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◯
翌日の放課後。僕は後輩がやって来るまで、教室でアリスと会話していた。アリスと言っても男で、純日本人だ。もちろん本名じゃない。顔立ちが整っている彼は髪を金色に染めていて、生まれつき肌が白く瞳が青いのだが、アリスと呼ばれる所以にそれらはあまり関係ない。
僕も聞いた話でしかないのだが、彼は友人と共に近所の山に忍び込み、そこで野ウサギを見つけ、その野ウサギを追いかけて古井戸に落っこち骨折した挙句、救助隊に助け出されたという伝説を持っている。その日から彼は周りにアリスと呼ばれるようになった。不思議の国のアリスの冒頭になぞらえたあだ名だ。彼の日本人らしからぬ容姿も手伝って、その名前は一瞬にして広まった。
「じゃあお前は、愛しの先輩をほったらかしてあの子と遊びに行くってか?」
アリスは意外という顔でそう言った。彼の言う『愛しの先輩』は部長のことで、『あの子』は後輩のことだ。部長はそうでもないが、後輩は割と校内でも知っている人が多い。
「別にそんなつもりはないけど……」
アリスは僕が部長のことを好きだということを以前から知っている。
「先輩のことは諦めるのか?」
「だって、フラれたんだよ?」
「一度フラれたくらいで何言ってんだお前は」
アリスは呆れたように息を吐き出す。
「じゃあどうすればいいんだ」
少しむっとした僕は言い返した。
「んなの決まってるだろ。上手く行くまで押し続けるんだよ」
そう言う彼は、今までに恋人がいたことがない。
「初めはそんなことなくても、グイグイ来られる内に絶対好きになっちまうんだよ。人ってのはそんなもんだ」
恋人がいたことの無いアリスが偉ぶって言う。物事に絶対はないんだぞと、そう突っ込みたかった。が、声には出さない。
「でも、やっぱり僕はいいよ。これ以上迷惑をかけたくないし、部長だってもう三年生で、勉強だって大変になるのに」
「全く臆病だな、お前は」
そう言われ、僕はアリスに苦笑を返す。彼に言われて思ったことだが、まさにその通りだ。こんなのは気を使ってる訳でも何でもなく、臆病な自分を安堵させるためのお為ごかしに過ぎない。
アリスとそんな風に話をしていると、教室のスライド式の戸が開いて後輩が駆け込んで来た。
「すみません先輩。ホームルームが長引いちゃって」
彼女が僕の机の前にやって来て、息を切らしながら小さく頭を下げた。そんな後輩に、教室に残っていた生徒たちの視線が集中する。
「気にしなくていいよ。君のせいでもないんだし」
僕がそう言うと、「すみません」と後輩は上気した頬でもう一度謝った。そんな彼女を見て、隣でアリスが「ふーん」と得心したような声を出す。
「何度か話は聞いたことあったけど、こうして見ると、なんか、モテるって話も分かるな」
僕だけに聞こえるような小声でアリスが言った。
彼の言うように、後輩はモテるらしい。そういう話をよく耳にする。別に後輩が絶世の可愛さを持っているわけでもなければ、何か秀でた実績や特技を持っているわけでも、性格が最高というわけでもない。
ただ、彼女は絶妙なのだ。
小柄で、相手を決して不快にさせない尖りのない容姿で、でも平均よりは少し可愛くて、そしてよく笑う。その笑顔には愛嬌がある。
性格や気質も尖った特徴はない。だけど強いて言うなら純粋で、嫌味がなくて、人見知りをせず、ちょっとした遊び心を持っていて、ほんの少しだけ天然が入っている。それらのひとつひとつが人を惹きつける。それは何も彼女の努力の成果でもなく、天性のものだ。
金髪碧眼で白皙、まぁ金髪は人工だが、それでいてアイドル並みに顔立ちが整っているアリスとは全く違う。アリスは高嶺の花を体現したような奴で、だから女の子たちも萎縮してしまう。校内にファンは大勢いるが、アリスに実際に近付くのはご法度という空気すらできている。彼に恋人がいたことがないのは、そんな訳だ。
要するに、だからこそ後輩はよくモテる。でも、そのせいでストーカーの被害にあったりもしている。 良いことなんてないと、自分がモテることを自覚しているらしい後輩は以前そう話していた。
「今日はどこに行くの?」
後輩と並んで傘を差して、校門を抜けたあたりで僕はそう尋ねた。
「行きたいところがあるんです」
「へぇ。どんなとこ?」
「それは着いた時のお楽しみということで」
茶目っ気たっぷりに後輩が微笑んだ。
そのまま僕は後輩に先導されるように歩いた。昨日よりは少し弱まった雨風が傘を叩く音を耳に流しながら、後輩の話に相槌を打つ。時折、僕も話題を提供して、それに後輩が乗っかる。そんなことの繰り返し。
気が付けば僕は、後輩の友人の話を聞いていた。後輩の友人には好きな人がいて、でもどうすればいいのか分からないという話だ。
「――その子は、告白したい……らしいんですけど、勇気が出ないらしくて」
「どうすればいいんでしょうかね」と後輩が悩んだ顔をする。
なぜ僕にそんな相談じみた話を持ちかけるのかという疑問は野暮だろう。こんなのはただの話題。沈黙を埋める為の、暇をつぶす為の話のタネだ。目的地に着くまで、楽しくお喋りできればそれでいい。そういう類のもの。恋の悩みなんて自他に関わらず便利な話題だし。
だけど、本当に僕の意見が聞きたくて後輩がこの話を持ちかけたのだとすれば、僕には先輩としてそれに答える義務があるのかもしれない。
「別に、焦らなくていいんじゃないかな」
そう言うと、後輩が少し驚いた顔をした。もしかしたら、そんなことにビビってないで早く告白しなよ、みたいな、そんなことを言われると思っていたのだろうか。僕も先程アリスにそのようなことを言われた。だけど、僕にその台詞は吐くことはできない。
なんたって、三日前に告白して自分がフラれたばかりだ。それを口にするには、少々無責任が過ぎる。
「勇気が出ない、タイミングが掴めないってことはさ。まだその時じゃないんだよ。いつか、確信が持てる時まで待つのも悪くないんじゃないかな」
「でも、時間がなかったとしたら」
「時間がないの?」
「いえ、厳密にはそういうわけでもないんですけど……、でも、やっぱり」
後輩は曖昧な口調でそう言った。
そして少しの沈黙が落ちて、雨音が一際強く聞こえるようになる。
「すみません、変な話しちゃいましたね」
後輩が誤魔化すように明るく笑う。
「それよりも、着きましたよ。わたし、先輩にここを紹介したかったんです」
そう言って後輩が視線で示すのは、洒落た雰囲気のカフェテリアだった。屋根付きのテラス席があって、丸くかたどられた椅子とテーブルが並んでいる。ガラス越しに店内の様子を見ると、落ち着いた感じの内装がうかがえた。
「ここのパンケーキが美味しいんですよ。先輩ちょっと前に甘いものが好きって言ってましたよね? 是非ここのパンケーキを食べてもらいたくって」
そう語る後輩の表情は、自分の好きなものを自慢する子供のようであった。
店内に入り、店員さんに案内されるまま壁際の二人席に着いて、後輩と向かい合う。こういうお店の勝手はイマイチよく分からなかったので、注文等は後輩に全て任せた。
「こういうお店はよく来るの?」
「はい、友達と休日なんかに」
「その友達って、さっき話してた子のこと?」
「あ、えっと、はい、そういう時もありますかね」
後輩の返事は曖昧だったが、僕がそれを気にすることはなかった。
そのまましばらく彼女と話していると、パンケーキとカフェオレが二人分運ばれてくる。後輩の言う通りパンケーキはとても美味しくて、学校の近くにこんな店があったのかと思う。この店の前は何度か通ったことがあるはずだけど、気にしたこともなかった。
「んー、やっぱりここのパンケーキは最高ですね」
幸せそうな顔で後輩がパンケーキを口に運ぶ。
そしてパンケーキを食べ、カフェオレを飲み終えて、後輩との会話も落ち着いてきたあたりで店を出ることになった。だが会計をする際に、後輩が財布を家に置き忘れてきたことが発覚した。
「すみません……」
申し訳なさそうな顔で後輩が頭を下げる。
「気にしなくていいって」
後輩の分も僕が支払った後にそう言っても、彼女はどこか浮かない表情をしていた。
「また今度お返ししますね」
「別に大丈夫だけどね。いい場所を教えてもらったお礼ってことでも」
「いえ、お返しします」
頑なな口調で後輩が言った。こういう時の後輩は強情だ。まぁ、別に先輩ぶって見栄を張るような場面でもあるまい。
「うん、じゃあ返してもらうけど、いつでもいいから」
「はいっ」
そんなやりとりを経てからカフェを出ると、テラス席の屋根がある所で、雨宿りをしているひとりの女の子が視界に入った。見た感じ小学校高学年くらいの子で、彼女の手には壊れた傘があった。強風に煽られて捻じ曲がったような壊れ方だった。その女の子は、しきりに携帯の画面を確認しながら、そわそわしていた。
不意に、その女の子と僕の視線が重なる。その時、僕の脳裏に浮かんだのはいつか見た光景だった。
突然の大雨。傘を持たない少年と、それを見つけた少年とは一つ歳違いの少女。そして、星型のシールでデコレーションした傘をくるくると回す少女は、なんの迷いもなく少年に明るく話しかけるのだ。
「――よかったらこの傘、使う?」
僕は女の子にそう言った。
「……えっ?」
自然とこぼれ落ちた僕の台詞に、名前も知らない女の子が驚いたように口を開けて、チラリと僕が手にしている紺色の傘を見やった。
「あー、えっと、ほら、急いでるんでしょ?」
取り繕うように僕は言った。
「で、でも……」
女の子の戸惑いが増す。戸惑いは当たり前だ。僕も女の子の立場なら戸惑うに違いない。
「僕なら大丈夫、折りたたみ傘持ってるから」
「いいんですか……?」
「うん、気にしないで。この傘も安物だし返さなくてもいいから」
そう言って、半ば押し付けるように僕は女の子に傘を手渡した。
「あ、ありがとうございます」
戸惑い混じりに何度も礼を口にして、女の子は傘を差して急ぐように遠ざかっていった。その後ろ姿を見たことがある気がしたのは、僕の思い違いだろう。
「先輩、折りたたみ傘を持ってるって本当ですか?」
後輩が僕を見て言う。
「うん、いつもカバンに入れてるから」
そう言って、カバンの口を開ける。だけど、カバンの中をいくら探っても折りたたみ傘は見つからなかった。
「ごめん、いつもは入れてなかったみたい」
少し気まずい気持ちでそう言うと、後輩が堪え切れなくなったようにくすくすと笑い始めた。
「まったく、先輩はしょうがないですね」
財布を家に忘れてきた後輩が笑いながら言う。
「よかったらわたしの傘、一緒に使います?」
後輩と傘を共有しながら帰路について、ふと思うことがあった。僕が後輩の名前を呼び、後輩が僕を見る。
「何ですか、先輩?」
「昨日さ、僕雨が嫌いじゃないって言っただろ?」
「はい、言ってましたね」
「やっぱりさ、好きかもしれない」
雨には大切な思い出がある。かけがえのない記憶。だけれど、このままだと嫌いになってしまうかもしれないと感じた。
だって、部長がいない。この雨が降り始めてから、僕は部長と――彼女と会っていない。会えていない。もう恋人になってくれなんて言わないから、また彼女と話したい。
雨が降り始めたことと、部長と会えなくなったことにはなんの関連性もないけれど。
やっぱりこのままだと、せっかく好きだと気付けた雨を嫌いになりそうだ。
この雨は、いつ止むのだろう。
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