第7話 斧を持つ貴婦人

 その事件は全国を震撼させていた。

 のどかな雰囲気を醸し出す地方都市・戸柄市。その平穏を切り裂くかのようにひと月の間に立て続けに二件の惨殺事件が起きたのである。被害者は共に若い女性。

 最初の事件が発覚したのは二月初旬。新進画家である黒蘭樹美菜の遺体が町外れの森の中で発見された。着衣に乱れはなかったが、酷く痩せ衰え、何よりも衝撃的だったのは後頭部を斧のような凶器でかち割られていたことであった。遺体の状況から警察は誘拐殺人事件とみて彼女の生活圏内で聞き込みを行った結果、独り暮らしの彼女が最後に目撃されたのは十日以上前であることが判った。しかし、捜査はそこで行き詰まり被害者の人間関係を追う地道な調査へと切り替わってから半月ほどたったある日、第二の事件は起こった。

 今度の被害者は歯科医である羅藤椋であった。被害者は十五日前に家族から失踪届が出されていたのだが、足取りが全く掴めないままに農道脇の側溝から遺体となって発見されてしまった。遺体の状況が画家と全く同じだった為、連続殺人事件として警視庁から派遣された刑事たちを中心に特捜班が結成され、日々街の安全を見守り犯人の捜索へとあたっていた。


 「こんなところで油を売っていないで、連続殺人犯でも捕まえに行ったらどうですか?」

 ヤエオリグループオーナーである谷得織丹子は正面へと向けた笑顔を崩さないまま、自身の隣りに立つ人物へ呆れ気味な調子で呼び掛けた。

 「あのね、何度も言うけど僕の仕事は『よろずや』だからね」

 彼女の隣りに立つ熊のような着ぐるみは目の前を通り過ぎて行く子供たちへと手を振りながら、くぐもった声で返答する。

 ここは観光業を営むヤエオリグループが戸柄市郊外へ新たに開園した遊園地『ニコニコワールド』。オーナー自らが発案した肝煎りの新事業である。

 「犯人逮捕もよろずの一つではありませんか? 昨日からお友達の蟹丸警部も捜査の為に戸柄市の『ホテルバレーゲット』へ宿泊していますよ」

 「蟹丸警部は友達ではないけどね。それよりオーナーのくせに宿泊客の情報を漏らしちゃダメじゃないか」

 「いいんですよ。お金を払って泊まっていただく方がお客様ですから。今回は事件解決の為にヤエオリグループは無償で警察に協力しているのです」

 「へえー、それは立派な心掛けだ──ところで段々と息苦しい気がして来たんだけど」

 「そうですか。やはり素人が作った着ぐるみでは通気性に問題がありますね。経費削減の為に恵梨姉の知り合いへデザインと制作を頼んだのですが、造形は初めてだって言ってましたから──」

 「もう無理! 頭部を外すよ!」

 着ぐるみが首元へと手を掛けたが、ニコが両手で頭を押さえ付けた。

 「ダメです! 子供たちの夢を壊しちゃいけません!」

 「夢の前に僕が壊れる──」

 そのまま着ぐるみはバタンキューと地面へと仰向けに倒れ込んだ。


 目が覚めた時、有瀬塗範はホテルのベッドへと寝かされていた。

 体を起こして小机の上に置かれたホテルのメモ帳を見ると、そこには『ホテルバレーゲット』と印刷されている。

 起き上ったトパンはハンガーに掛けられている黒のスーツを身に付けると、帽子掛けから黒の山高帽を取って頭へと被った。

 「さてさて。ニコちゃんへお礼と苦情を言って来ないとな」


 だが、トパンが何処へ行ってもニコに会うことは叶わなかった。

 皆、彼女の行き先を知らないのだ。

 「有瀬塗範! こんなところで何をしている!」

 ホテル周辺を歩き回っていたトパンは、聴き慣れた濁声に呼び止められて振り返った。

 「蟹丸警部! 丁度良かった、ニコちゃんを見ませんでしたか?」

 「ニコちゃん? ああ、谷得織の小娘か。知らんし今はそれどころじゃない。第三の犠牲者が出てしまったのだ!」

 「犠牲者? まさかまた──」

 「そうだ、可哀想に頭をかち割られておる。凄く別嬪さんだったのに勿体無い事を──」

 「被害者の名前は?」

 「この町の名士の奥さんだ。藤礼弥生さんと言ったかな」


 藤礼家を弔問したトパンは地元の警察官である森警部を捉まえて、事件の概要を教えてくれるように懇願した。

 「お断りします。なぜ無関係な一般の方へ捜査情報を漏らさなくてはならないのです? もしかしたらあなたが犯人かも知れないのに」

 生真面目な表情を浮かべる森警部が素気無く断る。

 「藤礼夫人とは面識があるんです。彼女の為にも殺人犯を捕まえる手助けをさせて下さい!」

 「熱意は買いますがね、一般人を捜査に加えるリスクを負うつもりはないですよ」

 「ならば私がそのリスクとやらを負おう」

 「蟹丸警部──」

 突然現れた本庁の警部に対して森警部が呆れたように溜息を吐いた。

 「何のつもりかは知りませんが、まあいいでしょう。あなたの責任においてお話ししますよ。被害者は二月十九日から海外旅行へ行っていたはずでした。ところが法務省には彼女の出入国履歴はなかった。となると彼女が外国へ行くと嘘を吐いて国内に潜伏していたか、誘拐されていたことになります。他の二人と同様に被害者は痩せ衰えていましたから、誘拐されていた可能性が極めて高いと言えます。遺体は今朝、山際近くの神社の境内にて発見されましたから、昨夜から早朝にかけて遺棄されたと考えられます」

 「遺棄と言い切ったということは、殺害は別の場所ですか?」

 トパンの質問に答えたのは蟹丸であった。

 「頭部へあれだけの勢いで斧のようなものを叩き付けたら血飛沫が飛ぶはずだ。それが無いということは、殺害現場は別と考えるのが自然だろう」

 「では監禁場所が殺害現場の可能性が高いですね。犯人を特定する要素は何かありませんか?」

 森は蟹丸と目配せを交わすと不承不承ながら情報を開示する。

 「昨夜、神社近くに住む住人が深夜の散歩をしていた際に、境内から出て来るフード姿の女性らしき後ろ姿を目撃しています。勿論その時点で神社に遺体があったかは判りませんが──」

 「春先とはいえ深夜の女性の独り歩きとなればフードで顔を隠すのは不自然とは言えまい。夜中に神社参拝するのが罪と言う訳ではないしな。それにその女性が遺体を運んだとするのならば運搬手段が存在しない」

 蟹丸はこの目撃情報を否定的に捉えていた。

 「確かに蟹丸警部のおっしゃる通りなのですが、他に捜査への取っ掛かりが無い以上、我々はその女性の特定を急いでいます」


 携帯電話へ着信を残しても、夕刻までにニコからの連絡はなかった。

 ホテルの部屋へと戻ったトパンもさすがに不安を感じ始めた時、下礼村にある『ホテルウインドブック』の呉尾支配人から電話が掛かってきた。

 「あっ、有瀬さん! 今オーナーと御一緒ですか?」

 「ニコちゃんとは今朝の遊園地イベント以来会っていないのですが──もしかして今日一日、全く連絡が付かなかったということはないですよね?」

 「そのまさかです。オーナーが行き先も告げず居なくなるなんて──今までこんなことはありませんでした」

 「至急、戸柄署の森警部へ連絡を! 捜索令状を取って貰ってニコちゃんの携帯電話をGPS追跡するように依頼して下さい!」

 「かしこまりました!」

 呉尾が慌ただしく電話を切ると、トパンは逸る心を抑えつけて冷静になるように努めた。

 (落ち着くんだ。まだ事件に巻き込まれたと決まった訳じゃない)

 降って湧いた興奮が冷めて行くのを感じたトパンは、小型のトランクケースからタブレットPCを取り出すと、腰を落ち着けて調べ物を始めた。

 (最初の事件発覚が二月五日。被害者は十日以上前から目撃されていない。第二の事件発覚は二月十九日。被害者の家族が失踪届を出したのは二月五日。藤礼夫人が旅行へ出掛けたのは二月十九日。第二の事件で死体遺棄されていたのが農道脇の側溝だから、犯人はやはり前夜に被害者を放置したのは間違いない。となると先の被害者を殺害し手放した翌日に新たな被害者として夫人を捕まえたことになる。これは偶然なのか──)

 トパンは携帯電話を取り出すと、戸柄署へ電話を掛けた。

 「もしもし。有瀬と申しますが、警視庁の蟹丸警部に連絡を取りたいのですが──」


 「つまり犯人は一定のルールに基づいて犯行を行っているということか?」

 その夜、トパンの宿泊している部屋を訪れた蟹丸警部は提供した捜査情報と引き換えに彼の推理へと耳を傾けていた。

 「ええ。鑑識の結果通り、最初の被害者である黒蘭樹さんが死後二日の状態で発見されていたのならば、殺害されたのは二月三日です。歯科医である羅藤さんは四日の休憩時間中から行方が判らなくなり、翌五日に失踪届が受理されています。犯人は二月三日に殺人を行い、四日に新たな犠牲者を攫いました。そして十八日に殺害し、十九日に次の誘拐を行ったのです」

 「そして昨日三月三日に殺したと──すると今日誰かが誘拐されたということか?」

 驚愕の叫びを上げる蟹丸。トパンは暗い表情を浮かべたまま言葉を発することができなかった。そのタイミングで、ちょうど蟹丸の携帯電話から呼び出し音が鳴る。

 「蟹丸だ。何?──解かった。大至急広域捜査をかけるんだ。私もすぐに行く」

 電話を切った蟹丸が言い出し難そうに言葉を選んでいると、トパンから声が掛けられた。

 「ニコちゃんの携帯が見つかったんですね。おそらく遊園地にあったのでしょう?」

 「──そうだ。必ず見つける」

 蟹丸は拳を握ってそう言い切ると部屋から出て行った。

 トパンは頭を抱えながらベッドへと腰を落とした。

 (警部からの情報では、詳しい日時は不明だが長身で体格の良いレインコート姿の人物が夜中に自転車を漕いでいるのが二度ほど目撃されている。フード・マスク・眼鏡で顔を隠している事から、こいつが死体遺棄に関わっている可能性が高い。でも誘拐犯も同じ人物だとしたら日中での目撃情報もあるはずだ。それが無いということは誘拐犯は別、もしくはそもそも誘拐ではない──)

 気を取り直したトパンはネクタイをギュッと締め、右目に片眼鏡を掛けるとタブレットPCの手書きメモアプリを立ち上げて、被害者の名前と職業、誘拐された日付と殺害された日付を書き出していった。

 (絶対に共通点や法則があるはずなんだ。誰でも良いのならば勤務中の歯科医や地元の名士の妻、ホテルチェーンのオーナーを狙う必要がない)


 黒蘭樹 美菜(くろらんじゅ みな)

 羅藤 椋  (らどう りょう)

 藤礼 弥生 (ふじれい やよい)

 谷得織 丹子(やえおり にこ)


 (蘭・藤──花かな? いや、そんな曖昧な物ではないはずだ。もっと明白な何かだ)

 それぞれの名前をウェブ検索してゆく。

 黒蘭樹嬢には絵画販売用のホームページがあったが、羅藤医師は歯科のホームページくらいしか見つからなかった。意外だったのは藤礼夫人には料理研究家としての一面もあり、地元の主婦の間ではそれなりに有名らしかった。ニコについてはホテルのホームページの他、女子高生オーナーとして取り上げられた幾つかの記事が検索に引っ掛かった。

 ざっと見たが全員が若い女性という以外に目ぼしい共通点などは見当たらない。

 もう一度見直そうと黒蘭樹嬢のホームページを開くと、連絡先として掲載されているメールアドレスに気がついた。

 (Fdk.Afterdark.SVO.Blackpearl.37@──そうか! そういうことか!)

 トパンは女性たちの名前の下に数字を書き出してゆく。

 (黒蘭樹美菜37、藤礼弥生841、谷得織丹子25、羅藤椋は──むくか! 69だ! 123456789、被りなく数字が揃ったぞ! ということは黒蘭樹さんの最後の目撃情報は一月二十五日だから、ちょうど十日目。羅藤さんは四日から十八日まで監禁されたとして十五日目。藤礼さんは十九日から三日までで十三日目。まずいな、七日しかないぞ! 今日と決行される日を除くと猶予は五日か。考えろ! 考えるんだ、トパン!)

 立ち上がったトパンは狭い室内を行ったり来たりと歩き回る。

 (もし僕が法則性を重要視する誘拐犯ならば、次の被害者を予定日通りに攫うにはどうする? 相手にだって予定があるのだから、そんなに上手く行くはずがない。スタートである黒蘭樹さんはともかく、羅藤さんは? 歯科の休憩時間とその行動さえ把握していれば不可能ではない。藤礼さんは? 旅行の日程は事前に決まっていたのだろうから、そこに犯人の意図を反映させるのは不可能に等しい。保留しよう。ニコちゃんは? 学校帰りならばチャンスがない訳ではないが今日は休みだ。僕が彼女から離れたのも偶然に過ぎない──いや、偶然ではなかったのかも)

 トパンは真夜中にも関わらず、携帯電話を取り出すと一軒の家へと電話を掛けた。


 その後、トパンは寝入り端の蟹丸警部を電話で叩き起こすと、容疑者を捕まえる為の手筈を伝達した。翌朝、犯人確保の為の手配を整えた蟹丸警部がトパンとの取引条件である〈現場への同行〉の約束を守る為に警察車両で彼をホテルまで迎えに来た。

 その車内でトパンが事件の概要を説明する。

 「藤礼夫人が二月十九日に美容院を予約していただと? 海外旅行の当日に地元の美容院へ行った後、一体何処の国際空港へ行き、何時の飛行機に乗るつもりだったのやら!」

 トパンからの情報へ蟹丸は否定的見解を示した。

 「ええ。ですから夫人はその日は旅行へ行くつもりなど無かったのですよ」

 「どういうことだ?」

 「夫には旅行へ行くと言って、愛人と逢引きするつもりだったのです。僕の知り合いに彼女の愛人をしている男性がいまして、彼に確認しました。『美容院へ寄ってから行く』と言った彼女は待ち合わせ場所へ来なかったそうです」

 「何て男だ! その日の内に警察へ行けば良かったものを!」

 怒り心頭の蟹丸がハンドルを叩く。

 「無理もありませんよ。堂々と付き合っている関係ではありませんからね。それに夫人が待ち合わせをすっぽかすのは珍しい事ではなかったそうですから」

 「全く! 美人という奴は──」

 「美人なのが問題ではありませんよ。美人を鼻に掛けていたのが問題なのです。それはともかく、黒蘭樹さんに関しては裏が取れませんでしたが、羅藤さんは数日前から時間があったら美容院へ行きたいと言っていたそうです。何でも新しく評判の良い美容院が出来たそうで。ニコちゃんの同級生も彼女から同じような話を聴いていました。美容院ならば店側で事前に予約可能な日をある程度調整出来ますからね」

 「朝早くから良く調べたな。寝てないんだろ? 後は警察へ任せて眠った方がいい」

 「僕が寝てる間にニコちゃんが帰って来たら、相当どやされるのが目に見えますよ」

 トパンは肩を竦めながら笑みを浮かべた。

 「そうか──」

 蟹丸は微かに目元を緩めるとそれ以上何も言わず、運転に集中した。


 すでに美容院『麗』の周囲には地元の警官隊が森警部の指揮の元、配置に付いていた。

 少し離れた場所に車を停めた蟹丸とトパンが森の元へと近づいて行く。蟹丸は拳銃を、トパンは黒いステッキを携行していた。

 「状況は?」

 蟹丸が問いかけると、森は建物から目を離さないようにしながら返答する。

 「今、開店と同時に入った客が出て行く支度をしている処です。それ以降の客は入店する前にお帰り願いましたので店には被疑者以外誰もいません」

 蟹丸は双眼鏡を取り出すとガラス越しに店内を見回した。

 「あの女性が経営者か。斧を振り回すような筋力を持っているようにはとても見えないが、他に共犯者はいないのか?」

 「被疑者の名前は馬野麗。元々ここは彼女の父親が経営していた床屋でした。父親が亡くなって都会へ出ていた娘が帰って来て家業を継いだと言う訳です。独身だということは確認取れていますが、まだ交友関係までは裏取り出来ていません。自宅兼用の建物ですから、店以外の部屋に誰かが居る可能性はあります」

 森の報告に蟹丸は黙って頷いた。

 美容院から客である中年女性が出て行く。

 「行くぞ!」

 森警部の合図で四方に分かれた警官たちが建物を包囲した。正面入り口へは警部たちが走り寄って行き、入口の扉を蹴り飛ばして室内へと飛び込む。

 「動くな! 警察だ!」

 拳銃を構えた森と蟹丸が美容院内を見回すが、そこには人の気配が無かった。

 「二階か!」

 相互に援護しながら二階の階段を昇って行くが、そこももぬけの殻であった。

 「──一体何処へ行った?」

 「警部、こっちです!」

 一つ一つの部屋を虱潰しに確認していた二人の警部が、一階からのトパンの呼び掛けを受けて階段を駆け戻る。トパンは等身大の姿見の前に立っており、二人が到着すると鏡に手を掛けて軽く押した。すると壁に埋め込まれていた姿見がクルッと回り、地下への階段が現れた。

 「忍者屋敷か?」

 呆れ返る蟹丸が階段の先を覗き込んだが、真っ暗で何も見えない。

 「援護をお願いします!」

 ステッキを手にしたトパンが二人の返事も待たずに階段を駆け下りて行く。

 「馬鹿! 待てっ!」

 慌てて彼を追う蟹丸だったが、足元が覚束ずトパンとの距離がどんどん離れて行く。

 森は彼らの後へは続かずに外にいる警官から見える場所へと移動し、入口近くで警戒している部下を身振りで呼びつけた。

 「懐中電灯で階段の上から照らし続けるんだ」

 そう指示を与えると、自らも拳銃を構えて足元を確認しながら階段を下って行った。


 階段自体はそれほど長くなかったが、折り返しの踊り場が有りその先は外部から一寸の光も無く真っ暗闇となっていた。足元は不確かではあったが、トパンは階段の構造に慣れた事もあり、そこまで苦労することもなく突き当たりまで辿り着けた。上の方からは蟹丸が足を滑らせて尻を打ち、文句を言っているのが聴こえて来る。

 トパンは暗闇に慣れた目で周りを見回す。一見行き止まりのように見えたが、正面の壁に片手を当てると微かに押し込める感触があった。

 右手にステッキを構えて、左肩を使って扉へタックルする!

 勢い良く飛び込んだトパンの目の前へと巨大な刃が迫って来る!

 体重がかかって前のめりになっていたトパンには絶対に避けられないタイミングであったが、革靴を履いた両脚がつるりと滑りその場へとうつ伏せに倒れ込んだ。丁度その頭上を刃物が通り過ぎ、トパンの山高帽を真っ二つに切り裂いて行く。

 「チッ! 悪運の強い奴!」

 壁際で機械を操作していた中年女が舌打ちと共に悪態を吐くと、小振りな斧を手にしてトパンの元へと走り寄る。振り下ろされた斧を咄嗟に転がって避けるトパン。その勢いを使って女の脚へとステッキを叩きつけた。

 「痛いっ! 叩いたね! 父親にもぶたれたこと無いのに!」

 よろめいた女とトパンの間を巨大な斧刃の振り子が横切って行く。

 そのタイミングを見計らって、女はトパンの元へと飛び込んで行った。

 振り下ろされた斧の柄をトパンが両端を掴んだステッキで受け止める。

 女は全体重を掛けて圧しこもうとするが、トパンも目の前に迫る刃を食い止める為に全力で支える。狂気の瞳と目が合ったが、そのまま女を睨み続けた。

 「警察だ! 武器を捨てろ!」

 ようやく部屋の入り口へと辿り着いた蟹丸が、女の背後から警告する。

 悔しげに顔を歪めると、諦めたように斧を引き戻す女。トパンもホッとしながらステッキから力を抜いた。

 次の瞬間、愉悦の表情を浮かべた女がトパンへと斧を振り下ろした!

 「ギャー!」

 銃声と共に女が叫び声を上げる。手首を撃ち抜かれ、斧は振り下ろした勢いのままトパンの脇の床へと叩きつけられた。

 振り返った女は憤怒の表情を浮かべながら両手を広げて蟹丸へと向かって駆けて行く。

 すると蟹丸の背後から姿を現した森警部が狙い澄まして女の太腿を撃ち抜いた。

 「ギャッ!」

 その痛みと衝撃に女がよろめいた瞬間、彼女の後頭部へと振り子の斧刃が直撃した──。


 女の遺体から鍵を見つけ出したトパンは地下室の隅に設置されている鉄格子の牢屋を開錠する。牢の中には毛布に包まり丸くなった少女の姿があった。

 トパンは毛布に包んだまま少女を抱えると、血生臭い地下室から出て行く。

 美容院の前で待機していた救急隊員へと引き渡すと、ニコは救急車に乗せられ病院へと運ばれて行った。

 心配げにその車両を見送るトパンの背後から蟹丸が肩を叩く。

 「一緒に行った方が良かったんじゃないのか?」

 「おそらくニコちゃんは薬で眠らされていますから、しばらく目を覚ますことはないでしょう。外傷は無さそうでしたので、僕が行っても何の役にも立ちません」

 「──そうか。まあ、我々としては貴様が居てくれた方が助かる。事件の全貌を解明するのに協力してくれ」

 蟹丸に促されて再び地下室へと降りて行くトパン。

 そこでは鑑識に混じって森警部が現場の指揮を取っていた。

 「おっ、ヒーロー登場ですか!」

 森が茶化し気味に告げると、現場で活動していた警察関係者の誰からともなく二人を讃える拍手が沸き起こった。

 「よしてくれ、柄じゃない」

 照れた蟹丸が鬱陶しそうに手を振って拒否すると、皆は自分の作業へと戻って行く。

 「概要は大体掴めています。『美容院・麗』の経営者である馬野麗は顧客としてやって来た女性を眠らせて監禁。数日後に後頭部へと斧刃を叩き付けて殺害していました。殺害に使われた凶器は普段は天井へと隠されている機械仕掛けの振り子の斧刃だと思われます。動機は今、刑事たちが犯人の日記やパソコンなどを捜索していますので、いずれ判明することでしょう。監禁された谷得織さんの携帯電話が遊園地から発見されたのは、美容院へ来たことを隠すための偽装と断定されます」

 森の報告をトパンが補足する。

 「具体的な動機は知りませんし知りたくもないですが、彼女が偏執的な狂人であることは間違いありません。被害者は大なり小なりこの町の有名人です。そして彼女たちの共通点としては名前が数字に置き換えられて、全員揃うと1から9までの数字が被りなく収集することが出来るということです」

 「ナンバーコレクターか。確かに犯人の名前は0だ。一体何を考えていたのやら」

 蟹丸が理解不能とばかりに、運び出されて行く女の遺体を見送った。

 「もしかしたら凶器に斧を選んだのも何かの暗示かも知れません。OとNOですから、零と無を表すと思い込んでいた可能性があります」

 トパンの意見に森が賛同を示す。

 「なるほど原点回帰、リセット願望ですか──まあ偏見と言われるかも知れませんが、被害者が若い女性で犯人が壮年の女性だった場合、若さへの妬みが動機としては考えられます。例えば全ての数字を手に入れると若返ることが出来る、というような黒魔術を信仰していたのかも知れませんな」

 「ほう! 君が非科学的な事象に理解があるとは知らなかった」

 「私が信じている訳ではありません。そう信じて凶行に至る者がいるかも知れない、という現実世界の話をしているのです」

 蟹丸の指摘を森は不機嫌気味に否定した。

 「──まあそんなことよりも、結局遺体を運搬していたのは誰だったんだ?」

 話を逸らすべく、蟹丸がトパンへと問いかける。

 「犯人自身ですよ。壁際に掛かっているあのレインコートを着ていたのです。おそらくおんぶ紐か何かで遺体を背負い、その上からレインコートを羽織ったのでしょう。遺体の頭部にマスクと眼鏡をしておいてフードを被せ、自身は二人羽織のようにコートの隙間から顔を出して自転車を漕いでいたのです。轍を辿れないように遺棄現場から離れた場所へと自転車を隠して、徒歩で現地へ移動後に遺体を降ろして脱いだレインコートや背負い紐などはコートのポケットに畳んで仕舞います。これだけで体格の良いレインコートの人物は姿を消すことが出来るのです」

 「自分が殺した人物の遺体を背負うなんて──まともな神経を持つ人間からしたら信じられませんね」

 トパンの推理を聴いた森が怖気を震った。

 「それにしても、せっかくのスーツも帽子も台無しになってしまったな」

 蟹丸が部屋の隅へと転がっている切り裂かれた山高帽を拾ってトパンへと差し出す。

 「ええ。でもおかげで命拾いしました」

 トパンが入口近くに広がっている血溜りを見つめながら答えた。この血溜りこそがトパンの革靴を滑らせて彼を絶体絶命の危機から救ったのだ。

 「物体を固定せずに斧を正確に叩き付けるのは相当難しい行為です。被害者が痩せ衰えているとはいえ、女性の力で人一人を拘束するのはより一層困難でしょう。そこであの機械が必要となる訳です。おそらく犯人はそこにある機械のスイッチ脇のカーテンへと身を隠し、牢屋の鍵を外しておいたのです。目覚めた被害者は解放されたと思い込み、部屋を出るべく扉へと向かって行きます。鍵の掛かった扉を何とか開けようとしている背後から無情にも振り子の斧が襲い掛かる──という犯行だったのでしょう」

 「ということは、貴様は被害者女性たちの血によって救われたということか」

 蟹丸の何気ない一言にトパンはハッとなって、神妙な表情を浮かべながら呟いた。

 「そうですね。きっと僕は彼女たちに助けて貰ったんですよ」


                                 つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る