8


 〇


 好きな人がいる。

 自分はどうしてその人を好きになったのだろう。

 気が付けば、そこに居た気がする。居て欲しい時に、側に居てくれた。いつのまにか、そこに居た。だから好きになった。きっとそういうことだ。

 ふとした時に確信を持って、でもあやふやだった。ぼんやりとしていて、霧雨が降る向こう側を見る時のように判然としない。

 一体自分は誰を好きになったのだろう。

 

 〇

 

 後輩の家に戻ってくると、軒先に後輩が立っていた。

「中で待ってたらよかったのに。風邪引いてるんでしょ」

 いくら六月といっても、雨が降る屋外は思った以上に冷える。

「いえ、でも。そんなに待ってませんし」

「そういう問題じゃないんだけどな」

 そう言うと、後輩がごほごほとせき込んだ。

「ほら」

「あはは、まぁでも熱はほとんど下がりましたし」

「いいから、早く中に入ろう」

 少し強い口調で促して、僕は後輩の家にお邪魔した。

「じゃあ、わたしの部屋に案内しますね」

 後輩の後に付いて僕は彼女の私室に案内される。後輩の部屋は六畳くらいの広さで、ベッドと勉強机、そして床に敷かれたカーペットの上にローテーブルとクッションが三つ置かれていた。「適当に座ってください」と言われたので、足を崩してカーペットの上に腰を下ろす。後輩はベッドの端に足を揃えて座り、軽く握った拳を膝の上に置いた。

「あの、先輩」

 長いようにも短いようにも思える静寂を挟んで、後輩が静かに言った。

「なに」

「夢じゃ、なかったですよね」

「ゆめ?」

「えっと……はい、その、わたし、昨日のことがまだ信じられなくて」

 昨日のこと。僕は後輩に呼び出されて、後輩だけの世界で彼女に好きだと言われた。そこは草原と広い空が広がっていて、温かい雨の降る世界だった。

 あれは夢なんかじゃない。あの幻想的な世界は、確かに現実だった。あの時覚えた感覚は、本物だった。

「夢なんかじゃないよ」

「で、ですよね……っ。じゃあ先輩は、わたしの……」

 後輩はそこで言葉を区切って、視線を床に落とした。そして再び顔を上げて僕に視線を合わせ、はにかむように笑う。

「なんか、怖くなったんです。たぶん風邪のせいなんですけど、今朝寝てるときに、もしかしたら全部ウソだったんじゃないかって。全部わたしの都合のいい夢だったんじゃないかって、すごく不安になったんです。わたし、怖いんです。自分がそうだと信じてることを、否定されちゃうことが」

 後輩が俯く。口を閉じて、また静寂が訪れた。

 カーテンの隙間から見える窓の向こうでは、雨が降っていた。ザァザァと雨らしい音が聞こえる。あぁ、雨が降ってるなぁと、そう思った。

「あの、先輩、覚えてますか?」

 不意に後輩がそう言った。唐突だった。思考が白くなって、胸が締め付けられる思いがした。困惑して、動揺して、「なにを?」と問い返しかけた。

 だがその時、背後でガチャリと扉が開く音がした。同時に後輩が息を呑む声も聞こえた。

「あっ」

 驚く声がして、僕が背後に振り返ると一人の女性がそこに立っていた。三十代半ばくらいに見える女の人で、顔立ちに後輩の面影がある。すぐに後輩の母親だと分かった。

「もしかして、邪魔しちゃった?」

 後輩の母親は申し訳なさそうに言って小さく笑ってから、僕を見て、何かに気付いたように口を開いた。

「あーっ、もしかして君が先輩くん? そっかそっか、ずっと気になってたけどこんな顔してたんだ」

「ちょっとお母さん!」

 後輩がベッドから立ち上がって、叫ぶように言った。そのあとすぐごほごほと咳込む。それを見て、後輩の母親は仕方ないなぁとでも言いたげな表情をつくった。

「もしかしてうちの子のお見舞いに来てくれたの?」

「えっと、はい、そんな感じです」

「そっか。わざわざありがとね。でもよかった、誠実そうな子で、ね?」

 後輩の母親が後輩の方にチラリと視線をやりながら言った。後輩は顔を赤くして、母親の方へ歩み寄る。

「お母さんっ、何も変なことなんてないから出てって」

 後輩は母親を扉の外に押しやるようにしてから、バタンと扉を閉じた。

 彼女は扉の前に立って、上気した頬と少し潤んだ瞳で、軽く息を吐き出しながら僕を見た。

「すみません、先輩」

「いや、別に僕は気にしないけど」

 優しそうな母親だった。朗らかな雰囲気で、年頃の娘の恋路をからかう茶目っ気があって、でも年相応の落ち着きを払っていた。そして、無邪気な笑顔が後輩にそっくりだった。後輩の母親という感じ。後輩は彼女の娘として育ったのだ。

「あの、ほんとにすみません」

 後輩は落ち着かない様子だった。そわそわとして、扉の向こう側を気にしている。彼女の立場になって考えてみれば、確かにこの状況は落ち着かないだろう。僕も後輩の母親を前にして緊張したが、それ以上に。

 ごほごほと、また後輩が咳をした。

「ごめん、大したことできなかったけど、もう帰るよ」

「え……、もう帰っちゃうんですか?」

「あぁ、うん。君に気を使わせて風邪を悪化させたら何のためにここに来たんだって話だし」

 僕は立ち上がって、コンビニで買って来たゼリーとスポーツドリンクが入った袋を後輩の膝の上に乗せる。

「これ差し入れ。それじゃあね、思ったより酷くなさそうでよかったけど、もうしばらくはゆっくり寝てた方がいいよ」

「あ、でも先輩」

 何かを言いかけて、でも口を閉じた後輩に、僕は笑いかける。

「また何かあったらいつでも連絡してくれたらいいから。あんまり無理しちゃだめだよ」

「……はい。その、わざわざ来てくれて、その、色々ありがとうございました」

「うん、またね」

 頭を下げる後輩に軽く手を振って、僕は部屋を出た。

 そして廊下を少し進んだ所で、後輩の母親が前に現れた。後輩の母親は僕に言う。

「あら、もう帰っちゃうの?」

「えぇ、はい。お邪魔しました」

「もう少しいてくれてもいいのに」

「いえ、長居して風邪を悪化させても何なので」

「そう? でもありがとね。あの子、きっとすごく嬉しがってると思うの」

「え?」

 後輩の母親は、後輩の部屋がある方に一瞬目線をやってから、「あの子には内緒ね」と悪戯っ子のように笑って前置きしてから言った。

「あの子、ずっと君のことを話してるの。今日はこんな話をしたとか、こんなこと言われたとか、本当に嬉しそうに」

 そう言われて、僕は部長に言われた言葉を思い出した。部長曰く、後輩は僕が想像している百万倍くらい僕のことが好きらしい。

 その後、僕は後輩の母親に玄関まで見送られて、後輩の家を後にした。

 軒先で傘を差して、自宅がある方に向かって歩き出す。やはり雨が降っていた。また強くなった気がする雨の中を、僕は歩く。絶え間ない雨の雫が傘を打ち付けている。その振動が持ち手にまで響いて身体に伝わる。耳を澄ませば音がする。聞こえるのは雨の音と、自分の音だ。

 静かだった。足を前に進めると、足元でぴちゃりと音がする。自分の鼓動が響いてるのが分かる。

 思考も静かだった。いつもならゴチャゴチャした何かでこんがらがっている頭の中が何故か透き通っているようだった。

 雨と自分だけの世界で僕は思う。

 何かを忘れている。見逃している。勘違いしている。きっとそうだ。どこかで取り違えたまま、大事なボタンを掛け違えたまま、そのことに気付いていない。

 その時、視界にモヤがかかった。目の前が霞んで、意識が何処かに飛びそうになる。ギリギリのところで自身を引っ張り戻して、大きく深呼吸した。今のは危なかった。

 時折、こういう感覚に捉われる。突然足元に大きな穴が空いて、落っこちてしまいそうになる感覚。部長にフラれた日から、いや、この雨が降り始めた時から、時折こういう感覚に襲われている。

 僕はポケットから携帯を取り出して、電話をかけることにした。携帯を耳に当て、コールをかけ、無機質な呼び出し音が数回繰り返された所で相手と繋がった。

『どうしましたか? 大切な恋人のお見舞いはもう済んだのですか?』

 繋がってすぐ、電話の向こうでそんな声がした。

「えぇ、あまり長居して悪化させるのもよくないと思いまして」

『うーむ、確かにそれも一理ありますが、もっと一緒に居て上げたほうがあの子も喜んだでしょうに』

「お母さんみたいなこと言いますね、部長」

『そりゃ、私は部長ですから』

「部長と親は別物だと思いますけど」

『同じようなものです。君たちはいつだって私にとってすごく大切な存在です』

「その大切な存在を置いて、最近部長は部室に来てくれていない気がするんですが」

『気のせいじゃないですか?』

「気のせいではないと思います」

『ふふ、冗談ですよ。君は痛い所をついてきますね。それに関しては謝りましょう。ごめんなさい』

「素直に謝られても困るんですが。……どうして、来てくれないんですか?」

『うーん、なんと言いますか。若さゆえの過ちゆえとでもいいますか。あ、いや、別に過ちってわけではなく、これは例えみたいなものなのですが』

「僕が」

『はい?』

「僕が部長に、告白したからですか?」

『いいえ、それは違いますよ』

 部長が落ち着いた声で言う。

 意外だった。部長が来なくなったのは、僕のせいだと思っていた。

「そうなんですか」

『ええ、そうです』

 心のどこかでつっかえていた何かが取れた気がした。でも、だとしたらどうして部長は部室に来なくなったのだろう。

「じゃあ、どうしてなのか聞いてもいいですか?」

『だってですね』

「はい」

『まだ雨が止んでいません』

 放課後、後輩のお見舞いに行く前にも同じことを言われた。ほんと、雨だから何だと言うんだ。

 そう思った時、一際強い風が僕に向かって吹きつけた。傘が飛ばされそうになって、必死に握りしめる。また雨の勢いが増した。空の雨雲が俄かに厚くなって、黒くなった。そしてその雨風はまだまだ強くなるであろうことを僕に予感させた。

 その時、とある光景が脳裏をかすめた。

「そういえば、部長」

『はい、なんでしょう』

「昔の事、覚えてますか?」

『昔とは、いつのことでしょう』

 雨風の音が煩い。僕は携帯のスピーカー部分を耳に押し付け、声を張るようにして言った。

「小学生の時です」

『あぁ、懐かしいですね。君とは学年も違うのによく遊んでいました』

「はい、そうです。だから高校で部長と会った時、驚きました」

 少し大げさな言葉で言えば、運命だと思った。

「部長が初恋だったんです。あの時から僕は、部長が好きだったんだと思います」

 激しい雨の中だからだろうか。台風の日にはしゃぐ子供みたいに、心が逸っているのだろうか。

 普段の僕なら躊躇してしまいそうな言葉も、滑るように出てくる。もしくは、ヤケになっているのかもしれない。一度フラれて、どうにでもなれと思っている。

『まぁ、それは何というか嬉しい事を言ってくれますね。でも、今の君は可愛い彼女がいるんですよ? 発言には気を付けてください。今の言葉をあの子が聞いたら、きっと私は嫉妬されちゃいます』

「一つ、確認したいことがあるんですけど」

 雨風の音に負けないように、叫ぶように言った。

『はいはい、何でも言ってください』

「小学生の時、ちょうど今みたいに、でも今よりもずっと物凄い突然の雨が降った日がありましたよね?」

『さぁ、知りませんね』

「いや、あったじゃないですか。たぶん、あれは忘れないと思います。それくらい衝撃的で、すごい雨でした」

『君の期待に応えられなくて申し訳ないですけど、私は、そんな雨、知りません』

 部長に確信すら匂わせる口調でハッキリと言われた瞬間、体が酷く冷えた。それなのに心臓の音は煩くて、胸だけがひりつくように熱かった。

 忘れるはずがない。あんなに凄い雨、どんなに昔のことだとしても忘れない。忘れないという自信がある。

 視界にモヤがかかる。また落ちそうになった。

 だけど、電話の向こうから部長が僕の名前を呼ぶ声が聞こえて、意識を戻した。

『雨が強くなってきましたね。ここで君が濡れて風邪をひく訳にはいかないでしょう? 早く家に帰りましょう。これは部長命令ですよ』

 電話の向こうで、部長が冗談めかして笑う顔が見えた気がした。

「そうですね。帰ります。突然電話してすみませんでした」

『そんなこと私は気にしませんよ。それでは』

 部長の笑い声と一緒に電話が切れた。

 僕は雨に濡れた携帯をそのままポケットに突っ込むと、風に飛ばされそうになる傘を真っ直ぐと差して歩き始めた。

 頭が痛い。ズキズキと痛んで、割れそうだった。


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