「行こうエナ! 次はあっちの屋台で飲み物だ!」
「神竜伝説を題材にした物語はたくさんありますけど、やっぱりわたしは基本形のものがいちばん神竜さまの魅力をわかりやすく表現していると思うんですっ」
「うん、……うん」
勉強会の開始から二十数分。
図書館の片隅では、人間の少女から神竜についての講義を受ける神竜の図という、知る人が見れば中々にカオスな光景が出来上がっていた。
現にこちらの様子が気になって耳を澄ませていたらしい青のは、先ほどから顔を背けて肩をぷるぷると震わせている。いっそ遠慮せず笑ってくれ妹よ。
しかし青のとて別に、「おっすオラ神竜!」的なことをやれと言っているわけではない。本題はあくまでエナが他人に歩み寄るきっかけ作りであり、この状況はもののついでだ。
ああ、青のはこうなることが分かっていたんだろう。
物語の中の自分とはいえ、好きだと言ってもらって嬉しくないわけがない。だが正体を明かすわけにもいかない。
そんな俺は、お礼とお詫びの心を込めて、こう提案する。
「じゃあ、俺達は神竜について調べようか」
―― と。
それが自分にとって半ば罰ゲームな事態に繋がるとしても、目の前の少女の笑顔には変えられないではないか。そのためなら俺は自分の情報を自分でまとめて自分の妹の前で発表してみせよう。
つまりこれは、たとえ本人に伝わらなかったとしてもエナを憧れの神竜に会わせてあげたいという青のの粋な計らい……ではなく、三百年間 音信不通だった兄へ、末妹から全力の意趣返しだ。
ねぇエゴサしてみんなの前で結果発表するのどんな気持ち?ってやつだ。
普段はそんな悪戯をするような妹ではないので、今回はよっぽど腹に据えかねていたようだ。何かごめんなさい本当にすみません。
「あ、わた、わたし、違うんです。そんなつもりじゃなくて。あの……お好きな神話を、選んでもらって大丈夫です、から」
はたと我に返ったらしいエナがまたしどろもどろになって遠慮したが、特にないからエナが好きなやつにしようと言って押し切った。
そんなわけで、俺達は神竜の神話についてまとめることになった。
俺にしてみれば自分のことなんだし楽勝……かというと、そういうわけでも無いのだ。
この場合求められているのは“俺”の話ではなくて、世間一般から見た“神竜”の情報だからだ。ぶっちゃけ俺自身は何の役にも立たない。
とりあえず神話コーナーもだいぶ空いてきたし神竜関連の本を何冊か見繕ってくるかと思った俺の目の前で、エナがまとめ用の大きな紙を一枚広げ始めた。
「じゃあ、とりあえず基本的なところは、ま、まとめておきますね」
「あれ? エナは何か本借りてこなくていいの?」
「ここにある神竜さまについての本は、全部読んじゃいました、から」
そう言って口元だけで小さく笑ったエナを見やり、俺は顎に手を添えて考える。
そうして「ふむ」とひとつ頷けば、先ほどあげたあの童話本だけを紙の横に広げていたエナが不思議そうに顔を上げた。
俺はおもむろに手を伸ばして、その広げられたばかりの本をぱたんと閉じる。
「シンさん?」
そしてエナの困惑したような視線をまっすぐに見返して、にっと笑った。
「行こう」
「え? ……ど、どこに、ですか?」
「そりゃもちろん」
怖がらせないようにそっと手を取って立ち上がると、エナはとっさに手元の本を胸に抱き込みながら同じように立ち上がった。
目を白黒させる彼女にまたひとつ笑みを向けてから、俺はその手を引いて勉強スペース周辺で子供達の様子を見て回っていた青ののところへ向かう。
「アイシア先生!」
「はい、シンさん。どうしました?」
「神話について色々調べたいので、外出してきていいですか?」
耳を澄ませて俺とエナの話を聞いていた青のには、俺が言い出すことも予想がついていたのだろう。
特に驚くこともなく、穏やかに微笑んで頷いた。
「シンさんが一緒なら構いませんよ。あまり遠くにはいかないでくださいね」
「よし行こうエナ!」
「え、えっ、えぇええ!?」
*
混乱しきりのエナの手を引いて図書館を飛び出し俺達が向かったのは、程近いところにある商店街だ。
「どこから行く? そうだ、お腹空いてる? なんか食べようか」
「あ、あの、神竜さまのことを調べに来たんです、よね?」
「うんそうだよ。お、あそこの屋台おいしそうじゃない?」
「かっ、課題のために、来たんですよね!?」
「もちろんもちろん。すみませーんふたつ下さーい」
眉尻を下げ納得いかなそうな様子のエナを連れて屋台の前に立つ。
恰幅の良いおばさんが、「あいよ!」と軽快な返事を飛ばして俺が注文した品を手際よく作り始めた。
「ところでお姉さん、神竜の伝説って知ってる?」
「あらやだねぇお姉さんなんて! そりゃもちろん知ってるさ。子供のころに誰でも一度は聞かせられる、定番のおとぎ話だからねぇ」
ああ、今はそういう扱いになっているのか。
「俺達ちょっと課題で神竜について調べてるんだけど、なんかめずらしい話とか知らない? どんなのでもいいんだけど」
「神竜さまの珍しい話ねぇ……」
おばさんは思案する傍ら、てきぱきとパンに切り込みを入れ、その中に野菜と肉を挟んでいく。
完成したひとつめを脇に避けて、ふたつめに取り掛かったところで「あ」と小さく声をあげた。
「アタシのひい爺さんがそのまたひい爺さんから聞いた、ひい爺さんのひい爺さんの、ひいひい婆さんの話らしいんだけど」
脳内で「ひい」がゲシュタルト崩壊しそうだったので、とりあえずおばさんのご先祖の話らしいと理解しておく。
「その婆さんが子供のころに、神竜さまを見たらしいんだよ」
「ほ、ほんとですかっ!?」
それまで俺の隣で所在なさそうにしていたエナが、勢いよく身を乗り出した。
おばさんは一瞬 驚いたように目を丸くしたものの、すぐに「ひい爺さんから聞いた話ではね」と笑って話を続けた。
「そりゃもう星がきれいな冬の夜に、空を飛んでる神竜さまを見たんだとさ。たいそう立派な金色の鱗だったそうだよ」
「金の……。じゃあ、太陽の竜さまのほう、ですね」
「そうなんだろうね。で、そこまではともかくここからが傑作でさ。東の森に、一本だけ飛びぬけて大きな木があるだろう?」
「あ、は、はい。この街の高台からも見える、あのおっきな木……」
「なんでも神竜さまが、その木にぶつかって落ちたんだとか!」
「えっ」
「まぁ、それはひい爺さんが付け足した冗談だろうけど」
いや……ノンフィクションです。それ実話です。
そっと二人から視線を外して遠い目になる。
確かその日は本当に星がきれいで脇見運転ならぬ星見飛行をしていたら、一本だけ森から飛び出るほど背の高い大木に気付かず、そのままぶつかったのだった。
あれは痛かった。いや自慢の鱗のおかげで全く痛みはなかったが痛かった。月のに言わせるところの神竜としての威厳的なものが。
「でもアタシはその話、好きだったよ。神竜さまでもそんなことがあるんだと思うとなんか元気づけられるっていうか、失敗してもまた頑張ろうって気持ちになれたからねぇ」
どういう形であれ役に立ったというなら、あの日の失態も無駄ではなかったのだろう。そういうことにしておこう。
「はいよ、ご注文の品おまちどうさま。こんな話でよかったかい?」
「ああ、うん、ありがとうお姉さん……うん」
思わぬところで掘り返された己の失態に若干ダメージを負いつつも代金を払い、品物を受け取りながらお礼を言って、屋台の傍を離れる。
自分の分を払うと言うエナに「いいからいいから」と買ったばかりのパンを手渡し、二人並んで商店街を歩き出した。
しばらくじっとパンを見つめていたエナが、小さくひとくちかじる。
「おいしい」
思わずというように零れた声に笑みを浮かべて、俺もまたパンをかじった。
向こうで言うサンドイッチとピタサンドの中間みたいな感じで、やや薄目のパンに挟まれた肉と野菜の上にかけられた特製ソースが絶妙だ。
「……はじめて聞きました」
ぽつりと呟いたエナに、「うん?」と首を傾げて返す。
「さっきの、神竜さまのお話。どの本にもあんなこと書いてなかった」
むしろ書籍レベルであれが広まってたらさすがに俺も泣きます。
ひとり切ない気持ちになる俺をよそに、エナはパンを持っているのとは逆の手に抱えたまま来てしまったあの童話本を、ぎゅっと胸に抱き込んだ。
「みんな、本に書いてあると……思ってたのに」
急に目隠しを外されたみたいに、どこか呆然と遠くを見るエナ。
その瞳の奥には、激情にも似た色濃い光がちらついていた。
この光を俺は知っている。
青のが、生まれて初めて人の作り出した“書物”を読んだとき。
見たことのない、感じたことのない人間の“価値観”に触れたとき。彼女も同じような目をしていた。
手の届くところにある知識を全て飲み込んでしまって、けれどまだ新しい何かを知りたくて、しかし得られずに。
すっかり腹を空かしていた“知る”ことを求める獣が、ようやく獲物を見つけたときの光だ。
―― 自分はまだ、“知れる”のだと。
俺はパンの最後の一欠けらをばくりと口に放り込んで、「よぅし」と拳を突き上げた。
「行こうエナ! 次はあっちの屋台で飲み物だ!」
「えっ、あ、し、神竜さまの話を聞きに行くんですよね?」
「もちろん! さぁジュースジュース!」
「えぇええ……?」
困ったように眉尻を下げつつもついてくるエナに、少し前までの怯えたような気配は感じられない。
あの童話本について俺に尋ねてきたときもそうだったが、こと神竜さまの話になると、人が怖いという感情は二の次になるようだ。
ならば後は彼女に任せておけば大丈夫だろう。
俺の頭はすでに商店街巡りの観光モードへと移行していた。あ、白のにもお土産買ってくかなぁ。
そうして二人で商店街を回り、色んな人から話を聞いた。
代々伝わっているという由緒正しそうな神竜伝説から、そのへんで聞いたという都市伝説めいたものまで、聞き込みはほんの一時間ちょっとで中々の収穫だった。
ちなみに真偽の割合は二対八くらいであったことを補足しておく。
正直、二割も真実が混ざっていたことに戦慄した。人の噂も七百五十年。口伝あなどれない。
まぁとにかく、ひとしきりの話は聞き終えた。あとは図書館に戻って話し合いながらまとめを作るだけだ。
しかし結構あちこち歩き回ったので、帰る前に少し休憩していくことにした。
商店街の片隅にあるベンチにエナを座らせ、俺は近くの屋台で焼き菓子が詰まった小袋をふたつ買ってからエナのもとへ戻った。
「はい。日持ちするやつだから、お腹いっぱいだったら後で食べても大丈夫だよ」
「あ、ありがとう、ございます」
話を聞きに店に寄るたび、親戚のおばちゃんのごとく「いいからいいから」と食べ物を買い与えていたら、さすがのエナも諦めたようだ。遠慮の代わりに礼の言葉だけを告げて、焼き菓子の袋を受け取った。
俺はエナの隣に腰を下ろし、自分の分の袋を開く。
中から現れたのは、花の形をした小さな焼き菓子だ。なかなか凝っている。
「シンさん。今日は、本当にいろいろ、ありがとうございました」
「うん?」
なんだか食べるのがもったいなくてぼんやりとお菓子を眺めていると、突然そんなことを言い出したエナの眼鏡越しの瞳が、ゆっくりと俺を捉える。
「アイシア先生に頼まれたんですよね? ……わたしのこと」
商店街の喧騒の中に、少女の静かな声が零れ落ちた。
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