第5話 彷徨う死神

 「どう考えても納得いかないよ」

 黒のスーツに黒の山高帽を被った男、有瀬塗範は石段を登りながら先を行く少女へと不満を投げ掛けた。

 「またその話ですか? しつこい男は嫌われますよ」

 呼び掛けられた一目で学生と判別される少女、谷得織丹子は涼しい顔で苦情を受け流す。

 ここは界隈では有名なスキー場のある馬飼来村から山を下った麓にある紋平類町。

 送迎車から降りた二人が向かう目的地は石段を登った先にある一軒の屋敷であった。

 「あの時確かに言ったよね? 『ヤエオリグループが報奨金を出す』って」

 「ええ。ですからお渡ししたはずですが」

 「いやいやいや。アルバイトの日当と大して変わらなかったし。だいたい、同封されていた領収書の額が異常でしょ? あんな額の必要経費なんて認められる訳がないよ」

 「仕方ありません。新聞の一面を差し替えて広告を掲載したのですから。おかげで事件が解決したのですから、必要経費として申請すれば良いのです」

 「そもそも僕は探偵じゃないからね。『よろずや』だって憶えているかな?」

 「勿論です。だから今回もこうやって依頼人の友人の御様子を窺いに向かっているのではないですか」

 「それって事件の匂いがプンプンするんだけど──」

 トパンとニコが縁も所縁もない紋平類町を訪れたのは、馬飼来村の駐在所にいる若い丸栖巡査に頼まれたからであった。紋平類町で家族と共に暮らす彼の妹が、友人の安全に関する調査を警官である兄へ依頼するメールを送って来たという。非番の日に対応しようと考えていた巡査であったが、自分よりも観察力に優れたトパンに出逢ったことで彼に任せた方が確実だと考えたのだ。

 「おーい!」

 二人が呼び掛けて来た声の主を探して石段の天辺を見上げると、そこでは人好きのする顔立ちの若い女性が大きく手を振っていた。


 「あなたが有瀬さんですね。兄からお噂はかねがね伺っております」

 女性の案内で屋敷へと招かれたトパンとニコは、大きなテーブルのある客間へと通された。そして椅子に座る間もなく女性が興味深々な様子を隠さずに話し掛けてきた。

 「トパンで結構ですよ」

 トパンは山高帽に手を掛けて挨拶するも帽子を取ることはしなかった。

 「そしてあなたが谷得織さん。ねえ、ニコちゃんって呼んでいい?」

 いきなり同世代の女性から馴れ馴れしく呼び掛けられてニコが戸惑う。

 「それは構いませんが、まずは自己紹介されたらいかがですか?」

 ニコの指摘に女性はバツが悪そうに舌を出した。

 「あら、ごめんなさい! あなた方に会えたのが嬉しくて、もうとっくに挨拶したものだと思ってました。私の名前は丸栖莉瑠。兄は馬飼来村で警察官をしています」

 莉瑠の言葉が終わらない内に客間の扉が開かれて、茶菓子を乗せた盆を手に別の女性が入って来た。

 「やっぱり莉瑠ったら、もう自己紹介しちゃったのね。私はこの家の娘であります樽守紫杏と申します。師走のお忙しい中、遠くまでわざわざお越しいただきまして有難うございます」

 紫杏は二人の前で丁寧に頭を下げると、配膳をしてから莉瑠の隣りへと腰を下ろした。

 莉瑠と紫杏は共に年の頃は二十歳くらい、ニコにはない健康的な色気を発している。さりげなく二人の容姿を観察しているトパンの脚をニコが蹴っ飛ばした。

 「でもせっかく来ていただいたのに大した話ではないのです。莉瑠には心配し過ぎだって言ったのですけど」

 紫杏が恐縮しながら頭を下げた。

 「何言ってるのよ、紫杏。何かあってからでは遅いのよ。っていうより、今だって無事でいるのが不思議なくらいなんだから」

 女性同士の会話に置いてけぼりとなったトパンが話へと割り込んだ。

 「実はお兄さんから詳細は何も聞いていないのです。何があったのか初めから説明していただけますか?」

 「じゃあ、説明は私から。付け加えたいことがあったら紫杏が補足してね。私が彼女から話を聞いたのは四日ほど前ですが、事件は十月末頃から起きていたのです」

 「事件なんて大袈裟よ。事故よ、しかも未遂」

 いきなり紫杏に話の骨を折られたが、莉瑠は気にした素振りも見せず先を続けた。

 「屋敷の敷地内から出ることがほとんどない彼女は、いつも同じ時間に庭園にあるベンチへ座って読書をします。そのベンチの上には雨避けに透明なシェルターが設置してあるのですが、ちょうど彼女が座っていたその時間にシェルターがベンチの上へと倒れ込んだのです!」

 「それは危なかったですね。アルミ製でしたか?」

 被害が軽微だと聞いていたトパンは当たりをつけて問いかけた。

 「いいえ、ステンレスです。たまたまこの子は眠くなったらしくて、ベンチの上に寝そべっていたから助かったんです。ちょうど背もたれと座席の縁でシェルターが引っ掛かって彼女との接触が防げました」

 「なぜシェルターが倒れたか調べましたか?」

 トパンの疑問には紫杏が答えた。

 「業者の方を呼んだのですが、柱と天井を繋いでいたネジが数本折れていたそうです。腐食が激しかったから老朽化だろう、との見解でした」

 「なるほど。確かにそれなら事故ですね」

 「そう。この話は私もすぐに紫杏から聞いて事故だと思いました。でも十一月にあった出来事は聞いてなかったから──」

 「それは──」

 言い掛けた紫杏は恥ずかしげに頬を染めるとそのまま黙り込んだ。

 「えーっと、まずは紫杏さんの周囲の状況をお伺いしておいた方がスムーズに話が進みそうですね。お二人はお友達ですよね?」

 トパンが目先を変える為に質問した。

 「ええ。紫杏が小学校の頃にこの町へ引っ越して来てから高校卒業までずっと一緒です。卒業後、私は隣の市にある短大へ自宅から通っていますが、彼女はずっと家事手伝いをしています」

 「すると、こちらには御両親も御一緒に?」

 トパンの疑問に紫杏は顔を曇らせながら答えた。

 「母はこの町へ来る前に亡くなりました。私の面倒は父が見てくれていたのですが、数か月前から父は寝たきりになってしまって」

 「まあ悪い事もあるけど良い事もあるじゃない。おかげで彼に堂々と会えるし」

 莉瑠が茶々を入れると紫杏はむくれた。

 「やめてよ! その前から父には彼と会って貰っているわ」

 「この子の彼氏はこの町の出身なんですが、私の短大と同じ市にある医大で研修医をしています。樽守さんが重病になる前は町のお医者様を主治医にしていたんですけど、何か不満があったようで娘の彼氏に担当して貰いたい、と言い出したそうです」

 「なるほど。あなた方とお父様、彼氏さん以外にこの屋敷に出入りしている人はいらっしゃいますか?」

 「立ち寄るだけなら色々な方がいらっしゃいますが、長い時間となると後は庭の手入れをお願いしている蜂須さんくらいでしょうか?」

 「蜂須さんか──ねえ、今思い付いたんだけど、犯人は蜂須さんよ!」

 紫杏の言葉に独り合点した莉瑠が突然断言した。

 「何よ、突然」

 「だって事件は全て外で起きた事だもの。それに彼、あなたの事が好きだったみたいだから、男を連れ込んだことが許せなくて制裁しようとしているのよ!」

 「もう! お客様の前で馬鹿な推理ごっこは止めて!」

 紫杏が本気で怒っているのを感じ取った莉瑠はシュンとなって黙り込んだ。

 「まあ、可能性は全て排除しませんから。では十一月に起きた出来事とは何ですか?」

 トパンが場をフォローするように申し出ると、莉瑠は持ち前の陽気さを取り戻したかのように活き活きと語り出した。

 「それは月の綺麗な晩のことでした」

 「ちょっと、あなたはその場にいなかったんだから知らないでしょ!」

 紫杏のツッコミにもめげずに莉瑠が続ける。

 「それはおそらく月の綺麗な晩のことでした。秋の空気と自然に満ちた庭園を一組の男女が愛を語りながら散歩しています」

 「愛は語ってません。父の容態を伺っていたの」

 「建て前はともかく、ラブラブな二人が番犬小屋近くまで歩み寄って行くと、飛び起きた番犬が二人へ向かって走り出しました。普段なら首輪から繋がれている鎖によって行動範囲が制限されている番犬でしたが、何と伸び切った勢いで鎖が切れてしまったのです! 番犬は迷わず紫杏へと飛び掛かりました。しかし隣にいたイケメン若手医師が手にしていた鞄から麻酔注射を取り出して素早く番犬へと突き刺し、事なきを得たのでした」

 「もう! まるで週刊誌の記事みたいな解説ね」

 莉瑠の状況説明が終わると紫杏は不満を述べた。

 「番犬って今はいなかったと思いますが、気性は荒かったのですか?」

 トパンの質問には莉瑠が答える。

 「どうしようもない馬鹿犬でした。いつまでたっても御主人様を覚えなくて。餌を与えてた紫杏や蜂須さんにだって吠え立てていたのですから」

 「鎖はなぜ切れたのでしょう?」

 「デンは誰が来ても犬小屋から勢い良く飛び出して来るのです。だから本当はこまめに鎖を替えなければいけなかったのですが、頑丈な物だったのでつい怠ってしまって──」

 紫杏が反省を示すかのように消え入りそうな声で答えた。

 「まったく、教えてくれれば良かったのに。デンが保健所へ引き取られたっていうから『ようやくかぁ』って思っていたけど、裏にはそんな事件が隠されていたなんて」

 「なるほど。偶然が二つも続くのはおかしいと」

 「違います、三つめもあるんです。この屋敷の裏庭からは川へ出ることが出来ます。結構な急流なので安全を考慮して、人一人が渡れるくらいの木製の小さな橋がかけてありました。私的な土地に造られた橋でしたから樽守家の関係者しか使わないのですが、先週紫杏がその橋を渡っている途中で橋が真っ二つに割れ、彼女は川の中へと落ちてしまったのです!」

 「古い橋でしたから、普段から危ないとは思っておりました。ですから、川へ落ちてもそれほど動揺せず、橋の袂にあった木の根っ子に掴まって流されずに済んだのです」

 「でも、もし手が滑ったりしたらすぐその先には滝があるのよ。三つの出来事が起こったにも関わらずあなたが無事だったのは本当に運が良かったのよ」

 紫杏が事件性を否定しようとするが、莉瑠はあくまでも偶発的な事故ではなく意図された事件だと主張する。

 「確かに莉瑠さんのおっしゃることにも一理あります。偶発的に三つの出来事が立て続けに起こったのならば不幸な偶然ということもあるでしょうが、毎月一回不幸な事故が起きるというのは明らかに奇妙です。少し調べて見たいのですが、シェルターを支えていた折れたネジ、番犬を繋いでいた切れた鎖、真っ二つに割れた橋。これらの現物は残っていますか?」

 トパンが問いかけると紫杏は首を横に振った。

 「事故の後片付けは蜂須さんがしてくれましたから、もう無いはずです」

 「そうですか──では屋敷の中を拝見させていただきたいのですが、その前にお父様へ御挨拶をさせていただいた方が良いでしょうね」

 「でしたら、もうしばらくお待ちくださいますか? 間もなく訪問診療の時間ですので主治医の先生がいらっしゃいます。眠っている父を起こしたくありません。局部麻酔が切れかかった時の父の姿は見るに堪えませんので」

 紫杏の言葉にその場が重い空気に包まれたが、すぐに莉瑠が取り成した。

 「またまた他人行儀に言っちゃって。素直に彼氏って言えばいいのに」

 「彼は私に会いに来る訳ではないわ。父の診療の為よ」

 「彼は診療の為に来る訳ではないわ。恋人に会う為よ」

 紫杏の口調を真似て莉瑠が茶化す。

 「もう! あなたとは話したくないわ」

 怒る紫杏を尻目に莉瑠がおどける。

 「もう、彼を離したくないわ」

 その調子が可笑しくて、我慢し切れずトパンが吹き出してしまう。ニコも口元を覆いながら俯いている。そんな二人と一緒に莉瑠がケラケラ笑うため、怒っていた紫杏も負の感情を抱えている自分が馬鹿らしくなり声を上げて一緒に笑い始めた。


 「初めまして、外柳と申します」

 屋敷へ診療に訪れたのは爽やかな雰囲気を醸し出す中肉中背の好青年であった。

外柳はトパンへと手を差し出して握手を求める。

 「話は紫杏さんから伺っています。事件の調査にいらしたのですね。実は一連の出来事をまだ樽守さんへお伝えしていないのです。ですから私の先輩という体で同席していただいて宜しいでしょうか?」

 トパンは手を握り返しながら答えた。

 「医学的意見を求められなければ問題ありませんよ」

 トパンの冗談に外柳はニコッと笑みを浮かべた。

 「早速行きましょう。予定よりも遅れてしまいました。麻酔が切れていたら大変です」


 外柳が部屋の扉をノックするが中から返事はなかった。

 迷いなく扉を開けて室内へと入って行く外柳。トパンもその後へと続く。

 室内には手前に書斎机が置かれ、奥がベッドとなっている簡素な造りであった。

 ベッドの上に寝ている人物は人の気配を感じて、首だけを入口へと向けた。

 「ああ、先生か。もうそんな時間か。ここにいると時間の感覚を忘れてしまう。囚人と同じだな。ああ、以前も同じことを言ったな」

 樽守は弱々しく告げると、焦点の合わない瞳をトパンへと向けた。

 「誰かね、君は。葬儀屋か?」

 全身黒づくめのトパンの姿を見て問いかけた。

 「違いますよ。今日こそ病気の原因を突き止めるために、医大の先輩をお連れしたのです。局部麻酔をしますから、布団を捲りますよ」

 外柳はベッドの足元へと位置取ると、往診鞄を開き注射器を取り出した。ゆっくりと布団を捲るとそこには赤く腫れ上がった両脚があった。

 「こりゃあ、ひどい」

 思わずトパンが感想を述べる。

 「だろう? 腕も診てもらおう」

 樽守に促され外柳が布団を捲ると両腕も赤く腫れ上がっていた。

 「麻酔がなければ拷問のような痛みに襲われるんだ。かといって局部麻酔だから手足を動かすこともできねえ。一日ここでボーッとしてるだけの余生さ。君が死神だったとしても大歓迎するよ」

 「樽守さん、そんなことを言わずに。必ず治しますから。信じて下さい」

 手早く麻酔注射をした外柳は樽守から欲しい物を訊き出すと、挨拶をしてトパンと共に部屋から出て行った。


 廊下へ出た途端、トパンが外柳へと問いかける。

 「確か毒キノコにあんな容態へ陥る種類がありましたよね?」

 その質問に外柳が目を丸くした。

 「良く御存知で。ええ、確かにドクササコを食した時の症状に似ています。それは私の前任者である主治医の先生も指摘していました。現代医療においてドクササコの毒は根治不能な毒物ではありません。当然治療法を試したのですが効果がありませんでした。それが原因で樽守さんは主治医を替えることにしたのです」

 「研修医のあなたに?」

 トパンが一番訊きにくいことをズバリと問うた。

 「全く不可思議です。しかし、誰がやっても同じだという心理に陥った患者の立場に立ってみれば、それほど不思議ではないのかも知れません。穿った見方かも知れませんが、私は樽守さんから紫杏さんを託すに値する男かどうか試されているのだと思っています」

 「だとしたら番犬から紫杏さんを守ったことをアピールした方が良いですね」

 トパンがニコッと笑いかける。

 「いえ、デンが居なくなったことを知ったら樽守さんは悲しむでしょう。狂犬ではありましたが樽守さんのお気に入りで、以前から保健所へ連れて行くのに反対していたそうですから」

 「まあ確かに吠えない番犬は役に立ちませんから。でも飼い犬に手を噛まれるなんて諺通りになっても笑えませんね」

 「その通りです。本当に紫杏さんが無事で良かった──」

 呟くように安堵を洩らす外柳の横顔を、トパンは子細に観察していた。


 帰る外柳を見送りに出た紫杏と別れたトパンとニコは莉瑠と一緒に庭園を一周していた。

 「これが倒れたシェルター。今はもう直っているけど」

 「あの犬小屋からここまで鎖が伸びるの。これ以上は来れないはずだったのよ」

 「ここに橋が架かってたの。橋台が残っているでしょ? 見た目はそんなにボロくなかったのよ」

 ガイドの役割を勝手に買って出た莉瑠が二人を事故現場へと連れて行き、次々と説明をして行った。

 「思ったのですが──」

 それまで黙った状況を見守っていたニコが唐突に口を開いた。

 「もしこれが事件性のある物ならば、樽守家に恨みのある人物を探した方が良いのではありませんか? 被害者が紫杏さんであったのは偶然だった可能性もあるのではないでしょうか?」

 「事故に遭うのは樽守さんでも紫杏さんでもどちらでも良かったということかい? だとしたら樽守さんに毒を飲ませた人物が別にいなくてはならないよ。当然犯人は毒の効果を知っているはずだから、樽守さんが出歩けないのは判っている訳だし」

 「ってことは、やっぱり紫杏を狙った罠ってこと?」

 ニコとトパンの推理を莉瑠がまとめた。もうすっかり打ち解けたのか、トパンに対してもタメ口になっている。

 「罠か──莉瑠さん、樽守さんは寝たきりになってどのくらい経ちました?」

 「そうね、三か月くらいかしら。そうそう、シェルターが倒れた時にはもうすでに寝たきりになっていたわ」

 「外柳先生が屋敷に出入りし始めたのはいつごろです?」

 「えーっと、秋口じゃないかしら。町中で倒れた紫杏を通りかかった外柳さんが介抱したのが出逢いのキッカケだったから」

 「倒れた?」

 「ええ、あの子は心臓に問題があって激しい運動が出来なくて。たまたまその日は体調が良かったらしくてお父さんと車で街へと行ったんだけど、買い物中にはぐれてしまって車に置いてあった薬が飲めなくなってしまったの。その時点では薬が飲めないこと自体はそれほど問題ではなかったんだけど、紫杏自身が薬を飲めないことに極度の不安を感じてしまって、それが負担となって倒れてしまったの。だけど──そこへイケメン医師が通りかかるんだから人生とは素敵よねっ、ニコちゃん」

 「──なぜ私に振ります?」

 ニコは莉瑠へと冷めた態度で返答した。

 それらを無視して、トパンが莉瑠へと申し入れる。

 「莉瑠さん、今から蜂須さんにお会いすることはできますか?」


 その夜、紋平類町のホテルに宿泊していたトパンは真夜中の内線電話によって叩き起こされた。

 布団に潜ったまま手だけを伸ばして電話を探して受話器を取る。

 「──はい?」

 寝ぼけ眼のまま答えると、電話口の向こうからニコが捲し立てた。

 「ずっと携帯電話を呼び出していたのに何で出ないんですか! サイレントモードにでもしているんですか? 携帯の意味がないじゃないですか! だいたいあなたは──」

 ガチャンと受話器を置いて、トパンは再び布団へと潜る。

 間髪入れず再び呼び出し音が鳴り響く。

 再び手を伸ばしたトパンだったが、今度は受話器を外すとそのまま枕元へと放置した。

 「何で切るんですか! 呑気に寝てる場合じゃないですよ! 樽守さんが亡くなりました! 紫杏さんも病院へと運ばれています!」

 その一言でトパンはパチッと目を見開いて受話器を手に取った。

 「すぐ行く! フロントで合流しよう」


 タクシーで病院へと向かう間、ニコがトパンへと状況を説明する。

 「先程莉瑠さんから電話が来ました。彼女は今、樽守家にいます。救急車が樽守家へ向かうのを見て駆けつけたのだそうです。莉瑠さんが着いた時には紫杏さんが運び出されるところでした。紫杏さんには意識が無く、救急隊員も状況を教えてくれなかったので、莉瑠さんは樽守さんへ何が起きたのか尋ねる為に部屋を訪ねました。ところが彼はもうすでに息をしていなかったそうです。警察へ通報し、今第一発見者として事情聴取を受けています。代わりに私へ『紫杏の様子を見て来て欲しい』と依頼があったのです」

 「なるほどね──」

 ニコの話を聴いたトパンは、深く考え込みながら口を閉ざした。


 結局その晩は紫杏の意識は戻らず、翌日には外柳が重要参考人として警察から出頭要請を受けた。解剖の結果、樽守の死因は毒物によるもので、彼の枕元に置かれていた薬瓶からその毒物と同成分と思われる錠剤が発見された。また紫杏も「いつもと違う薬を飲んでしまったようだ」と自ら救急へと電話した記録が残っていたからだ。

 「私が樽守さんを殺すわけがありません! 彼は私と紫杏さんが付き合うことを認めてくれていたのです! 疑うのならば友人知人へあたってみて下さい」

 毒殺事件との報を受けて遥々警視庁捜査一課からやって来た蟹丸警部と紋平類署の取調室の中で相対しながら外柳が必死に弁明する。

 「御存知の通り、樽守氏は資産家だ。あなたは紫杏さんと交際することでいずれはその資産を受け継ぐことになる。それを早めようとしたのではありませんか?」

 蟹丸は藪睨みな視線で外柳を睨め付けた。

 「──なんて単純なシナリオに警察が乗っかるとでも思いましたか?」

 「えっ?」

 動揺する外柳へと畳み掛けるように蟹丸が言葉を続ける。

 「紫杏さんの御友人の丸栖さんへお話を伺いましてね。あなたと紫杏さんとの出逢いの物語です。いやぁ、本当に運命的でした。しかし残念ながら私は運命を信じない。こう考えてはいかがですかね。樽守氏はわざと娘さんを独りにさせた。そして何かあった時に声を掛けるよう、一人の青年を準備していた、と」

 蟹丸は言葉を切って外柳の顔色を窺う。

 「ハハハッ。さすが凄いですね、警察の方は。推理小説家並みに想像力が豊かです」

 外柳が皮肉をたっぷり込めながら感想を述べた。

 「まあこれも御存知でしょうが、紫杏さんは樽守氏の奥様の連れ子だ。そして樽守氏の持つ資産は元々全て奥様の物。奥様の遺言により遺産は全て紫杏さんへと引き継がれます。彼女の成人に伴って、資産管理を任されていた後見人である樽守氏の元から全ての権利が紫杏さんへと移されるのです」

 「そうなんですね──」

 初めて知ったというような表情を浮かべながら外柳が呟いた。

 「紫杏さんを成人させない為にあなたは樽守氏に雇われた。そして屋敷を訪れるたびに罠を仕掛けて帰ったのです。ところがターゲットであった紫杏さんが想定以上に自分へ好意を寄せて来ていることに気づいたあなたは、定額の報酬ではなく総額を手に入れようと思い付き、樽守氏を毒殺したのです!」

 外柳へと、ビシッと人差し指を突きつける蟹丸警部。

 「素晴らしいですね、警部さん。小説家デビューしたら私は愛読者になりますよ」

 「ふざけるな!」

 蟹丸は外柳の態度に激怒しながら机を叩いた。

 「まあまあ、蟹丸警部。任意同行して下さった一般市民に対して、そんなに熱くならないで」

 そう言いながら飄々とした様子で取り調べ室へとトパンが入って来る。後ろにはニコも同行していた。

 「有瀬塗範! こんなところで何をしている!」

 蟹丸は突然の闖入者を苦々しげに睨み付けた。

 「いやぁ、知り合いの警察官に入れて貰ったんですよ。こちらの外柳先生の弁護士としてね」

 「──弁護士?」

 トパンの言葉に反応したのはニコであった。

 「フン! いいだろう。連れて帰ったところで、令状を取ってしょっぴくだけだ」

 蟹丸が不機嫌に言い捨てるが、トパンはさらりと否定する。

 「連れて帰る気などありません。この場で事件の全貌を解明して、先生には堂々と正面玄関から出て行って貰います」

 「面白い! お得意の探偵ごっこってわけだ。犯人はすでに確保している。慌てることはないからな。じっくりと聴かせてもらおうか」

 「御協力感謝いたします」

 トパンは慇懃無礼に山高帽を取りながら頭を下げる。姿勢を戻して帽子を被ると、ネクタイをギュッと締めて話を始めた。

 「今回、僕は警察よりも一日早くこの事件に取り掛かることが出来ました。その為、今後警部が入手するであろう証拠を一足先に提供することが可能です。こちらを見て下さい」

 トパンがポケットから二つの透明なビニール袋に入れた物体を取り出す。

 「こちらがシェルターが倒壊した際に使われていたネジ、もう一つは番犬を繋いでいた鎖の引き千切れた部分です。どちらも庭師をされている蜂須さんが保管されていました」

 二つの袋を机の上に置くと内ポケットから片眼鏡を取り出し、虫眼鏡のように使って一部を拡大させながら警部たちへと見せた。

 「御覧いただければお分かりのように、破断面に通常の老朽化とは明らかに異なる腐食した痕が見受けられます。鑑定をしたわけではありませんが、おそらく強力な酸を塗布したのだと思われます」

 蟹丸警部は証拠である物体を眉唾物だという表情で睨め付けながら断言する。

 「もしこれが貴様の言うような物的証拠だったとしても、寧ろ容疑者の犯行を裏付けする物証にしかならんぞ。それとも庭師の犯行だとでも言いたいのか?」

 「いいえ、蜂須さんは事件とは無関係ですよ。紫杏さんから事件の後片付けを依頼されていたにも関わらず、自身の犯行の証拠を大事に保管しておくなんて間抜けな犯人はいません。蜂須さんも事故ではなく意図された事件の可能性を考慮してこれを確保していらっしゃったのです。ここには持って来られませんでしたが、落ちた橋もまだ廃棄せずに保持されています。そこから犯行の痕跡が見つかったら警察へ行かれるつもりだったようです」

 「それは大助かりだ。犯人がいて、証拠もある。こんなに楽な事件は初めてだ!」

 嫌味な態度を隠そうともせずに蟹丸が言い放った。

 「警部の悪い癖は御自身の仮説に固執することですよ。どうして先生だけを容疑者に絞り込んだのですか?」

 「それは勿論、動機のある者の中から犯行可能な人物を割り出して──なるほど、時限装置の可能性を言及している訳だな。確かにそれならば樽守氏にも事故を引き起こす犯行準備を行うことは可能だ。だが、そうなると娘の命を狙った者と樽守氏を毒殺した者が別の人物ということになる。個人的には恋人の復讐の為にこちらの先生が毒薬を飲ませた、と言いたいところだが時系列的に不可能だろう。貴様の説に乗っかるとしたら娘が自身の父親に殺されかけたのを知り、悲観のあまり父親を毒殺し自らも毒を飲んで無理心中を図ったという展開が一番自然だ。よし、研修医の先生は連れて帰っていいぞ。病院から娘が回復したとの連絡が入り次第、事情聴取を行う」

 一人早合点して取調室から出て行こうとした蟹丸の前へとニコが立ち塞がった。

 「なんだね、君は? いつからいたんだ」

 今までトパンの影に隠れて全く気付かれていなかったことにムッとしながらニコが名乗った。

 「谷得織丹子と申します。今は有瀬さんの助手みたいなものです。まだ有瀬さんの話は終わっていません。人の話は最後まで聴きなさい、とお母様に教わりませんでしたか?」

 さらっと大人を馬鹿にする少女にカチンときた蟹丸が大人げなく反論する。

 「お嬢ちゃんこそ、警察官の行く先を遮るのは公務執行妨害にあたるとママに教わらなかったのかな?」

 それに対してニコの反応は冷淡だった。

 「母は私が幼い時に亡くなったので記憶にありません」

 「それは──申し訳ない」

 蟹丸はしおらしく謝ると、空咳をしてから椅子へと戻った。

 「続きがあるなら早く話せ」

 警部に促されたトパンはニコへ目線で称賛の合図を送ると言葉を続けた。

 「物的証拠から僕も時限装置に関しては警部と同じ結論へと辿り着きました。ただしその時点で紫杏さんの血縁関係までは知りませんでしたので動機が不明で犯人である確証がありませんでした。しかし警部の調査のおかげで樽守さんが紫杏さんの命を狙う意図が判ったのです」

 「しかし、効率が悪すぎませんか? 例えネジや鎖に細工をしておいたとしても丁度そのタイミングで紫杏さんが通りかかるとは限らない。それにたまたま自身が重病にかかっていたから疑われずに済みましたが、そんな事故で紫杏さんに何かあれば真っ先に容疑者になるのは樽守さんではないですか?」

 外柳の疑問にはニコが答えた。

 「偶然の発病ではなかった、ということですね」

 「その通り。樽守氏の過去の経歴は不明ですが、おそらく薬剤師の免許をお持ちかと思われます。様々な事故が起きるように仕込んでおき、自らは命に別状の出ない範囲の重病人となる、これが彼の計画です。先程の効率の話ですが、十仕込んでおいて一成功すれば良いわけですから、表現としては不適切ですが『果報は寝て待て』というわけですよ」

 「では娘が飲んだという薬も父親が以前に仕込んだ物だということか──」

 蟹丸が渋々と意見を覆した。

 「間違いないでしょう。先程、外柳先生がおっしゃったように偶然の事故を装う為には偶然のタイミングが必要です。ところが紫杏さんの日常薬に仕込めば確実な時限爆弾ですからね」

 「ならば余計な事をせずに毒薬だけでも良かったのではありませんか?」

 ニコが至極当然の疑問を呈する。

 「薬による事故は偶然では処理されないからね。それに触れられる人間となると身内に限られる。自らの容疑を逸らすためには別の人物を呼び込む必要があったんだよ」

 「それが私というわけですか。参ったな、認めてもらっていたと思っていたのに」

 トパンの言葉を受けて、外柳が傷ついたように肩を落とした。

 「実はここへ来る前に莉瑠さんへお願いして、樽守さんの前任の主治医の先生に会って話を聴いたんです。やはり樽守さんは病気発症後、一旦は治療で回復する兆しを見せたということでした。しかし、ある日突然悪化して効果が無いことを理由に契約を切られた、と。おそらく仕込んだ罠が思ったように発動せずにもっと時間が必要だと考えた樽守さんは隠し持っていた毒薬を飲んだのでしょう。そしてついに娘が毒薬を飲んだことを知った彼は自らを容疑者リストから外す為に、もう一度毒を飲んだのです」

 「何て愚かな奴だ! 耐性が出来たとでも思ったのか?」

 呆れる蟹丸へとトパンが私見を述べた。

 「全ては慣れですよ。包丁をいつも使っている者はそれが危険な道具となることを知りながらも万が一の事態は想定していません。そんなことばかり考えていたら料理は出来ませんからね。車の運転も同じで事故を怖れるなら運転しなければ良いのです。皆そうならないように注意しながら危険物を扱っています。樽守さんは目先のことに囚われすぎて、自身の命を守るという生物としての根源を失念してしまったのでしょう」

 「警部」

 部屋がノックされて開かれたドアから所轄の刑事が蟹丸を呼んだ。

 一旦退出した蟹丸は取調室へ顔だけ出すと、トパンたちへと念を押すように伝える。

 「被害者が回復した。いいな、絶対に取り調べの邪魔をするなよ」

 それだけ伝えると刑事を伴って病院へと向かって行った。

 「これって、付いて来いということでしょうか?」

 ニコが小首を傾げながら誰にともなく問いかける。

 「まあ、警部はツンデレだからね──行きましょう」

 トパンがすでに立ち上がっていた外柳の為にドアを開け放った。

 「これから紫杏さんは知りたくもない色々な事実を知ることになります。彼女を支えてあげるのも主治医として重要な役目だと思いますよ」

 外柳はトパンの目を見つめながらキッパリと答えた。

 「それは主治医としての僕の役割ではありません。婚約者としての僕の役割です」


                                 つづく

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