6


 ●


 『あの子』とは誰か。

 そんなこと聞くまでもなかった。言うまでもなく、彼は後輩のことを指してそう言っていた。

「もう一度聞く。お前はあの子の何なんだ?」

 その問いにすぐ答えることができなかった。別に、知り合いでもない奴に突然話しかけられて、困惑しているという訳ではなかった。後輩と共に下校するようになってから、心のどこかで、いつかこういう場面が訪れると予想していたのだと思う。

 だが、困惑はなくとも迷いはあった。いざその場面に遭遇すると、僕は僕の気持ちを言葉にできなかった。後輩に対する気持ちを、言い表せない。

「なぁ、なに黙ってんだよ。答えろっつってんだよ」

 彼の語調が荒くなる。傘を強く握りしめて、彼の手の甲が白くなっていた。

「まさかとは思うが、付き合ってる訳じゃねえだろうな」

 そうだと答えるのは難しいことじゃなかった。

 その筈なのに。

 僕は何も言えない。一体僕は、何を迷っているのだろう。一体何を。

「まぁ、そうだろうな。そうだと思った」

 僕は何も言っていないのに、彼は勝手に納得したような反応を見せ、真っ直ぐと僕のことを指差した。

「言っとくが、お前は相応しくない」

 そう言われた時、雷に撃たれたと錯覚した。薄暗い雨雲から落ちた雷が僕を撃ち抜いた気がした。ドクドクと心臓の音がうるさい。音がうるさい。

「てめえみたいなヤツより、俺の方がずっと相応しい。彼女を世界で一番愛してるのは俺だ」

 そこには確信の響きがあった。

「俺なら全て捧げられる。お前にその覚悟があるのか? 俺は彼女と一緒に居られるなら他の全てを犠牲にできる。彼女のことを好きって言うなら、それくらいの覚悟を持ってからにしろ」

 ひとつ言えることは、彼の言うことは正しくない。ただそれを間違っていると断言することも僕には出来なかった。

 理解はしてる。そんな重たい感情を向けられれば、後輩が迷惑することも。たかが高校生の恋愛に、覚悟なんか必要ないことも。

 だけど。だけれども、それを言うなら、僕の方こそ間違っている。

 相応しくない。その通りだ。僕は相応しくない。

 僕が後輩を受け入れたのは、怖かったからだ。傷つけるのが怖かった。臆病だから。部長のことが好きだったはずなのに。その気持ちを切り捨てて、この先どうなるかも考えず、後輩の気持ちを踏みにじるのと変わらない。傷つくのが怖かった。

 相手を思いやった訳じゃない。こんなのは優しさでもなんでもない。むしろ優しさから最もかけ離れたものだ。僕は優しくない。

 相応しくない。後輩にはもっといい人がいる。

 少なくとも彼は、後輩のことを好きだと断言している。その一点だけで、僕よりは相応しいんじゃないだろうか。もう今の僕は、部長が好きだった自分のことさえ疑わしく思えている。本当に僕は部長のことが好きだったのか。僕自身は後輩のことをどう思っているのか。

 そういえば、僕はどうして部長のことが好きだったのだろう。

「なぁ、いい加減なにか言えよ」

 僕は一体なにをしているのだろう。

「君の方が」

 口端から言葉がこぼれた。

「……あ?」

「たしかに君の方が相応しいかも」

「てめえ舐めてんのか?」

 そう言った瞬間、詰め寄った彼が僕の胸ぐらを掴み上げた。息苦しくなって、喉の奥から空気が漏れ出る。思わず傘を手放した。

 怒りで顔を赤くする彼の顔が目の前にあった。僕と彼の体を空から降り注ぐ雨が濡らしていく。雫は冷たかった。昨日、後輩だけの世界で浴びた雨粒とはまた違う。

「見ててイライラすんだよ。あの子が一生懸命話しかけてんのに、てめえはただ頷いてるだけだ。真剣に話を聞こうとしてねえ。ぼんやりと上の空で、いつも違うとこを見てる。彼女のことを見ようとしてねえ。だからイライラするんだ」

 それは違う。僕はただ……。

「――おい、なにやってんだ」

 切り裂くような声が聞こえた。

 気がつくと、僕と彼の隣にアリスが立っていた。アリスは傘を差して、青色の瞳で僕に掴みかかっている彼のことを睨んでいた。

 彼はそのことに気がつくと、舌打ちをして僕から手を離す。そして、地面に落ちた傘を拾い上げると、僕をひと睨みしてから無言で立ち去っていった。

「おいっ、てめえ!」

 アリスが彼の後を追いかけようとする。けど、僕はそれを引き止めた。

「いいよ。僕は大丈夫だから」

「大丈夫って……、アイツは何なんだよ」

 アリスは荒い息を吐き出して、遠ざかっていく彼の背中を睨みつけた。僕はそんなアリスを見て、顔立ちが整っていると怒った顔も様になるんだなと、場違いな感想を抱いた。

 僕は改めてアリスと向き合う。すると、僕が口を開くより先にアリスが繰り返し言った。

「アイツは何なんだよ」

「何っていうか……。たぶん、ストーカー的な……?」

「まさかお前のって訳じゃねえだろ?」

「まぁ、うん」

 僕が頷くと、アリスは呆れたようにため息を吐いた。

「お前はさ、優しすぎるんだよ」アリスが僕のことを鋭く見つめる。「自分よりいつも他人のことを考えてる。だからそうなるんだ」

 そう言ってから、アリスは地面に落ちている僕の傘を拾い上げた。

「ほら、風邪引くぞ」

「ありがとう」

 僕はアリスから傘を受け取って、差し直した。雨を浴びていた時間はそんなに長くはないが、僕の体はそれなりに濡れていた。

 その後、僕とアリスは並んで道を進んだが、互いに無言のままだった。そして、交差点で別れることになったところで、アリスが僕に向かって言う。

「なんかあったら言えよ」

「うん、ありがとう」

 僕はアリスと別れて、ひとり後輩の家を目指す。その間、降りしきる雨の下、僕は僕だけの世界で考えた。

 アリスの言うことは間違っている。僕が考えているのはいつだって自分のことで、ただ他人を考えているように装っているだけだ。


 ◯


 たまに優しさについて考える。

 優しい人になりたいと思ったことがある。じゃないと、自分を嫌いになりそうだから。

 だけどその反面、優しいって言われるのは嫌いだ。そこに優しいを演じる自分や、ただ単に嫌われたくないだけの臆病者が見え隠れして、反吐が出そうになる。

 だから優しいと言われるのは嫌いだ。

 本当に面倒な人間だと思う。


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