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 気づけば、僕は後輩の家の目の前までやって来ていた。

 自分の世界に入り込んでいた僕がそのことに気づいたのは、視線の先にソレを見つけたからだ。

 ソレとは、星型のシールでデコレーションした傘だった。

 どこにでも売っていそうな透明のビニール傘の裏から、大きな星型シールをいくつも貼り付けて飾っている。安っぽい飾り付け。無垢な子供が、味気ないビニール傘を子供のセンスで自分好みに作り変えたような感じ。

 いつか見たものと同じ傘だった。

 僕の脳裏にいつか見た光景が過ぎる。

 突然の大雨。傘を持たない少年と、それを見つけた少年とは一つ歳違いの少女。そして、星型のシールでデコレーションした傘をくるくると回す少女は、なんの迷いもなく少年に明るく話しかけるのだ。

 おかしい。どうして後輩がその傘を。だって、その傘は部長の。いや、違うのか? 思考にモヤがかかった。雨の音がする。

「あ、先輩……?」

 僕に気付いた後輩が声を上げる。後輩は自宅の前で傘を差して僕を待っていたようだった。

「ど、どうかしました?」

 いつもより緊張した後輩の声音。

「その傘って」

 僕の視線は後輩の傘に向けられていた。

「この傘ですか……? えっと、その、恥ずかしいんですけど、金曜日先輩に傘を貸したじゃないですか。それで今、こんな傘しか残ってなかったので。他のヤツは家族が持って出かけちゃったみたいです」

 後輩の言葉が頭に入ってこない。

「実はこの傘、わたしが小学生の時のやつなんです」

 後輩が照れたように笑う。

「わたし、よく物をなくす子だったんですけど。何回も傘をなくしちゃって、それでお母さんを怒らせちゃって、どうせなくすんだったらビニール傘を使いなさいって言われちゃって」

 後輩が傘をくるりと回した。

「でもわたし、こんな傘かわいくないって泣いて、ワガママを言ったんです。そしたらですね、近所に住んでたお姉さんが裏表ともに絵がついてる星型のシールをたくさんくれたんです。これをいっぱい貼ったら可愛くなりますよって」

 また後輩が傘を回す。雫が散って、キラキラと光った。

「その時のわたし、星型のシールを貼ったこの傘をすごく気に入ったんです。もう絶対になくさないって思うくらいに。まぁ、そんな訳でこの傘はずっとわたしの家にあるんですよ」

 後輩が目線を上げて、自分の傘を見つめた。昔を懐かしむような表情。

「中々捨てられないんですよね。恥ずかしい話ですけど。まぁ、でも、今日役にたってくれたのでよしとしましょう」

「そのお姉さんって」

「え?」

「シールをくれたお姉さんって、今も近所に住んでるの?」

「いえ、今は住んでないですけど……」

 後輩が不思議がるようにそう言った。

「……そっか。ごめん、何でもない。気にしないで。それよりこれ」

 僕は金曜日に後輩に借りていた傘を返す。

「ありがとうございます。あっ、わたしもお金返さないと」

「いや、別に今じゃなくても」

「いえ、持ってきますね」

 後輩が急ぐように家の中に入って、一分も経たないうちに戻ってきた。戻ってきた時、彼女の手に握られていた傘は、星のシールでデコレーションされた傘ではなく、今さっき僕が返したふつうの傘だった。

「おまたせしました」

「あぁ、うん」

 後輩からパンケーキとカフェオレ代を返してもらう。そうしてから、僕は口を開いた。

「それで、これからどうするの?」

「えっと、そうですね。とりあえず……、歩きませんか?」


 後輩と並んで傘を差して歩く。行き先は後輩任せで、僕はただそれについて行くだけ。後輩は学校側に向かって、ゆっくりと歩いていく。

「わたし、雨の日に傘を差して歩くのが好きです」

「雨が好きって言ってたもんね」

「はい。好きなんです、すごく」

 後輩が噛みしめるように言った。

 だけどそれ以降、後輩は何も喋らなくなった。いつもなら、よくもまぁそこまで話題が続くものだと思うくらい、色々なことを楽しげに話してくれるのに。

 雨の日には、自分だけの世界に入れる。だけどすぐ隣に人がいて、同じ空気を共有していると、少し違った感覚が得られるように思えた。まるで小さな個室に二人きりで閉じこもっているような錯覚をする。後輩の緊張が、僕にまで伝播する。後輩だけの世界に、僕もいる。妙な感覚だった。今、この場所には僕と後輩だけしかいないのだ。

 後輩は無言のまま歩き続けて、僕もまた無言でそれについて行く。これと似た感覚を、僕は少し前に味わった気がする。たまらなく嫌な予感がした。

 その時、小さな寂れた公園が目に入った。昔、秘密基地なんかをここでつくったりして、遊んだ記憶がある。

「あの、先輩」

 後輩に呼びかけられて、確かに違和感を覚えた。

 ハッと気付いた時、草のにおいがした。鼻先をほんのりとした青臭さがかすめて、頭がくらくらした。僕は、僕の目の前に広がる光景を信じることが出来なかった。

 そこは草原だった。

 遮るものが何もない、広い広い空に白い雨雲が広がって、ザァザァと雨らしい雨が降っている。

 足元にはただ草原らしい草原が広がって、それ以外には何もない。雫を乗せた背の低い草が、雲の切れ目から差している陽光をキラキラと反射していた。

 どこまでも、どこまでも草原が広がっていた。地平線すら見える。空と地面の境目が分かる。雨が降っているのに、空は透き通るような青色をしていた。空のほとんどが白い雲で覆われているのに、なぜかそこには青空があると確信できた。

 訳が分からなかった。どこだここは。こんな場所、僕は知らない。こんな所、僕が住んでいる街にはない。

 そんな草原に、僕と後輩は傘も差さずに立っていた。手にしていたはずの傘は消えていた。絶え間なく降る雨粒が僕と後輩を濡らしている。後輩が僕のことを少し上目に見つめている。頬を赤く染めた彼女は、拳をぎゅっと握っていた。

「あの、先輩」

「なに?」

 どうしてこんなに落ち着いているのだろう。僕も、彼女も。

「わたしは、ですね」

「うん」

 相槌を打つと、後輩が嬉しそうに、そしてはにかむように笑った。

「わたし、先輩のことが好きです」

 後輩は、逸らしてしまいそうになる視線を必死に僕に向けていた。だけど結局、耐えきれなくなったように視線を下げて、恥ずかしがる彼女は両手を組み合わせた。俯いたまま両手を握り合わせて、顔を真っ赤にしながら、ささやくように彼女は言う。

「わたしと付き合ってくれませんか?」

 髪の毛の先から雫を滴らせながら、少しだけ顔を上げて。

 精一杯。きっと精一杯の思いで、彼女はそう言った。

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