雨が止むまで
青井かいか
1
好きな人がいる。
なぜ好きなのかと聞かれても、あまりハッキリとした理由はない。
けれど強いて言うなら、優しいから。
優しいからその人のことが好きだ。
◯
たまに優しさについて考える。
優しさとはなんなのか。例え腹では悪どいことを考えていても、行動が好ましいものであればそれは優しさなのか。逆に相手を思うからこそキツイことを言う人がいたとして、そのことに誰も気付かないとしたら、それは優しさ足り得ないのか。
たまにそんなことを考える。
◯
梅雨が来た。例年より少し早い梅雨。
窓の外に目を向けると、雨らしい雨が降っていた。
雨らしい雨。絶え間なく雫が落ちて、耳を澄ませばザァザァと音がして、どこか湿っぽいにおいがする。そんな感じ。もう三日もそれが続いていた。天気予報によると、まだしばらくこの雨は止まないようだ。
「雨、止まないですねー」
隣で後輩がそう言って、机の上に伸びるように突っ伏した。
「そうだね」
僕は窓の外に視線を向けたまま、そう返す。
「先輩は雨、好きですか?」
少しの沈黙の後、後輩が僕を見ながら言った。
「嫌いじゃないけど」
「そうですかー。わたしは好きですよ」
後輩はにこりと微笑む。
「どうして?」
そう返すと、後輩は体を起こして口を開いた。
「雨の日って、なんだか落ち着きませんか? 雨音のリズムとか、いつもと違うにおいとか。あと、自分だけの世界に入れるっていうか」
「なるほど」
「先輩、絶対わかってないですよね」
適当に返事すると、後輩にジト目でにらまれる。
「まぁ、自分だけの世界に入れるっていう意味はよく分からなかった」
「では説明して差し上げます」
横目で見ると、後輩は楽しげな笑みをたたえていた。
「室内にいるとちょっと分かりにくいですけど、雨の日に外に出ると、自分を強く感じられるんです。雨が傘やレインコートに打ち付ける音が体の中に響いて、雨とか傘に視界や感覚が遮られて、他のことが気にならなくなるんですよ。それでですね、ポツポツ、ポツポツって感じで雨のリズムを自分の中で味わってると、不思議な感じがして――」
そんな風に後輩は雨の良さについて語り続ける。
彼女の表情はにこやかで、僕が相槌を打つたびに口元を綻ばせた。雨が好きだという彼女の気持ちが、真っ直ぐに伝わってくる。だけど僕は彼女の雨の話を聞きながら、別のことを考えていた。後輩の話を無下にしようだとか、どうでもいいと考えた訳ではない。むしろ楽しそうに話す彼女は微笑ましくて、聞いている僕も朗らかな気持ちになる。それこそいつもなら、いつまで聞いていても苦にならないほどに。
ただ今この時は、気付けば僕の思考は他の事柄に移っていた。それは仕方のない事のように思えた。
僕が考えていたのは、部長のこと。僕と後輩が所属するこの部活の部長のことだ。 今、僕と後輩がいるこの場所はその部活の部室だったりする。要するに今ここに部長はいない訳で。
部長たる彼女が不在の理由は、おそらく僕にある。
三日前、この雨が降り始めたその日に、僕は部長に告白した。好きです。よかったら僕の恋人になってくれませんか、なんて。緊張しながら、そんな鼻に付くような台詞で、告白した。
ずっと好きだった。そのはずだ。
彼女との出会いは小学生の頃で、高校に入って彼女と再会した。そして三日前に決心して告白した時、部長はいつもの笑顔でこう言った。
『私は君の気持ちに応えられません』
その時から部長とは顔を合わせていない。この三日間、彼女は毎日のように来ていたこの部室にも来なくなった。
「部長、今日も来ませんね」
気付けば後輩の雨の話は終わっていて、彼女は僕に向けていた視線を窓の方に移していた。
「まぁ、なんか色々と忙しいらしいから。部長も三年生だし」
なに勝手なことを口にしているんだと思いながら、僕はそう言った。
今の言葉は震えていなかっただろうか。怖くて、恐ろしくて、後輩の顔を見ることができなかった。拳を握る。心臓の音がうるさかった。雨音がやけに耳について離れない。
「そろそろ帰りましょうか、先輩」
後輩がそう言ってパイプ椅子から腰を浮かす。ギシっと微かな音がした。
後輩と一緒に部室を出て、鍵を閉めて、職員室にその鍵を返しに向かう。相変わらず楽しげな後輩の話に相槌を打ちながら、ふと窓の外を見やった。
また雨が少し強まった気がする。この雨はいつ止むのだろう。
後輩と並んで傘を差し、帰路に着く。外に出ると、雨音が近づく。
周りを歩く人々も傘を差したり、レインコートを着たりしていて、その表情はうかがい知れない。誰も僕を見ていない。
確かに後輩の言う通り、自分だけの世界に入れる気がした。
雨音がリズムを刻む自分だけの世界で、僕は考える。雨がやんだら、部長はまた部室に来るのだろうか。根拠が一切ない想像だが、僕がこう思ったのは、きっと雨が降り始めてから部長が来なくなったからだろう。
だけど違う。僕が部長と会えないことと、降り続く雨には一切関連なんて無い。部長が来なくなった原因は、僕にあるのだ。
「――先輩?」
後輩に声をかけられて、はっと我に返る。
視線を下げると、彼女が下から僕を覗き込んでいた。後輩が、僕を見ていた。
「あぁ、ごめん。ぼうっとしてた」
「もーっ、じゃあわたしの話、聞いてなかったんですか?」
「話って?」
怒った表情をつくる後輩に聞き返す。
「明日の放課後、よかったらわたしと出かけませんか、って言ったんですけど……」
後輩は怒った顔を崩して、どこか不安そうな声を上げた。
「部活はどうするの?」
「あ、えっと、それは」
はっと思い出したような顔になる後輩。
まぁ別にウチの部活なんて集まってもやることないし、部員も僕と後輩、それと部長しかいない。
そして今、部長は部活に来ていない。
「……その、やっぱりダメですかね?」
後輩は誤魔化すような、照れたような笑顔を見せる。
「いや、たまにはそういうのもいいかも」
ずっと部室にこもっているよりは、そっちの方が良い気分転換になるかもしれない。自分の為にそう思った。
「いいんですかっ?」
後輩の表情が晴れる。
「でも明日もたぶん雨だけど」
「雨でいいんですよっ」
力のこもった口調で後輩は言った。まるで雨じゃなきゃダメとでも言うように。
「雨でも楽しめる場所なんていくらでもあります。では、明日は授業が終わったら先輩の教室に行きますから、待っててくださいね」
その後、僕は後輩を家に送り届けてから自宅に帰った。
後輩の家は、僕の家から少し離れた位置にある。しかし彼女の家の前を通ると、僕は大きく回り道して帰宅することになる。にもかかわらず、僕がそういう帰り方をするのにはちょっとした事情があった。
約二ヶ月前、後輩が僕の高校に入学したばかりの時期、彼女がストーカー被害にあった。警察に通報するほどの証拠もないが、不安になった彼女は、僕に帰宅に付き添うよう頼んだ。
入学したばかりで交友関係もあやふやな時期に、同じ部活の先輩で、男で、帰路の方向が途中まで同じ僕の存在は彼女にとって都合が良かった。
その時から僕は彼女を家の前まで送り届けるようになって、それが未だに続いている。それは彼女がまだストーカーの被害にあっているからではなく、やめるタイミングを見失ったというだけ。
遠回りをすると言っても時間にしたら十五分も変わらないので、彼女がもういいと言うまでは続けようと思っている。僕は基本的に受け身で生きているのだ。基本的には。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます