではなく、目の前の“今”を。


 叫んだウルリカの双眸から涙が零れた瞬間、アドルフがウルリカを引き寄せて抱きしめる。

 目尻を滲ませながら、彼が掠れた声で娘に囁いたのは、小さな謝罪と、溢れるような感謝の言葉だった。



 彼らの抱える全てが解決したわけではないだろうが、どうやら一段落ついたらしい。病弱な息子(仮)の肩の荷が下りた感覚に、ほっと胸を撫で下ろす。

 そんな俺を見て白のは小さく息をついていたが、すぐ気を取り直したように顔を上げた。


「無事に和解できたようで何よりです。では国王陛下、私の処罰は如何致しますか」


「久々の親子の抱擁に水差すなよ!! って、お前の処罰? なんで」


「王女殿下が急病であると虚偽の報告をいたしました。何らかの処分は必要でしょう。他の者は私の指示に従っただけですので、責任はこのシルトが全て負います」


「いやちょっと待て! 処罰とかねぇから別に!」


「私達のためにやってくれた事なんだろ!?」


 慌てた様子で宰相に向き直る親子の姿を見ながら、俺は本人から聞いた「いい加減 執務の邪魔」という動機をそっと記憶から消去した。もちろんそれだけの理由でここまで手の掛かることをやる弟ではないが……うん。


 お咎めなしの沙汰を聞いた白のが、何やら思案げに目を細める。


「解任も謹慎もございませんか」


「無い! つーかお前辞めさせたら誰があの執務の山を捌けると、」


「では有給休暇を申請致します」


 宰相がいなくなると仕事的に誰より皺寄せが来るだろう国王陛下が、びしりと固まった。そして俺は弟の魂胆を悟る。


 この仲直り計画を利用し、解任までは行かずとも謹慎処分のひとつも貰って、後腐れなく儀式に帰るつもりだったのだろう。いや、俺からすれば後腐れありまくりだと思うが。


 しかし処罰無しとなったため普通に休暇を取ることにしたようだ。

 ちゃんと有休にするあたりが何とも俺達らしい。うん、ケチじゃないケチじゃない。正当な権利だから有給休暇は。


「いや、そりゃ、お前の有休は溜まりまくってるがな。何でいきなりそういう話に、」


「今まで息子を妻の実家に預けておりましたが妻の両親もそろそろ高齢ですので、少々遠方ですが私の実家ならば手も多く田舎で空気も良いため療養には最適かと思い、少しずつ手筈を整えておりましたがようやく準備が整ったようなので息子を送り届けて参ります。なので有給休暇の受理をお願い致します」


 お前よく顔色一つ変えずにすらすら出てくるな。


 病弱な身内のため、と言われれば断れるはずもないアドルフが渋い顔で唸っている。

 それをぬるい笑みで眺めていると、とりあえず処罰云々の話ではなくなったからか、幾分落ち着いた様子のウルリカが俺の隣にやってきた。


「シン、あのな」


 しかしそこでなぜか気恥ずかしげに目を泳がせると、ウルリカはひとつ咳払いをしてから姿勢を正した。


「……せっかく城を訪ねて頂きましたのに、お騒がせして申し訳ありませんでした。しかし、おかげで父とちゃんと話し合うことが出来ました。なんとお礼を申し上げてよいか、感謝の言葉もございません」


 ふわふわの髪、ふわふわのドレスで、目を伏せて柔らかく微笑む“王女様”。

 ウルリカはしばしそのまま王女の顔を保っていたが、やがて「っだ~!!」と声を上げて髪をかきむしる。


「あーダメだ! 元は単なるごっこでも、こんだけ続けりゃもう立派な自分だな」


 ちょっとずつ戻すか、と腰に手を当てて男らしく息をついたウルリカに、俺は思わず噴き出して笑った。なんだか無理に戻さなくても、これはこれで良いのではないだろうか。


「本当にありがとな。またいつでも訪ねて来いよ」


「いえいえ。こちらこそ色々とお世話になりました」


 神竜の威厳(笑)と男のプライド(笑)が粉微塵になるほど手厚いエスコートだった。ウルリカなら最高の王子……もといお姫様になれるだろう。もうほぼなっているが。


 そして白のが根回し済みだったとはいえ橋造りを途中で放り出してきてしまったアドルフと、このあと公務があるというウルリカとはこの場で別れることになった。


「見送りに行けなくて悪いな。体、大事にしろよ」


「はい、ウルリカ王女も」


「有給休暇の申請書は私の執務机に置いてありますので後程ご確認ください」


「お前……執務、あの量……どう回せってんだ……回んのかアレ……」


 穏やかに別れの挨拶を交わす横で、全自動書類処理宰相との別れを切実に惜しむアドルフと、見た目には分かりづらいが自分の執務を他人の手に委ねることを惜しむ白のの様子に、俺とウルリカは顔を見合わせて苦笑したのだった。



 二人と別れた後、戻ってきた医者から薬草茶をお土産に頂いて、有給休暇を無事に(?)もぎ取った弟と一緒に医務室を出た……のだが。

 俺達は今、なぜか城内にある広い中庭にいた。


「城門はあっちだよな。まだ帰らないのか?」


「いえ」


 その問いに首を横に振った白のの姿が、制止する間もなく空気に滲む。

 次の瞬間、俺の眼前には白い竜がいた。えっ、ちょっ。


「……何でここで戻った」


「城の者に外出を知られると騒がしいので」


 帰宅しただけでアレではそりゃ面倒にもなるだろうが、だからって宰相が門も通らずに城から消えるのはどうなのか。それより城内で竜体になるのはどうなんだ。


 いや、白のが休暇に行くことはアドルフが知っているし、周囲に人の気配はないし、例のごとく人の目には映らないようにしている。

 問題無いといえば無い……無いかなー……。相変わらず訳の分からないところで大胆な弟だ。


「あー。まぁいいかぁ」


 脱力気味な苦笑をひとつ零して、俺もこの場で竜の姿に戻った。


「兄上。お約束頂いた通り、寄り道をせずに真っ直ぐお戻り下さいますよう、お願い申しあげます」


「分かった分かった」


 王都の上空に金と白の竜が舞い上がる。

 空に浮かぶ月は、間もなく正円を描こうとしていた。

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