1章 ― 旅立ち

第1話-始まりの日

何時間、何日、何年、経ったのか、もうどうでもいい事だった。

ただ、ただ、苦しい。

辛い。


それすら考えられなくなってきた頃、不意に声が響いた。


『こんなところまで落ち続けるなんて、君はどんな罪を犯したんだい?』


「…………」


『あぁ、人間じゃ、こんな深度まで堕ちれば壊れちゃうか』


「……ぁ」


『お、まだ意識が残ってるなんてびっくりだ。おーい、聞こえているかいー?』


 揺蕩たゆたう影のようなものが人の形をかたどっており、その影が言葉を発している。


『ダメか。すっかり魂が濁りきってる。まずは掃除しないと話にならないか』


 不規則に形が変わる腕を伸ばすと、真っ黒になったわたしを両手で包みこむ。その瞬間、わたしは光に包まれヘドロのような黒が真っ白に変わっていた。


―――――――――――――――――――


『そろそろまともに会話出来るかな? 君、お名前は?』


「なまえ……よる……行本夜」


『夜ちゃんね……変わった名前だね』


 妙に意識がはっきりしており、先程までの深い沼の中に浸かっている様な感覚はすっかり亡くなってしまっている。

 よく寝た朝、時間通りに起きることが出来たときのような清々すがすがしさを感じていた。


「えっと……私は一体……?」


『うん、ちゃんと魂の浄化が終わったようだね。意識も無事だし元気になった』


そう言ってその人影は手をパンと叩く。


『まずは僕のことから教えてあげよう。僕は羅闍ラジャだ』


「ラジャ……?」


『そう。君は八度も輪廻転生を繰り返していることを知っているかい?』


「はい……そう言われました……」


輪廻転生とか何のことかと思ったが、あの赤黒く染まった浴室での声がそう言っていた事を薄っすらと思い出した。


『でも、それはありえない。普通は四回も輪廻転生すれば壊れてしまうし、こんなところまで辿り着けない』


 その人影は謎解きの推理をしているような口調で語り続ける。


『君はヒトじゃない。ヒトの魂に擬態されただ』


 まさかの宣告を行う羅闍ラジャだが、声色からは感情は読み取れない。


「じゃ、じゃぁ私は……いったい」


『つまり……この世には、この浄土には、君の魂が逝く先は用意されていない』


「……」


『だから、君を戻す。このままだとその呪いでこの世界を壊してしまう』


「私は人ではなくて……居場所はない? 別の世界で生まれ変わる?」


『魂は浄化してあるし、問題ないだろう』


 顎に手を当てるような仕草をしながら羅闍ラジャと名乗った影は私の周りをフヨフヨと漂い出す。


「あの……」


『誰がどういう目的でその呪いを成したのかは分からん……』


 生まれ変わった先が意思疎通が出来ない動物だったらどうしようと考えると、全身が震える感覚が襲ってくる。


『心配はいらんよ。一時であったが、楽しかったぞ。息災でな』


 少し柔らかくなったような口調で羅闍ラジャは再びわたしに手をかざす。辺りが再び闇に覆われ――私の意識はそこで途切れた。


――――――――――――――――――――


 その日、その娘は家の裏手にある丘の上にある大樹の根本で丸まって昼寝をしていた。時折吹いてくる風がさらさらと前髪を揺らし、気持ちよさそうな木漏れ日の中で丸まっていた。


 麻でできたシャツに太ももまでのズボンにブーツ姿。

 肩の上でバッサリとカットされたショートカット。

 ボーイッシュな髪型だが淡い桃色の髪が女の子らしさを出している。


(息災でな……)


「――ソクサイ?」


 誰かの言葉が語が聞こえた気がして、丸まった猫のように眠っていた彼女はスタッと立ち上がって周りを見渡す。


 彼女が昼寝をしていた丘からは、家のある小さな村が見える。

 この村は巨木が立ち並ぶ樹海に囲まれている小さな村で、たまに街から行商人が来るような辺境だった。


 彼女はあたりを見回すが村の広場から子供の声が少し聞こえるだけで、周りには誰も居なかった。


(誰も居ない……よね)


 ――もう一度寝ようと思った瞬間、猛烈な頭痛に襲われ膝をつき頭を抱える。


(痛っ……!?)


 彼女は倒れたままの姿勢で自分の意識が遠くなるのを自覚しながらも、脳を侵されるように流れ込んでくる誰かの記憶を認識していた。


 それは見たことのない景色や、経験した事のない内容ばかりだったが、次第に何故忘れていたのかと思ってしまうようになっていたのだった。



――――――――――――――――――――



「あれ……私いつの間に家に帰ってきたんだっけ」


 彼女が目を覚ました時、そこは見慣れた自分の部屋だった。


「おや、起きたのか。帰りが遅かったから様子を見に行ったらお前倒れてたんだぞ、なにかあったのか?」


(……そうだ……私……)


「ごめんお父さん、もう大丈夫よ」


「そうか、ならいいが」


「でも一応、部屋でゆっくりしておくね」


「わかった。もし苦しかったりしたらちゃんと言うんだよ」


「はーい」


「じゃあ晩ご飯前には呼びに来るからな」




 彼女は突然、今の自分に生まれる前の事を思い出してしまった。

 羅闍ラジャと名乗った声のことも思い出してしまった。

 遥か過去この世界で生きていた時の事も思い出してしまった。

 本来なら覚えていなくても良いことまで思い出してしまった。


 『君はヒトではない』


たしかにその通りだと思い、頭の上からひょっこり飛び出た猫のような耳を触り、腰から生えている尻尾を一振りしてから、ベッドに寝転び再び目を閉じた。


――――――――――――――――――――


 彼女はこの世界で「ヨル」として生を受け、今年で十七歳。

 魔法や魔獣が存在するこの世界で、ほんとに一般的な十七歳の少女だった。

 戦いの訓練や、魔法の勉強も真面目にやってきて、最近旅に出て都会でいい人を見つけるのも良いかなと考えてたりもしている。


 しかし彼女は"人間"ではなかった。


 ショートカットの桃色をした頭髪から覗くのは猫のような耳は『セリアンスロープ』と呼ばれている亜人種の特徴だった。

『獣人』と呼ぶ人もいるが、ヨルはこの『セリアンスロープ』という呼び名の方が好きだった。

 

 ヨルは色々思い出せたし、色々思い出してしまった。

 あの世界で人間だった時より昔、この世界での事まで思い出してしまった。


 彼女はこの世界で「大地神ヨルズ」と呼ばれて人々に崇拝される存在だった。かつて人々から信仰を受け祝福を与えてきたヨルは、兄に殺された。

 呪いを受け、人間としてあの世界に飛ばされ、転生を繰り返し魂をすり減らされ続けてきた。


 全てはヨルの存在を完全に消し去ってしまうために。


「あのクソ兄貴、それと勇者は見つけたら、泣くまで殴ろう……!」

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