7


 ◯


 後輩の家の前について、僕はどうするべきか迷った。寝てるかもしれないのに電話で起こしたくもないが、かと言って後輩も年頃の女の子だ。いきなり押しかけられたら、彼女も色々と困ることがあるに違いない。

 ここでインターホンを押せば、彼女の家族が出てくるだろう。もちろん彼女以外の誰かがいればの話だが。そして、それはそれでかなり気恥ずかしい。

 例えば、ここで彼女の母親が出てきたとして、僕はなんと説明すればいいのだろう。彼氏なのでお見舞いに来ましたなんて言えるほどの度胸は僕にない。

 しばらくそんなことを考えて迷っていると、突然扉が開いて驚いた。心臓が強く跳ねて、体が強張る。

「え……。先輩?」

 さらに驚くことに、扉の影から出て来たのは後輩だった。だが、その驚きが収まらない内に後輩はバタンと音を立てて扉を閉じた。

 チラリと見えた後輩は寝間着姿で、いつも以上にあどけない顔をしていた。それを見て、いつもの後輩は化粧をしているのだと初めて思った。後輩は化粧っ気がないから、そんな感情を抱くのは新鮮だった。

「な、なんで先輩がいるんですか……」

 僅かに開いた扉の隙間から、後輩の声が聞こえてくる。彼女自身の姿は見えない。

 僕の方こそどうしてこんな測ったようなタイミングで後輩が出て来たのか気になる。彼女の姿は、どう見てもひとりで外出するような格好ではなかった。が、ひとまず僕は彼女の質問に答えることにした。

「いや、お見舞いに来たつもりだったんだけど」

「お見舞い……ですか?」

「うん、そう」

 そう言うと、パタンとまた扉が閉じられた。静寂が訪れ、雨音が一際強く聞こえる。感覚が鋭くなっている。自分の心音や、扉の向こうにいる後輩の息遣いまで聞こえるような気がした。

 カチャと音を立てて、扉が開く。僅かな隙間から、後輩のか細い声が聞こえた。

「どうして連絡してくれなかったんですか」

「それは……、うん。その、ごめん」

「別に、謝らなくてもいいですけど……」

「あー、えっとさ」

「はい」

「今中に入ったら、迷惑だよね」

「そんなことないです。……ですけど」

「うん」

「少しだけ待ってもらっていいですか?」

「うん、わかった」

 そう頷くと、パタンと扉が閉じて、後輩の慌ただしい足音が家の中から聞こえてきた。その音も遠ざかると、再び僕の周囲には静寂が訪れる。

  後輩を待っている間、僕はカバンからタオルを取り出して雨に濡れた服を拭いた。また雨に濡れた時のためにと入れていたものだが、割と早く使う機会が来た。そんなことをしているうちに、僕はあることに気付いた。後輩のお見舞いに来たはずなのに、何も持ってきてない。

 僕は携帯を取り出し、後輩に『ちょっとコンビニに行ってくる。十分くらいで戻るから』とメッセージを送ると、コンビニがある方に足先を向けた。ここから一番近いコンビニは、僕と後輩の家の中間くらいに位置している。

 五分ほど歩いて、特に何事もなくコンビニについた僕は、果物系のゼリー二つとスポーツドリンクを購入してコンビニを出た。だがコンビニから出たところで、妹と視線がぶつかった。

「あ、お兄ちゃん、何してるの?」

 見たところ、妹は学校から帰る途中のようであった。彼女が通う中学校から真っ直ぐ家に帰ろうとすると、ここを通ることになる。

「ゼリー?」

 妹は僕が手に提げているポリ袋を覗き込むようにして、そう呟いた。

「なんでゼリー?」

 僕に目を合わせるようにして妹が言う。

「急に食べたくなって」

「ふーん」

 妹は関心のない反応をして、僕に背を向ける。そして傘をくるくると回しながら歩き出した。

「お兄ちゃん、どこ行くの?」

 黙って妹と逆の方向へ進む僕に気付いた妹が、振り返って言った。

「どこに行くんだろうね」

「え、何言ってるの?」

「気にしないでくれ」

 そう言うと、妹が納得できないという顔をした。兄だから分かるが、こういう時の妹は強情だ。昨日、詮索してくる妹を適当にあしらったのが不味かったのかもしれない。

「どこに行くの?」

「どこでもいいでしょ」

「私も付いて行っていい?」

 変な笑いが出た。

「なんで笑うの」

「いや、なんでだろう」

「私は真面目なんだけど」

「僕も割と真面目だよ」

 真面目すぎてこんなことになってるとも言える。こんなことって、どんなことだろう。

「どこに行くの?」

 妹が僕に問う。

 前にも似たような場面があった気がする。ちょうど小学生くらいの時だ。僕が小学三年生で、妹が一年生の時。

 その時期に、うちの両親が別居することになった。そして、僕が父親と一緒に別の街へ行くことになった。どうしてそんなことになったのか、幼い僕にはよく分からなかった。だけど、その事実だけはハッキリと理解していたことを覚えている。

 両親の別居が決まって、僕が父親と一緒に住むことが決まって、でも僕よりもっと幼かった妹はそのことを知らなかった。

 ある日、僕は父さんと一緒に新しい住まいを下見に行くことになった。僕がどこに向かうのかも知らず、玄関まで見送りに来た妹は、僕の目を見てこう言った。あの時の妹は僕だけを見ていた。

『お兄ちゃんどこに行くの? 私も付いて行っていい?』

 きっと妹も気づいていたのだろう。何も知らなくても、雰囲気で分かる。妹は僕がどこかへ行ってしまうことを知っていた。

「大丈夫だよ」

 僕は妹に向けて笑いかける。たぶん、自然に笑えていたと思う。

「僕はもうどこかに行ったりしないから」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあどこに行くつもりなのか、教えて」

 妹はまだ疑いの目を僕に向けていた。

「後輩の家だよ」

 観念した僕はそう言った。

「後輩?」

「そう、後輩」

「遊びに行くの?」

「まぁ、そんな感じ」

「ゼリーとスポーツドリンク持って?」

「うん」

「ふーん」

「……なんだよ」

 妹が意味ありげな視線をジッと向けてくるので、堪らずそう言った。

「その後輩って、女の子?」

「どうしてそうなる」

「だって、始め誤魔化そうとしたし」

「それは……」

 一瞬口ごもった僕を見て、妹がにやりと笑った。

「そっかそっか、女の子か。じゃあ仕方ないね。今回は見逃したげる」

「そりゃどうも」

 ようやく納得してくれたらしい妹は、「じゃあね」と片手を上げて言って、僕に背を向けた。

「あ、そうだお兄ちゃん」

 しかし、妹はすぐに立ち止まって振り返った。

「なに?」

「お兄ちゃんさ、昨日優しさって何のためにあると思うって私に聞いたでしょ?」

「あー、うん。でもあれは」

「私ね、優しさって自分を好きになるためにあると思うの」

「え?」

「誰かに優しくできた自分のことを好きになれたら、それはすごく幸せなことだって思うから」

 妹は照れくさそうに笑った。

 一瞬、思考が遅れる。妹が何を言ったのか理解するのに少し時間がかかった。僕の妹は、こういうクサい台詞を臆面なく吐くような柄じゃない。だが、同時に本当にそうだろうかとも思う。僕が知らないだけで、案外妹はそういう女の子なのかもしれない。

 僕と妹は二歳差の兄妹で、それと同じ年齢差の兄妹は他にもたくさんいる。仲が良い悪いに関係なく。一般的なそれらの兄妹と比べて、僕と妹が一緒に居た期間には約七年の空白がある。一緒に過ごしていたかもしれない七年が僕たちの間にはない。決して短い時間じゃない。妹が生まれてから今に至るまでの人生の半分弱、それが七年だ。

 客観的に見て、七年前に妹と別れて暮らすようになるまで僕たちは仲の良い兄妹だったと思う。妹は僕に懐いていて、僕はそんな妹を可愛いと思っていた。だからこそ、再び一緒に暮らすようになってからわずか一年ほどでここまで打ち解けられているのだし。それこそ、少し仲が良すぎる程に。

 やっぱりどこか歪なのだと思う。他の兄妹とは違う。

 そういえば。七年前のことをよくよく思い返してみれば、妹は気取りたがりな一面があったような気がしなくもない。

「じゃあねお兄ちゃん。遅くなってもいいけど、その時はちゃんと連絡してよ」

 口早にそう言って、雨に濡れたアスファルトを湿った足音で鳴らしながら妹は遠ざかって行った。

 優しさは自分を好きになるためにある。

 妹が口にしたその言葉を、頭の中で繰り返す。それは僕が今まで考えもしなかった見方で、これからも思いつかなかっただろう考え方。

 それは決して自分を好きになるために誰かに優しくするという意味ではないのだろう。誰かに優しくできた自分のことを、好きになるのだ。


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