10


 

 〇

 

「お兄ちゃん! もうそろそろ起きないと遅刻するよ!」

 翌朝、妹の声で目を覚ました。基本的に自分で起床している僕だけど、たまにこうして妹に起こしてもらうことがある。正直助かるのだが、一方で妹に頼り過ぎないようにしないと、とも思う。

 欠伸まじりにベッドから抜け出して、朝日を取り込むためにカーテンを開けた。やはり外は雨が降っていて、昨日よりはいくらかマシになったようだが、まだまだ降り止みそうな気配はない。

 僕は窓を開けて、外気を浴びながら思い切り深呼吸する。いつも通りの朝だ。

「よし」

 口の中でそう言って、窓を閉じる。手早く制服に着替え終えてから、部屋を出て居間に向かった。

「あ、お兄ちゃん。やっと起きた」

「あぁ、うん。おはよう」

「私もう学校行くからね」

 妹はリュックサックを背負って、僕の側を通り過ぎて玄関の方に向かう。

「うん、いってらっしゃい」

 だが、妹は立ち止まって僕の方に振り返ると、分かりやすく顔をしかめた。

「お兄ちゃん、ちゃんと髪整えて、顔洗って歯磨いてから学校に行ってよ。あと、朝ご飯もちゃんと食べること」

「あぁ、うん。わかってる」

「それともう一つ、ネクタイ曲がってるから」

 妹は僕の胸元を指さしてそう言うと、「行ってきます」と元気よく家を出て行った。

 妹を見送ってから居間に入ると、既に朝食の準備がしてあった。

 本当によくできた妹だと感心しながら、僕は朝食を取って、顔を洗って、歯を磨いて、身だしなみを整えてから家を出る。

 だけど家を出てしばらくしてから、携帯を忘れたことに気付いた。一瞬どうしようかと思ったが、取りに戻ることにして、少し急ぎながら僕は自分の部屋まで携帯を取りに行った。

 携帯を手に持ってすぐ、後輩から二つのメッセージが届いていることに気付いた。二つとも今から二十分ほど前に着信したもので、一つは『風邪、治りました』というもの。もう一つは『今日、よかったら一緒に登校しませんか』というものだった。

 下校時は後輩と一緒に帰っている僕だが、登校を一緒にしたことはない。

 後輩のメッセージを読んでから、僕はすぐに『ごめん、遅刻しそうだから先に行ってて』と返信した。

 現在の時刻を確認すると時間ギリギリで、今からいつも通りに登校して間に合うか間に合わないかの瀬戸際という所だった。

 僕は家を出て、傘を差して足早に学校へ向かう。後輩のメッセージに早く気づけなかったのを申し訳なく思いながら足を進めて、だが途中のとある分かれ道で足を止めた。

 片方は僕がいつも登校に使っている道で、もう片方は僕が下校する時に使っている道だ。後者の道に進めば間違いなく遅刻する。

 結局、僕は遅刻することにした。これは非常に言葉にし辛い感覚なのだけれど、そうしないと後悔する気がした。

 どうせ遅刻するならとのんびり歩みを進めて、一つの家の前を通りかかった時、一人の女の子が僕を見つけて「先輩」と呼びかけた。

「なにやってるの。もうこれ遅刻だよ?」

 僕は彼女にそう言った。

「先輩だってそうじゃないですか」

 後輩はちょっと不満そうに僕を見上げる。

「僕はいいんだよ。前にも何度か遅刻したことあるし」

 妹は僕が起きてこないと二、三度呼びかけてくれるが、それでも起きないと綺麗に放置される。

「そういう問題じゃないと思うんですけど」

「まぁ、たしかに」

 自分のことを棚に上げるのはよくない。

 まぁ、それはそれとして。

「先に行っといてって連絡したのに」

「あ、そうなんですか? 気付きませんでした」

「気付かなくても、遅刻しそうになったら普通先に行くでしょ」

「わたし、普通は人によって違うと思うんです」

「なるほど」

 確かにそうかもしれない。全く同じ人間なんていない。人の数だけ普通があって、自分の常識では測れないことも、きっと他の誰かにとっては当たり前なのだ。

「先輩こそ、どうしてわざわざこっちの道で来たんですか?」

「なんでだろうね」

 思わず笑ってしまう。自分でもよく分からない以上、笑うしかない。

「風邪、治ってよかった」

 誤魔化すように話題を変えた。

「はい、先輩がお見舞いに来てくれたおかげです」

「そうなのかな」

「えぇ、そうですよ。それよりも先輩、早く学校に行きましょう。間に合わないとしても、早く行った方がいいです」

「そういうものか」

「そういうものです」

 そう言って後輩が歩き出したので、僕もその後に続く。後輩の隣に並んで、歩調をそろえた。

「あの、先輩」

 後輩が僕に呼びかける。

「なに?」

「先輩、この前雨が好きかもしれないって言ってましたよね」

「言ってたね」

「それって、今もそうですか?」

「うん、たぶんそうだと思う」

「じゃあ、一つ聞きたいんですけど、先輩はどうして雨が降ると思いますか?」

 その問い掛けを聞いて、部長から出されたあの問題を思い出した。

 だが、雨がどうして降るのか。そんなことを聞かれても、僕には『自然現象』としか答えられない。雨が降る理由に、それ以外の原因付けは要らない。

 しかしながら、部長や後輩が聞いているのはそんなことではない。彼女たちが僕に問うているのはもっと観念的な何かで、要するに何のために雨が降って欲しいかということだ。

 それを踏まえて、僕はその問いに対する答えを見つけられない。

「どうして降るんだろうね」

 僕のそんな誤魔化すような返事を受けて、でも後輩は何故か満足そうに笑って口を開いた。

「わたしはですね、雨は自分を見つめなおすために降ると思うんですよ」

「どうして?」

「雨の日には、自分だけの世界に入れるって話をしましたよね」

「うん、そうだね」

「まぁつまり、そんな感じです」

「自分だけの世界に入れるから、そこで自分を見つめなおせるってこと?」

「そういうことですね」

「なるほど」

「あー、先輩またそんな返事して、ほんとに分かったんですか?」

「いや、分かるよ」

 ジト目で見上げてくる後輩に、僕はそう返す。後輩のこの話を聞いて以降、彼女の言っていることを実感できる時があった。だから彼女の言いたいことは、理解できる気がする。

「もちろんそれだけじゃなくて、落ち着いた気持ちになれるからわたしは雨が好きです」

「そっか」

「はい、好きなんです。あ、そういえば先輩、わたし昨日思ったことがあるんですけど」

 その時、僕の視界の端に公園が映った。そちらの方に気を取られて、後輩に反応するのに一瞬間が空く。後輩は僕のそんな様子を見てか、首を傾げた。

「先輩、何見てたんですか?」

「ちょっとね」

 後輩が僕の視線の先を追うようにして、小さく息を呑んだ。

「公園、ですか?」

「うん」

 後輩の家から学校側に少し進んだ所には、小さな公園がある。今はもう遊具なども錆びてしまって、雑草も伸びっぱなしになっているが、昔はここでよく遊んだ。誰も入ってこられないような秘密基地を作ったりして、一緒に遊んだのだ。

「昔、ここでよく遊んだよ」

「そうなんですね。わたしも、そうですよ。ここは家から近いですし」

 後輩がそう言ったのを聞いて、そう言う彼女が僕を見つめる表情を見て、僕の中で少しずつ大きくなっていた疑いが確信に変わった。

 やっぱり、勘違いしている。僕は、後輩と知り合ったのは高校が初めてだと思っていた。でも、そうじゃないのだ。そうじゃない。僕がこの街に戻って来て再会したのは、部長だけじゃない。

 その瞬間、僕の中で何かが変わった。

「先輩っ? 大丈夫ですか?」

「え?」

 気付けば僕は傘を地面に落として、倒れそうになっていた。後輩が僕のことを支えて、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。後輩の顔を見て初めて、自分が落ちそうになっていたことを理解した。

「すみません、わたしの風邪が移っちゃったのかも……」

「いや、それは違うと思う。熱もなさそうだし」

 僕は自分の足で地面に立って、落ちた傘を拾い上げた。

「支えてくれてありがとう。君がいてくれてよかった」

「いえ、わたしは別に……。先輩、ほんとに大丈夫ですか?」

「うん、心配かけてごめん。僕は大丈夫だから」

 僕は傘を差しなおして、歩みを進める。後輩は少し迷うような仕草を見せながらも、僕の後に付いてくる。

「あの、先輩」

「なに?」

「なにかあったら、わたしに言ってくださいね」

「うん、ありがとう」

「絶対ですからね」

 後輩が念を押すように言う。

「うん」

 僕は頷く。頭の中では、色んな考えが回っていた。色々考えて、そうしてから後輩に話しかける。

「そういえばさっき、何を話しかけたの?」

 そう聞くと、後輩はもう一度僕の顔を覗くようにしてから、何気ない話の続きを話してくれた。後輩の様子はいつもと変わらない。後輩が話す話は楽しげで、聞いているだけで朗らかな気持ちになる。それこそ、いつまで聞いていても苦にならないほどに。

 普段と違うのは、僕の方だ。

 後輩の話に相槌を打ちながら、雨の降る中、傘を差して学校に向かう。学校に到着するまでの間に一度、遠くからこちらを睨むように見ている彼に僕だけが気付いた。


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