5
◯
たまに優しさについて考える。
本当に優しい人とはどんな人なのだろうと考える。 そういう人になりたいと思ったことがある。
例えばの話である。
ある優しい人に二つの選択肢が与えられているとする。一つは誰かを傷つけてしまう選択肢で、もう一つは誰かをもっと傷つけてしまうかもしれない選択肢だ。
さて、優しい人はどうするだろう。
たまにそんなことを考える。
でも、そんなことを考えてしまう自分はきっと優しくない。
◯
あの後、どうやって元の世界に戻ってきたのかよく分からない。
ふと気付けばあの草原が広がる世界に立っていたように、ふと気付いた時には僕がよく知る街並みに戻ってきていた。
別に白昼夢なんかを見た訳ではないことは、全身ずぶ濡れになった体が教えてくれた。戻ってきた時には傘を差していたが、僕と後輩の体は傘も差さないまま雨に打たれ続けたように濡れていた。間違いなく、あのだだっ広い草原で僕と後輩は雨の雫を浴びたのだ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」ずぶ濡れで帰ってきた僕を見て、妹が驚いた顔をした。「傘持っていかなかった訳じゃないよね? 朝から雨降ってたし」
「傘は持って行ったよ」
「じゃあどうしてそんなに濡れてるの?」
「色々あったんだよ。それより、とりあえずさ、タオル取ってきてくれない?」
玄関に突っ立ったまま、僕は妹にそう頼んだ。妹は納得できないような表情をしていたが、すぐにバスタオルを持ってきてくれた。
「ありがとう」
礼を言ってタオルを受け取り、体や髪を拭いていると、妹が改めて口を開いた。
「何かあったの?」
「何もないよ」
「ウソだ。絶対なんかあった」確信めいた雰囲気で妹が言う。「だってお兄ちゃん、変な顔してる」
「僕はいつもこんな顔だよ」
「ううん、いつもはもうちょっとマシな顔してるよ」
妹が覗き込むように僕の顔を見た。僕は妹から顔を逸らして、ぐしょ濡れになっている靴下を脱いでから廊下に上がる。
「シャワー浴びてくる」
「お兄ちゃんってさ」妹が背後でそう言った。「考えすぎるところあるでしょ。どうにもならないことをいつまでも考えて、ずっと悩んだりしてる」
そんなことは知っている。だけど僕は臆病だから、考えずにはいられない。考える考えないの問題ではなく、考えてしまうのだ。
「ひとつ、聞きたいんだけどさ」
「……え? なに?」
振り返って言った僕の言葉に、妹が戸惑いを見せる。
「優しさって、何のためにあると思う?」
「え、は? 何のこと?」
「ごめん、何でもないから忘れて」
我ながらバカなことを口にした。そう後悔しながら僕は浴室に向かった。
〇
翌日の月曜日の放課後、部長も後輩もいない部室で、僕はひとり本を読んでいた。
窓の向こうでは昨日よりはいくらか穏やかになったものの未だに降り止む気配のない雨が降っていた。耳をすませば雨音がして、風がカタカタと窓を鳴らしている。だけど本に集中していればそんな音も気にならなくなる。
だが不意に部室の扉をコンコンとノックする音が聞こえ、僕は本から視線を上げた。
「あー、あー、こほん、ちゃんと聞こえてますかーっ? というか居ますかー?」
そしてその声が聞こえた瞬間、僕の思考は一瞬にして白く染め上げられた。たった今まで読んでいた本の内容も忘れて、その声にしか意識が向かなくなる。
それは部長の声だった。一週間前、僕が彼女にフラれて以降聞いていなかった声。聞きたいと思っていた声。
「部長……ですか?」
「はい、部長ですよ」
ドアの向こう側から少しこもった声が聞こえる。
「どうして入って来ないんですか?」
「はい、それがですね。部長は今、部室に入れないのです」
「意味が分からないんですが。ドアを開けたら入れるじゃないですか」
「確かにその通りです。この両手を使ってドアを引いたら、私は君と会うことができるでしょう。でも、やっぱりそれはできないのです」
「どうして」
「だって、まだ雨が止んでいません」
「……あの『問題』のことですか?」
「あの問題とはなんでしょう?」
「とぼけないでください。あの妙なハガキ、部長が出したんでしょう」
「なんと」
扉の向こうから驚く気配がする。
「あれが私からのハガキだと分かったのですか?」
「当たり前ですよ」
部長の字は、見れば分かる。
「うーむ、そうですか。私としては差出人不明の謎のハガキを演出したつもりだったんですが」
「十分謎ですよ。何なんですか、あれは」
「今はそれに答えることはできません。答え合わせはもう少し後にしましょう。それとも今、解答しますか?」
「……いえ、やめておきます」
「ならやめておきましょう。制限時間はまだありそうです。それよりも! 君はこんなところで何をやってるんですか!」
「……は?」
突然、扉の向こうからいきり立ったような大声が聞こえてきた。何の脈絡もないその語調に、僕は戸惑うしかない。
「なにって……部活動ですけど」
「はい、ここで問題です。君の大事な後輩ちゃんは、どうしてそこに居ないのでしょうか」
「どうしてって……風邪だと聞きましたけど」
今朝、僕の携帯には後輩からメールが届いた。内容は、風邪を引いてしまったので今日は学校を休みますというもの。昨日ずぶ濡れになったのが不味かったのだろう。
「はい、正解です。ですが点はあげられません。では次の問題です。君にとってあの子はどういう存在でしょう」
「どういう……。えっと、後輩ですけど?」
「残念不正解です。点はあげません。正解は可愛くてかけがえのない後輩で、今は君の恋人です」
「部長」
「はい、なんでしょう」
「なんで知ってるんですか」
「私はなんでも知っているのです」
「そりゃすごい」
「ふふん、すごいでしょう」
彼女の言う通り、今の僕の立場を客観的に説明するなら、後輩の彼氏ということになるだろう。
昨日、雨に打たれながら後輩に告白された僕は、それを受け入れた。あの時の僕にはそれ以外の選択肢が取れなかった。
あの時。「うん、いいよ」と、僕がそんな風に言った後の、後輩の表情が視界に焼き付いて消えない。安堵したような無垢な笑顔を浮かべる彼女を見て、僕はその選択を取ったことを後悔した。けど、どちらにせよ同じだったろう。例え彼女の想いを受け入れなかったとしても、僕は後悔したに違いない。
「先週、僕は部長に告白しましたよね」
「はい、好きって言われました」
「でも断られました」
「はい、私は君の気持ちに応えられませんといいました」
「それってやっぱり、僕のことが好きではないからですか?」
「いえ、君のことは大好きですよ。ただ、私は君が私にとらわれ過ぎていると思っただけです」
「どういうことですか?」
「そういうことです。そんなことよりも、今大事なのは君があの子の彼氏さんだということです」
「はぁ」
意図せず生返事が漏れた。
「要するに、可愛い可愛い恋人が風邪で苦しんでいる時に、こんなところで遊んでいる君は大バカ野郎だということです。言語道断です。こんな大バカな部員を持って、部長は恥ずかしい限りです」
「別に遊んでる訳じゃ」
「言い訳は聞きません。早くあの子の所に行ってきてください」
「え、いや、でも」
「それ以上何かを言うなら、私は君を嫌いになります。二度と口を聞きたくありません」
「……」
そんなことを言われたら、僕はもう何も言えない。
「さて、ではお見舞いに行ってきてください。それだけであの子の風邪は治るでしょう」
「いやいや」
「おっと、信じてませんね。愛の力はすごいんですよ。多分、君が想像してる百万倍くらいあの子は君のことが好きですよ」
「百万倍って……」
だが、それ以上部長の声は返ってこなかった。ふと気付けば、扉の前から部長の気配は消えていた。相変わらず、読めない人だ。
その後、僕は帰る準備を整えて部室を出た。部室の鍵を職員室に返して、昇降口で靴を履き替え、学校を出る。
思えば、こうして一人で帰るのは随分と久しぶりだ。ここのところずっと、僕は後輩と一緒に帰っていたから。
雨の中、僕は傘を差して歩く。ひとりで歩いた。だが、そうして歩き始めてすぐ、僕の目の前に誰かが立ち塞がった。
「ちょっといいか」
そう声をかけてきたのは、知り合いではなかった。僕と同じくらいの歳に見える男で、どこかの高校の制服を着ている。
だけど、僕は彼を何度か見かけたことがある気がした。どことなく、彼の顔つきに見覚えがある。きっとそれは、彼が僕の周りにいたからだろう。いや、より正確に言えば、僕と一緒にいる後輩の近くに彼は居た。
彼は僕のより少し大きめの傘を差して、抑えた怒りと憎悪じみた感情を持って、僕を睨んでいた。
「なぁ、お前」
彼は静かにそう言った。僕と彼の周囲には誰も居なかった。
「お前はあの子の何なんだよ」
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