第5話 異変(前編)

 その日の朝は普段と特に変わらない、ありふれた朝だった。

 依頼をこなした直後で仕事がなく、カケル達三人はそれぞれ思い思いに過ごすことになっていた。

 ガーリックは常宿にしている部屋で一日寝ると言っていた。カケル曰く、宴の後はいつもそうらしい。

 ミントは実家暮らしのため朝は家の手伝いをした後、私の体が眠る洞窟へ行くと言っていた。ワタルもついていくらしい。

 そしてカケルは自宅であるクラウスの安アパートの一室でワタルと一緒に朝食の最中だ。

「兄さんも一緒に行かない?」

「ラグーン様の洞窟か。あそこは魔物の支配領域とはいえクラウスから近いし、魔物も少ない。ミントがいれば危険は無いさ」

「そうじゃなくて、ラグーンを一緒に見に行かないかってことだよ」

「こら。ラグーン様、だろう」

「構わない。私とワタルはアレだからな」

「友達だよねっ」

「そう、それだ」

「ラグーン様がそうおっしゃるなら、いいのですが」

 この二人と会話する時間は私の一日の楽しみの一つだ。私をよく知らない人間の大半は私を恐れるか敬うかのどちらかだが、カケルは私をよく知り、ワタルは私を恐れない。他者とこのように気を許した関係を持つのは久しぶりで、とても心地よい。

「ねぇ兄さん、一緒に行こうよ。兄さんが来てくれないとラグーンも来れないじゃん」

「それが狙いかっ」

 ワタルは初対面から私にも懐いてくれている。嬉しい。そうかー、私と一緒に行きたいのかー。

「カケルよ、ワタルがここまで言っているのだから一緒にーー」

「悪いなワタル、オレはこの後ギルドへ行く用事があってな」

「ーーごにょごにょ」

 ……そういえば今日はミーティングがあると言ってたな。

「今日も仕事なの?」

「戦うばかりが仕事ってわけでもなくてな。まぁそこまで時間はかからないから昼には帰ってくるさ」

「じゃあボク達が帰ったらお昼一緒に食べようね!」

「ああ、わかったよ。そら、そろそろミントが迎えに来る頃だ。早く支度してこい」

「大丈夫だよ、もう出来てるから」

「はやいなっ」

 食事を終えて食器の片付けを二人でしていると、玄関をノックする音が聞こえた。

「おはよう〜来たよ」

 元気な声に急かされてワタルがドアを開けると、姿を見せたのは魔導士としての装備を整えたミントだった。

「ミント姉ちゃん、早く行こう!」

 笑顔で手を引っ張るワタルに笑いかけてから、ミントはそれ以上の笑顔でカケルに向き直った。

「それじゃ、行ってくるね」

「ああ。いつもありがとう。その、気をつけてな」

「大丈夫よっ。なんたって私も八竜の一人なんだから」

「ミント姉ちゃんが八竜って、そういう感じじゃないよね」

「うぐっ、実は私もそう思ってたり〜あはは」

 ワタルに引っ張られて外へ向かうミントは最後にもう一度だけカケルに向き直って笑いかけた。カケルはぎこちなく笑い返す。そうして玄関が閉まり二人の姿が見えなくなってから、私は問いてみることにした。

(どうしたカケル。本調子ではないようだが疲れているのか?)

(いえ、体調は問題ないのですが、何でしょうね。今朝はいつもと何かが違う気がして)

 違和感……それは多くの場合、気づいていることに対しての無自覚から来る。

(今日は気をつけておいた方がいい。そういう時は……何かが起こっているものだ)

 そう、物事はいつだって気づいた時には始まっていて、悔やむ頃には終わっているのだから。




 クラウスから遠く離れた、魔物の支配領域奥深く。点在する小さな森の中に潜む影がある。本来なら人が入りこめば即座に気づかれる程に魔物の匂いが濃い世界において、魔物ならざる彼女が気づかれることなく済んでいる理由は、全身に細かく塗りこまれた染料だ。魔物の油から作られた染料は彼女を美しく彩ると同時に、魔物の世界に彼女を同化させる。

 顔に染料を塗った女性は、草木の間から目を凝らして魔物の観察を続ける。弓矢の腕にも覚えはあるが、彼女の真価はその隠密と情報収集能力だ。それは八竜と呼ばれるようになった今も変わらない。

 昨日は飲みすぎたと反省し、自己嫌悪に陥ったのも出発前までのこと。今の彼女は一流のハンターとして魔物の動向、特にクラウスに害を為す恐れがある危険な魔物がいないかを探る。

 先日といえば、彼女が調べたばかりの狼型の魔物の群れは、すぐに同じ八竜の腕利き達が片付けてしまったことを思い出す。実際大したものだと思う。危険度で言えば今まで遭遇した中でも上位に入るであろう魔物を、半日で討伐してしまったのだから。特にリーダー格の男はまだ若年ながら八竜の筆頭と呼ばれるだけのことはある。

「……伊達に竜の加護をもらったわけではないってことかね」

 多少の嫉妬を含んだ独り言。考え事もそこそこに、彼女は任務に集中する。

 多くの魔物が移動を始めている。彼女はそこに特異性がないか観察する。先日のように、群れを率いる大型の個体が出現して人間に対する敵対行動を組織的に行うこともあり得るのだから。だが今のところはその心配はないようだ。視界に映る全ての魔物がクラウスの反対方向へ移動している。

 安心とともに、かすかな違和感。何だろう、何か見落としていないか。彼女は自問する。

「……待って。全ての魔物?」

 視界に映る種も生態も違う全ての魔物が、一斉に移動している。それこそが特異ではないか。

「一度合流して、あいつに街に知らせてもらうかね」

 彼女は相棒として行動している魔導士との合流予定場所に向かった。嫌な予感に突き動かされ、逸る気持ちを抑えながら。




 クラウスからそう遠くない森の中。ここは魔物の支配領域ではあるが資源が豊富なため、人間が狩りや植物採集を目的によく足を運ぶ場所だ。

 この森の中に広大な洞窟があることは最近まで知られていなかった。しかしそれも、伝説で聞く竜の仕業と聞けば納得だ。

 その洞窟にミントはワタルを連れてやってきていた。仕事が無い日はここで眠る竜の体に回復魔法をかけに来るのが彼女の日課になっている。

「見てよミント姉ちゃん、いつ見てもすごいよ!」

「本当ね……」

 ミントはワタルに全く同感だった。魔法をかけながら竜の体を見上げると、そこにはいつもと変わらない威容がある。今まで見たどんな魔物よりも大きな体、全身から放たれる存在感、周囲に漏れている分だけでも濃密な魔力、触れた手を押し返す弾力と硬度を兼ね備えた皮膚。まさに地上最強の生物と言っても誰も疑わない姿がここにある。今は意識の無い抜け殻のようなものらしいが、今にも動き出しそうな生気に溢れているように見える。

「これで動けない程の重傷だなんて、信じられないくらい」

 しかしそれは事実だ。本人が言っていたとおり、中身はボロボロで再生が追いついていない。むしろ崩壊するのをギリギリで抑えている。

「これだけの魔力と長い時間があったなら、もっと再生できていてもおかしくないのに」

 魔力を回復に回せないのか、傷自体に回復を阻害する要因があるのか。そこまではミントもわからない。

 最近は少しずつ再生が始まっているが、それも雀の涙くらい微々たるもので、正直言って自分の回復魔法がどの程度影響を与えているのかもわからないのが現実だ。これは人間の魔導士一人に何とかできる規模の生命ではない。それでもーー

「少しくらい回復の後押しができていればいいのだけど」

ーーミントは回復魔法をかけ続ける。いつかこの偉大な生命が万全の状態で動く姿を、何よりも偉大な竜が喜ぶ姿を見てみたいのだ。

「それにしても、これほど強大な生命が存在の危機に瀕するほど追い込まれるなんて…」

 はるか昔にあったという大戦はそれほど過酷なものだったのか。竜が絶滅寸前まで追い込まれるほどに。

「ーー今日は、ここまでかしら」

 倦怠感が出てきたところでミントは魔法を止めた。一応ここは魔物の支配領域だ。もしもの時にワタルを守れるだけの魔力は残しておく必要がある。とはいえ、このあたりは強力な魔物はいないし、人が襲われることも少ない。もしかしたら竜の存在が魔物を遠ざけているのかもしれない。

「ワタル、そろそろ帰りましょうか」

 未だに飽きることなく竜を眺める少年に、彼の兄の幼い頃の姿が重なる。一緒に身近で未知の場所へ冒険に出かけた記憶がよみがえる。また冒険したいものだと思う。可能なら、竜の背中に乗って空を飛んで、どこまでも遠くへ。

 誰かが知れば呆れそうな妄想に自嘲しながら、ミントは少年と手をつないで竜の洞窟を後にした。

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