9


 ●

 

「あ、お兄ちゃんっ。今帰って来たの? えぇ、バカじゃないのもう」

 風が強く、横から吹き付ける雨は、傘を差していてもずぶ濡れになるくらいだった。全身ぐしょ濡れになって帰宅した僕は、玄関で妹に睨まれる。

「なにもこのタイミングで返ってくることなかったのに」

「帰る途中で降ってきたんだよ」

「もー、二日続けて濡れて帰って来るなんて、しょうがないんだから。あ、そこから動いちゃだめだよ。私タオル持ってくる」

 妹がパタパタと浴室の方へ駆けて行って、バスタオルを持って戻って来る。

「ありがと」

 受け取ったタオルで濡れた髪と服を拭きながら、僕は自分を落ち着かせるように息を吐き出した。

「雨、すごかったんじゃない?」

 妹が言う。

「あぁ、うん。それなりに」

「この雨、いつまで続くんだろ。梅雨にしても長い雨だよね」

「あのさ」

 濡れた頭を拭くの一旦やめて、僕は妹に呼びかける。

「え、なに?」

「一つ確認したいことがあるんだけど、いいかな」

「どうしたの改まって」

 妹は疑問の表情で僕を見つめなおした。

「昔、ちょうどお前が小学生になったばかりくらいの時にさ」

「うん」

「突然すごい雨が降った日があったよな」

「え? そんなの覚えてる訳ないじゃん」

「いや、本当に凄い雨だったんだ。絶対記憶に残るくらいの突然の大雨」

「わかんないよ。降ったのかもしれないけど、私は覚えてないよ……」

 妹が困ったようにそう言った。

「そっか……。ごめん、変なこと聞いて」

「あ、待ってお兄ちゃんまだ濡れてるから!」

 家の中に上がり込もうとして、妹に止められる。

「あぁ、うん、ごめん」

「ねぇ、お兄ちゃんほんとに大丈夫?」

 妹が心配そうな目で僕を覗き込む。妹にこんな顔させるなんて、兄としてどうなのだろう。

 僕はダメな奴だ。

 両親は離婚して、子供の僕たちのことなんてまるで気にかけてない。妹の家族は僕だけで、兄として僕がしっかりしないといけないのに。

 後輩に対してもそうだ。僕はただ自分が傷付きたくないから、彼女の告白を受け入れた。部長のことが好きだったはずなのに、そのはずなのに、こんな僕のどこか誠実なのだろう。

 後輩を愛してるとまで言い切った彼に対しても、訳の分からないことまで吐いて。もっと言うべきことがあったはずなのに。

 一体僕は何をしたいのだろう。

 屋内に入って、雨風から遮られて、またいつも通りのゴチャゴチャした思考が戻ってきたようだった。いつも通りの僕だった。自己否定感が募る。こんなこと考えてもどうにもならないと分かっているのに。思考が勝手に頭を巡る。

 僕は僕のことが嫌いだ。

「僕は大丈夫だよ」

 妹にそう言った。それからタオルで出来る限りの水気を拭きとって、水が染み込んだ上着などは脱いでから僕は家に上がり込む。

「ねぇお兄ちゃん、今日のご飯私がつくるよ。お兄ちゃん、なんか疲れてそうだし」

 仕事で帰らない母の代わりに、僕と妹は日替わりで夕食を作るようにしている。今日の当番は僕であるはずだが、妹はそれを代わろうと言ってくれているのだ。

「……うん、じゃあお願いする。また今度僕が代わるから」

 ここで妹の申し出を断るのも余計に心配をかけてしまう気がして、僕はそう言った。だが、どちらにせよ同じことだったろう。

 僕は濡れた服を洗濯機の中に放り込んで、ジャージに着替えた後、自室のベッドで横になった。ここは妹の好意に甘えて、ひと眠りさせてもらうことにしよう。どうしようもなく胸が痛んだ。

 僕は目を閉じて、どこからか聞こえる激しい雨音を耳にしながら眠りについた。


 〇


 夢の中で、僕は小学生に戻っていた。歳の頃は小学三年生くらいで、これは昔の記憶だと分かった。

 当時の僕は、それなりに明るい子供だったと思う。

 割と誰とでも仲良くなれて、利害のバランスを気にすることなく純粋に関わり合えた。いい意味で子供だった。

 僕が部長と、いや、当時は部長ではなかったが、彼女と出会ったのは小学校に入ったばかりの時だ。『二年生のお兄さんお姉さんと一緒に話そう』みたいな集まりがあって、そこで部長と会ったのだ。

 物心ついた時から妹の兄だった僕は兄や姉という存在に憧れていて、今思えば年の割に落ち着いていた部長に懐いたのだ。本当の姉の様だと当時の僕は思っていたはずだ。

 それからちょくちょくと遊んでいた。当時の僕は恥ずかしげもなく上級生の教室に突撃するような少年で、部長もそれを疑いなく受け入れるような少女だった。どちらも少し異質だった。

 秘密基地なんかもつくったりして、彼女と放課後は一緒に遊んでいた。

 楽しかったのだと思う。夢の中で、小学生の頃の僕は笑っていた。ただ、今の僕はあの時みたいに無邪気に笑えない。

 気が付けば雨が降っていた。澄み切った青空が段々と澱んでいって、ポツポツと雨が降り始めた。

 ちょうどこのくらいの時期だ。母と父の仲が険悪になりはじめた。僕と妹の前ではいつも通りにしていたけど、ああいう雰囲気はどんなに隠そうとしても滲んで漏れ出るものである。全てを理解するために、当時の僕には年齢が足りなかったけれど、幼い子供なりに察することはあった。それを察してからの僕は、妹を両親から遠ざけていた気がする。

 きっと僕なりに兄としての務めを全うしようとしたのだ。今まで以上に妹にかまって、笑顔をつくるようになった。


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