「い、嫌な予感しかしないところに生えてるなぁ……」


 昼間は雲ひとつなかった青空が、夕刻には重苦しい鈍色の曇天へと変わり、夜には家が軋むような強い風を伴った大雨になっていた。


 川の水はあっと言う間に増し、隣村とこっちの村を結ぶ橋も渡れなくなった。

 川向こうに、水かさが落ち着くまで隣村に留まる事を伝える色の旗が立っていたそうで、男達が戻ってくるのは早くても明日の夕方ごろになるんじゃないかと緑のは言っていた。


 遅めの夕食を食べた後。

 雨が窓にぶつかって弾ける騒がしい音を聞きながらお茶を飲んでいると、その不規則な音の渦へ、ふいに規則的な打撃音が混じった。


 ドンドンドン、と店のほうから響いてくるそれには、焦りが滲んでいるように思えた。


「なんだろ」


 机の向かいで同じくお茶を飲んでいた緑のが立ち上がって、店のほうに向かう。

 何だか俺も気になったので、残り少なかったお茶を飲み干してから、少し遅れてその後に続いた。


 そして店のカウンター裏に繋がっている扉から顔をのぞかせると、そこにはずぶ濡れの外套を着たディーが立っていた。

 緑のの後から俺が出てきたのに気付いたディーは一瞬だけ「何でお前がここに」みたいな顔をしたけど、どうやらその件を追及している場合ではなかったようで、すぐに扉のほうを振り返った。


 続くようにして店内へ入ってきたのは、やはりずぶ濡れの外套を着たララだ。


「ララさん?」


「ミリィ、……マルルが。お願い、マルルを助けて」


 ララは泣きだしそうに顔を歪めながらそう言って、自分の外套の前を開く。

 その下に抱きかかえられていたのは、ぐったりとして意識のないマルルだった。熱があるのか顔は赤く、呼吸も荒かった。


 それを見て緑のはスッと表情を引き締めると、容体を確認しながらララに話を聞いていく。


「いつから?」


「夕方遊びに行って、帰ってきたときは元気だったんだけど、夜になって突然 熱が出て、どんどん高くなってっ……」


 備え置きの解熱薬を飲ませたり、冷やした布を当てたり、自宅で出来得る限りの処置をしてもまるで熱の下がる気配がない娘が心配で、雨風の中この店へ向かおうと外を歩いていたララを、窓越しに発見したディーが途中から先導しつつ付いてきたらしい。


 マルルの首筋に手を当てていた緑のが、ふと何かに気付いたように服の襟首をめくって、眉根を寄せる。


「この痕……これ、灰虫に噛まれたんだ」


 確かにマルルの後ろの首筋あたりに、虫に刺されたようなふたつ並んだ赤い点があった。


「マルル、お昼のとき花畑行くって言ってたよね? たぶんそこで噛まれたんだと思う。灰虫には毒があって、大抵はちょっと腫れるくらいで済むんだけど、たまに重く症状の出る子がいるの」


 ララが説明を聞いて真っ青になりながら、治す方法はあるのかと尋ねると、緑のがしっかりと頷いた。


「噛まれたのが今日の昼過ぎならまだ間に合う。早めに中和してあげれば大丈夫だよ。えーと、ちょっと待ってね、灰虫の毒に効くのは……」


 言いながら店の棚をごそごそと探し始めた緑のの姿に、どうにかなるようだと全員で安堵の息をついたのも束の間。


「ぅわぁ!!」


 響き渡った悲鳴に、びくりと肩をゆらして緑のを見る。

 すると彼女は、先ほどまでの引き締まった顔つきをどこかに置き忘れたような涙目になっていた。


「ゆ、夕暮れ草が……毒消し作る材料が、足りない」


 広がった沈黙に、ごうごうと吹き付ける風雨の音が重さを足す。

 しかしマルルが魘される声を聞いて はっと意識を引きもどしたらしい緑のが、「今から採ってくる!」と勢いよく飛び出そうとするのを、ディーが止めた。


「ばか! 外はすげぇ雨と風なんだぞ!」


「で、でも、あたしがもっと多く夕暮れ草を置いとけば、マルルのこと今すぐ治してあげられたのに……や、やっぱり採りにいく!」


「だから待てって! ……オレが行ってくる、ミリィはここで待ってろ!」


 言うが早いか、ディーが外套を被って店から飛び出していく。

 緑のは慌ててディーを追いかけようとして、しかしすぐにマルルとララの存在を思い出したのか足を止めた。


「と、とりあえずマルルを寝室に寝かせてあげなきゃ。ララさんもびしょ濡れだから、何か拭くもの……」


 今やらなければいけないことに意識を向けつつも、ディーが飛び出していった扉を気にしている緑のの頭に、ぽんと手を置く。


「俺がついてくから、二人を頼む」


 こちらを見上げ、声には出さずに「にいちゃん」と口を動かした緑のは、動揺に揺れていた目を一度閉じると、それを強く確かなものに変えてから瞼を持ち上げた。


「……うん、わかった。シンとディーが戻ってくるまで、あたしも出来るだけのことをやる!」


 “竜”に人を癒す力はない。

 けれど、手を握って、傍にいてやることは出来る。


「よし。その意気だ」


 若葉色の髪をくしゃくしゃとかき回してから、俺を心配そうに見ていたララを安心させるように笑った。


「それじゃ、戻るまでよろしくお願いします」


「シン君……気を付けてね。そうだ、これを」


 ララはマルルを落とさないように気を付けつつ、自分が着ていた外套を脱いでこちらに差し出す。


 俺は礼と共に受け取ったそれを着ながら、ララの腕の中で熱にうなされるマルルを見た。

 その汗の滲む額に伸ばしかけた手を、途中で止めて引き戻す。


「……いってきます!」


 きしりと音を立てた胸の奥に蓋をして、俺は外に向かう扉に手を掛けた。



 強い風。真横に叩きつける雨。

 視界の悪い、歩くのも大変なほどの天候の中、人間体のまま感覚だけを少し竜に近づけてディーの位置を探る。


「居た。……あいつ早いなぁ」


 飛び出してからさほど時間は経っていないのに、ディーはすでに森へ入り込んで、今もどんどん奥へと進んでいるようだった。


 それなりに距離が開いていたけど、俺とディーではそもそも移動速度が違う。

 空気の流れをつくって適度に風と雨を避けながら走れば、すぐに追いつくことが出来る。


 まぁ、だから、言ってしまえばディーよりも竜である緑ののほうが早いし安全に移動できたわけだが、あの状態のマルルに何の処置もしないわけにはいかない。

 そういう意味では、緑のを置いてきたディーの判断は正しかったのだろう。


「ディー!」


 やがて人の目で視認できる距離にその姿を見つけて、名を呼びながら駆け寄ると、ぎょっとした顔で振り返ったディーが「はあ!?」と声を上げた。


「何ついてきてんだよ!」


「ひとりよりふたりだろ。第一お前、夕暮れ草がどんなのか知ってる?」


「…………」


「な? だから連れてっとけって、薬師一族」


 自分を指さしてそう告げるとディーはひとつ舌打ちを零したが、問答している時間も惜しいと思ったのか、後は何も言わずに歩みを再開した。ついて行ってもいいらしい。


 実のところ俺は人間の薬にはあまり詳しくなかったが、夕暮れ草がどれかくらいは分かる。

 黒に近い紺色の根元が、葉先に向かうにつれて鮮やかな橙色に変わっている草だ。


 その特徴をディーにも伝えて、強風豪雨の中をふたりで探し歩く。

 俺もさすがに特定の植物が生えている位置をピンポイントで探る技は持ってないから、己の目だけが頼りだ。


 草をかきわけ、倒木の隙間をくぐり、どれくらい進んだだろうか。

 何やら視界が開けた感じがして顔を上げると、そこは行き止まりの断崖絶壁だった。突端から下を覗き込んだディーが眉をひそめる。


「水かさ結構増してるな。橋はまだしばらく使えなさそうだ」


 ああ村の近くにある川はこのへんから繋がっているのかと、俺もディーの横から崖下を覗き込んで、目を見開いた。


「……ディー」


「何だよ」


「ディー、ディーディー!」


「だから何だよ、うるせーな!」


「あった」


「は?」


 ぽかんと口を開けたディーがゆっくりと俺の視線を辿って、その先にあるものを見た。


 数メートル下の、崖の中ほど。

 強風にあおられてバサバサと身を躍らせる、グラデーションの鮮やかな一株の草。


「い、嫌な予感しかしないところに生えてるなぁ……」


「おい! お前はここにいろよ!」


「え。ちょっ、」


 俺が異世界で読んだ漫画のシチュエーションに現状を重ねて遠い目をしているうちに、命綱もないディーが体ひとつで崖を降り始めていた。こいつとにかく初動が早すぎる。


 ただでさえ人が下りていけるような崖ではないのに、今は雨風でさらに状態が悪い。

 時折 片足を踏み外したり、強い風で体勢を崩しかけたりするディーを、崖の上から固唾を呑んで見守ることしばらく。


 その手がようやく夕暮れ草に届いた。

 少し力を入れてひっぱると、雨で柔くなっていたのか、土のついた根っこごと簡単に抜けたようだった。


 夕暮れ草の端を口にくわえたディーが今度は崖を登り出す。

 だが体力の消耗が激しいのだろう。あと一息というところで、その腕が段々と震え始めた。


 そして、上へと伸ばす右手を支えるために崖を掴んでいた左手が、滑る。


「…………っ!」


 ディーが瞠目する。

 しかし宙に投げ出されるかに見えたその体は、斜めになっただけで止まった。


「ディー、そっちの手も! 早く!」


 上に伸ばされていた腕をとっさに掴んだ俺が、反対の手も差し出して叫ぶ。

 ディーは一瞬迷ったようだったが、すぐにその手を取った。


 心配しなくとも俺の体は人ひとりの重さで音をあげるような造りはしていない。

 一気にディーを持ち上げて、二人で地面の上に転がった。


 そうして寝転がったまま弾んだ息を整えるディーの手には、夕暮れ草がしっかりと握られている。

 俺は濡れそぼった髪をかき上げながらそれを見て、小さく笑った。


「……なぁディー」


 声を掛けると、ディーが視線だけをこっちによこしてくる。


「お前、自分が村に残されたのを子ども扱いって言ったけど、それ違うと思うぞ」


 顰められた眉は、いきなり何の話をとか、今はそれどころじゃないとか思っているのかもしれないけど、俺は今話しておきたいと思ったので、気にせず言葉を続けた。


「多分みんな、お前になら留守を任せてもいいって思ってくれてるんだ」


 明らかに嫌いなはずの俺を、緑のに頼まれたとはいえ放り出すことなく村を案内して、無視も出来たのに聞けば応えて、こんな天気の中ララたちを放っておかずについてきた。


 そして誰かを守るためにこうして必死になれるお前にならば、自分達がいない間の村を任せられると、他の男達は思ったんだろう。

 第一本当にディーを子ども扱いしてるなら、もう一人くらい大人の男手を村に残すはずだ。


「俺もさ、ララさんやマルルや……お前みたいのがミリィの傍にいてくれるなら安心だよ」


 これからもあいつのことよろしくな、と告げて笑いかけると、ディーが困惑したように俺を見た。


「……おまえ、ミリィのことどっか遠くに連れてっちまうつもりなんじゃないのか?」


「は? 遠く?」


「最初に会ったとき、ミリィが……絶対一緒に行こうとかなんとか、言ってただろ」


「あー。それは確か、一緒に村に行こうって話してただけだよ」


「……薬師一族の村?」


「いやお前の村だよ、お前が住んでる村」


 一族の村は滅んでる(設定)だろうが。


 ……もしかしてディーは、それを聞いて俺が薬師一族の新天地か何かに緑のを連れていくつもりだと思ったんだろうか。それで余計 親の仇みたいに睨んでたのか。


 旅の途中の俺に村で休んでいくよう誘ってくれただけだと嘘のような本当のような説明をすると、ちょっとの間 固まっていたディーが脱力するように息をついたのに苦笑する。


「俺は仲間が元気にやってるところを見られれば、それで満足だよ」


 人里で生き生きと暮らす妹。その周りの、やさしい人々。

 たった一日の様子しか知らないけれど、兄が安心するにはもう十分だろう。


「…………さっき」


「うん?」


 むくりと上半身を起こした泥だらけのディーが、がしがしと頭をかいて、そっぽを向いた。


「助かった。……ありがとな」


 そして雨音に紛れそうなほど小さな声で零された言葉に、俺は笑いながら腰を上げて、どういたしましてと手を差し出す。

 ディーは何だかばつが悪そうに顔を顰めていたけれど、やがて溜息と共に苦笑を浮かべて俺に伸ばされた手が、


 突然、視界から消えた。


 重い地響きの音。立っているのがやっとの振動。

 ごっそりと削れた、俺が居るところからほんの僅か先の地面……ディーがいた場所。


 崖が崩れたのだとようやく理解したのは、今度こそ宙に投げ出されていくディーの姿を確認したときだった。


 自分が落ちていることに気付くと、ディーはこちらへ手を伸ばすことさえせずに、持っていた夕暮れ草を思いきり俺のほうへ放り投げた。

 土も根もついたまま雨を吸って重くなった夕暮れ草が飛んでくる。


 そして真っ直ぐに俺を見据えたディーが、「たのむ」と、そう言って僅かに笑ったのを、見た。

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