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学校に着いて後輩と別れ、自分の教室に入ると、特に叱られることもなく着席を促された。本日の一時間目の授業を担当している先生は、そういうことにあまり頓着しない人だった。自分は自分の授業を行うだけで、それに生徒が関心を持っていようが持っていまいが気にかけない人なのだ。だけど、分からない所を聞けば案外分かりやすく教えてくれる。こういう先生が割と生徒から人気だったりもする。
毎回毎回周到に準備をして気合十分で授業を行っている先生もいるが、その先生の生徒人気はあまりよろしくない。空回り感が否めない。
どっちが良い先生だとか、高校の先生として相応しいだとか、そういう問題ではない。周りが嫌っている先生のことを尊敬している生徒だっている。
世の中には色んな人がいるなぁという、ただそれだけの話だ。こんなちっぽけな高校の中でさえ、その事実が分かり切ってしまうほどに。
僕が席に着くと、前の席のアリスが僕の方に振り返った。
「社長出勤だな」
「途中で忘れ物を取りに帰ったんだよ」
「なんだ、彼女との登校デートに夢中になってたからじゃないのか」
そう言われて、僕はアリスが窓から僕と後輩が登校してくる様子を見下ろしていたらしいことを悟った。僕と彼の席は窓際で、ここからだと昇降口を出入りする生徒の様子がよく見える。
「授業は真面目に聞いた方がいいよ」
「遅刻したお前がそれを言うか」
「まぁ、確かに」
「お前さ」
「なに?」
「マジであの後輩の子と付き合ってるの?」
「たぶんまぁ、そんな感じだと思う」
「曖昧な返事だな、おい」
「そういうことだよ、きっと」
「はぁ」
アリスが呆れきったようなため息を吐いた。彼が僕に向ける視線が痛い。
「分かってるんだよ」
「は?」
「何とかしなきゃいけないことは分かってる。ハッキリさせなきゃいけないことがあることも知ってる」
「それで?」
「それで、アリスに頼みたいことがあるんだけど」
「ほう」
「今日の授業、最後の授業だけでいいから、僕と一緒にサボってくれない?」
「ほんと」
アリスが失笑を浮かべる。
「どの口が授業真面目に聞けって言ってるのかって話だよな」
昼休みを経て、授業を一つ受けて、その次の授業が始まる前に僕とアリスは学校を抜け出した。傘を差して、僕とアリスは並んで歩く。こんなふうに学校を抜け出すのは初めてのことだが、やろうと思えば何てことはなかった。
行き先は決まっているが、僕はその高校がどこにあるのか詳しくは知らなかった。けれど制服の特徴をアリスに話すと、彼は把握しているらしかったので助かった。彼の案内に従いながら、そこへ向かう。
目的の高校には想像よりも早く到着した。まだどの生徒も下校している様子はない。僕とアリスは正門がよく見える位置に立って、放課後になるまで待つことにする。
「でも驚いたな」
アリスが不意に言った。
「なにが?」
「なんかあったら言えよとは言ったけどさ、まさかお前が早速こんなことを頼んでくるとは思わなかった」
「意外?」
「意外っちゃ意外だよな。お前はなんだかんだで真面目な奴だとおもってたから」
「僕は真面目だよ」
そして臆病だ。アリスがいなかったら、きっと僕はここに来れていない。
ずっとそうだったのだ。たぶん、あの日に雨が降ってからずっと。
「平気で遅刻してきて、友達を学校サボりに誘う奴のどこが真面目なんだか」
アリスが呆れたように笑う。
「僕はさ、部長が好きだったんだ」
「その話は前にも聞いた」
「うん」
僕が部長のことを好きだというのをちゃんと話したのは、彼だけだと思う。
「部長とは小学生の時に出会ってさ、一緒に遊ぶのがほんとに楽しかった。たぶん部長は大人で、僕は子供だったから」
姉みたいな彼女の側にいるのが好きだった。僕には妹しかいなかったから。
「それで、高校になって部長とまた偶然会えてさ、本気で運命だと思ったんだよ」
「大げさな奴だな」
「うん、でもそう思ったんだよ。だから好きになって、その気持ちに偽りはなかったと思うんだけどさ」
偽りはなかった。ただ、それで全部ではなかった。忘れていたものと、勘違いをしていたことがいくつかある。
アリスの方を見ると、彼はよく分からないという顔をしていた。でもアリスは黙って、僕の方に耳を傾けてくれている。
僕は小さく息を吸って、雨の音を耳に流しながら慎重に言葉を紡いでいく。
「まださ、まだ僕は子供なんだと思う、たぶん悪い意味で。それで部長はそんな僕よりも大人なんだよ」
「そうなのか? 何回かお前んとこの部長とは話したことあるけど、正直落ち着きのない子供みたいに俺は思ったんだが」
「まぁ、少なくとも僕にとっての話」
「ほー」
アリスが興味なさそうな声を上げる。
「弟に恋心抱く姉はそうそういないよね」
「は?」
最後までアリスはよく分からないという顔をしていた。ともすれば、「何言ってんだこいつ」とでも言いたげに。
その後、数秒にも数分にも思えるような沈黙を経てから、アリスが口を開いた。
「お前さ」
「なに?」
「なんで俺がお前と仲良くなろうとしたか分かる?」
急に何だろうと思いつつ、僕は「いや、分からないけど」と返した。
「席が近かったから」
「え?」
確かに一年生の時から、今に至るまで一度のクラス替えと数度の席替えを挟んでも、僕とアリスの席は変わらず近かった。
「冗談だよ」
アリスが本気かどうかよく分からない笑みを見せて言った。イケメンはどんな笑い方をしても様になるなと、どうでもいいことを思った。アリスとの付き合いは一年以上になるが、未だに彼の真意が掴み切れないことがよくある。ただ、僕がどうして彼だけには部長のことを話そうと思ったのか、何となく分かる気がした。あくまでも、気がするだけ。
その時、授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえてきた。ウチの高校とは、少し違った音だった。
「終わったみたいだな」
「うん、そうだね」
その後、十数分ほどの間を置いてから、続々と生徒たちが正門から出て来る。彼らはちゃんと僕が今朝見たものと同じ制服を着ていた。
正門から出てくる生徒たちは、時折正面にいる僕たちを眺めて、不思議そうな顔を浮かべていく。女子生徒の中には、アリスのことを見て、町中でアイドルに遭遇した時みたいな反応をする子もいた。
僕とアリスはそんな生徒たちの顔を一つ一つ確認して、彼が出てくるのを待った。もしかしたら出てこないかもしれないとも思ったがそんなことはなく、生徒の波が流れ始めて十分ほどで彼は現れた。
目と目が合って、視線を交わし合う。雨風の中でも、傘を差していても、お互いがお互いのことを認識していた。
「俺はもういいんだよな」
アリスが僕に確かめるように言った。
「うん、ありがとう。助かった」
本当に助かっている。
「あんま無茶はすんなよ」
「分かってる」
アリスが僕の背中を軽く叩いてから立ち去る。僕はそんなアリスを横目で見送ってから、正面に目線を戻した。
気付けば彼は僕の方に歩いてきていて、一歩分ほど距離を空けて立ち止まった。
「何か用か?」
棘のある口調で言われた。
「うん、ごめん。君に言いたいことと、聞きたいことがあって」
そう言うと彼は一瞬だけ目を見開いて、口を噤む。僕に何を言うか、言葉を探しているようだった。小さな舌打ちが聞こえた。
「よかったら場所移していい?」
「必要ねえよ」
切り捨てるように言われる。
彼の言うように、正門から流れ出てくる生徒の数は明らかに減っていた。少し間を置きながら数人がちらほらと出てくるが、これくらいの数なら特に気にする必要もない気がした。
僕は自分自身を落ち着かせるよう努めながら、彼の目を見て言った。
「僕はただ、あの子が話してくれる話を聞いてるのが好きなんだ」
「お前さ」
彼が僕のことを睨む。
「やっぱ舐めてんだろ」
今にも掴みかかってきそうな気迫だった。それでも昨日のように掴みかかってこないのは、僕が彼を見ているからか、それとも昨日と違って周りにひと気があるからか。
その時、ポケットに入れていた携帯が震えた。震え方からして電話の着信だが、それを今取る訳にはいかなかった。
「違う」
「は?」
「僕はまだ君みたいに愛してるとまでは言い切れないけど、好きなんだよ」
「あのさ」
間髪空けずにそう言って、彼が顔を思い切りしかめて僕を見た。
「俺、お前のこと死ぬほど嫌いだわ」
「うん」
それで話は終わりだと思った。僕も言いたいことを言った以上、彼の言葉は全て受け入れるつもりだったけど、彼がもう何も言う様子がなかったから。しかしながら、彼は僕の瞳を睨んだまま動こうとしない。
「それで?」舌打ち混じりに彼が言う。「俺に聞きたいことって何だよ」
あぁ、そうだ。すっかり忘れていた。僕は彼に聞きたいことがあったのだ。
「一つ聞きたいんだけどさ」
彼は鋭い眼で僕を見ていた。
「人はどうして人を好きになると思う?」
彼はそれを聞いてほんの少し困惑した表情を見せたが、すぐに口を開いた。
「んなの何だっていいだろ。俺は自分が思いたいように思ってる。好きだから好きなんだよ。それ以外は全部後付けだ」
彼の口調は荒い。ただ、どこか透き通っていた。
「最後に言っとくが、俺はお前よりあの子のことが好きだからな。そこだけは負けねえ」
そう言って彼は去って行った。
僕のより少し大きめの傘を差して、ザァザァと降り注ぐ雨の中を彼は遠ざかって行く。そんな彼の背中が見えなくなるまで、僕は雨音に耳を澄ませていた。湿っぽいにおいがした。ぬるいのに肌寒い風が頬を撫でた。雨粒が傘と地面を叩いている。独特のリズムと感触。あぁ、雨が降ってるなぁと思う。
辺りにひと気がなくなってから、僕は歩き始めた。その途中で携帯を開いて、着信を確認した。後輩からの電話が一件と、メッセージが二つ届いていた。一つ目のメッセージには『先輩、どこにいます?』、二つ目には『今日部活来ないんですか?』と書かれていた。
それを読んだ僕は『ごめん、少し遅れる』と返信して、携帯をポケットに戻した。
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