第三話

 結局あの後は、学校中を探しても彼女は見つからなかった。チャットも電話も、返ってこなかった。帰途の最寄り駅で、まさか、と思って大樹たいきに電話をすると、サッカーの練習を終えた彼が電話に出た。


「あのさ、ライって女子のこと覚えてる?」


「ああ、もちろん。お前の彼女だろ?」


 大樹は疲れた様子で返してきた。


「い、いや、彼女とか、そういうのじゃ……」


 とにかく、彼女の存在が消える、というオカルト的によくある展開になっていないことに安堵の息を漏らした。


「はいはい、わかりました。で? それがどした?」


「ああ、いや、それだけ。ごめんな、練習疲れてるのに。じゃ、切るから」


 そう言って画面をタップしようとした時、


「いやいや……って、ちょ、ちょっと待った、陽葵はるき


と言う声が聞こえ、指を止めた。


「お前さ、小学校の頃サッカー上手かっただろ? 今度の試合、代わりに出てくれないか?」


「え、ちょっと、急すぎないか? ってか、なんで?」


「それがさ……」


 彼の話によると、今日発生した食中毒で、部員の半数以上がやられてしまい、残された部員は十一人―――サッカーのフィールドに出られるメンバーの数―――らしい。もちろんそれでも試合に出られるのだが、控えの部員は必要らしい。今いろんな人をあたっているらしいが、今のところ誰も応じてくれていないそうだ。


「でさ、陽葵すごくうまかったじゃん。だからお願い!」


 親友にここまで頼まれたのなら仕方がない。


「今は体育でやっているぐらいだし、練習しても間に合わないだろうけど……」


「マジか! ありがとう!」


 俺は電話を切り、ぐちゃぐちゃになった頭の中を一旦置いといて、家に向かって走り出した。



 ***



「ただいま、って誰もいな……ん?」


 ドアを開けると、仕事で夜遅くに帰るはずの父が、出かける準備をしていた。


「ああ、陽葵か。実はな、父さんの兄弟が交通事故に遭って、その見舞いに行かなくちゃならないんだ。みんなあちこち折っているらしくて、父さんも今日中に、いや、明日も帰れないかもしれない。あと、母さんも突然お義母さんが倒れたらしくて、もう出かけた。晩御飯はどこかで買ってきてくれ。突然ですまない」


 そう言い残して、父さんは飛び出していった。


 とりあえず、俺は風呂に入ることにした。このもやもやの頭の状態で外に出て、無事に帰ってこられる気がしない。それに、オカルト思考になっている俺は、周囲の人々の度重なる不幸を偶然のものとは思えなくなっていた。


 風呂の扉を開ける。真っ白な浴室内は広く感じて、それでも閉鎖的な空間として俺を受け入れてくれる。


 俺は考える。ライのこと。大樹のこと。親戚のこと。

 まず親戚。とにかく無事を祈ろう。

 次に大樹。今日から毎日走り込みと基礎練習をして備えよう。もししくじっても責められはしないだろう。

 そして、ライ。彼女が消えたこと。もしそれが、俺の周囲に影響を多少なりとも与えていたとしたら……。オカルト的には、王道展開だと思う。少なくとも、彼女の秘密を知るまでに研究用に読んだ本によれば。

 今から家に行くにしても、最寄り駅までしか知らないから不可能に近い。

 ―――そうだ。結局俺があれこれ考えてもどうしようもないのだ。一度空を飛んだ時から、もうただの人間に対処できる問題ではないと思っている。でも、彼女の秘密を知っているのは俺だけで……。


『お前の彼女だろ?』


 大樹の声が蘇る。


『一人に……しないで』


 ライの声も。


 俺は決意を固めて、浴槽を出た。

 とにかく、できることをしてみよう。ネット、本、あのお守り。手段はいくらでもある。


 風呂の扉を開けた。

 そこに立っていたを見、俺は茫然としてしまった。


「家じゃ、独り言が多いんだね。ごめんね」


 濡れた髪が頬に張り付いたライが涙を流しながら、申し訳なさそうに、洗面所の壁にもたれていた。



 ***



「ご、ごめん。本当にそう思っているわけじゃないんだ。ライのせいで食中毒とか、事故とか」


「いいんだよ。別に。絶対に私のせいじゃないって保証もないし。」


 ライは、デリバリーで頼んだ中辛のカレーを口に運んだ。


「あのさ、なんであの時消えたの?」


「わからない。気が付いたら空に飛んでた。そこで、龍っぽい形の雲に遭った。『許す』って言われた。それでまた気付いたら君の家の洗面所にいた」


 箇条書きのような言い草で、少し頭の中を整理する。


「あのさ、やっぱり私は、君にかかわらない方がいい。これ以上迷惑かけたくない。だから、もう帰る」


 いつの間にか平らげていた皿をもって流しに向かう彼女の体は、その声同様、震えていた。


「ま、待って。俺は別にライといたくないなんて、思ってない」


「荷物どこ?」


 彼女は俺を無視して、目の前を通り過ぎた。


「だから、少しは俺の話を聞いてくれ」


 俺は、部屋を出ていこうとした彼女の肩をつかむ。


「離して!」


「離すか! また消えられたら困るし」


 彼女はこちらに向きなおった。彼女の顔を見た瞬間、俺は目を見開いた。


「その涙、色が……」


「えっ? 色……って、きゃ!」


 彼女は拭った手についた、濁った色の液体を振り払った。そして、声にならない悲鳴を上げながら、その場で崩れ落ちた。俺はすぐさま駆け寄り、彼女の気持ちを鎮められるよう何度も「大丈夫」とささやいた。


 彼女はそのまま寝てしまった。

 外出疲れだけの俺ですら疲労ひろう困憊こんぱいなのに、空を飛んで、俺の小言を聞いて、悩んで、泣いて。


 彼女をソファに寝かせて毛布をかけようとした時、彼女は、


「ママ……怖いよぅ…………」


と寝言を言った。

 俺はそのまま部屋に向かい、ベッドの上に寝転び、目を閉じた。

 やはりこれまでも怖かったのだ。俺に何かしてやれることはないのか。


 暑さ以外に寝苦しい夜は、久しぶりだった。



 *****



 目覚まし時計の音が頭に響く。

 夏休みだというのになんでこんな時間に、と思って昨日の記憶を探ると、彼女の姿を思い出して、飛び起きた。急に起きたせいか、心臓がドキドキしている。俺は自室を飛び出してリビングに向かい、ドアを開けた。ソファの方を見ると、彼女はまだ眠っていた―――が。


「んー。ねむい」


 ドアの開く音で起こしてしまったようだ。


「おはよう、ライ」


「え、ああ、おはよう……って、なんでいるの?」


 彼女は目をこすり、キョロキョロ周りを見る。


「そりゃ、俺の家だから」


「あ。そ、そうだったね。昨日あのまま寝ちゃったんだ。ごめんね。迷惑かけて」


「別にいいよ。疲れてただろうし。具合はどう?」


「うん。清々しい気分。このソファ寝心地良かったよ」


「そりゃどうも。今から朝ごはん適当に作るから待ってて」


 俺は彼女が洗面所に向かうのを見届けてから、キッチンに向かった。



 ***



「あのさ、なんとなくなんだけど」


 食後のコーヒーを一口飲んで、ライが口を開いた。


「少し、色がわかるようになった気がする。泥みたいな濁りが消えて、区別がつけられるようになったかも」


「やっぱりか」


「えっ、気づいてたの?」


「ああ。なんとなく」


 彼女が今朝から、何を見るにも目を輝かせていたことから、薄々気づいていた。

 昨日の夜中に考えていた仮説と合わせて、俺は一つの結論に至った。


「あのさ、もしかしたら、それを治す方法がわかったかもしれない」


「え、ほんとに? どうするの?」


「ああ。それは、泣くことだ」


 彼女は、頭上にマークを浮かべたような、キョトンとした顔になった。


「昨日の涙が、茶色―――いや、ここはセピア色と言っておこう。そのほうがきれいだから。だったでしょ? 昨日涙を流してから、今朝景色が少し鮮やかになった。てことは、そのセピア色の成分を全部涙で流しきってしまえば、もとの視界に戻るんじゃないかな。昨日より前で泣いたのは、いつ?」


「中学の卒業式以来だから、二年前。たしかに。それあるかもしれない」


「でしょ? だから今年の夏休みは、たくさん泣いてもらう!」


「泣いてもらう、って、言い方怖いよ。何、私をお化け屋敷とかホラー映画で泣かせるつもり?」


「苦手?」


「まあ、人並みにはね。でも、そんな簡単には怖がらないよ?」


 そう言う彼女の目線は定まっていなかった。


「そっか。でも行ってみる価値はあるとは思うよね?」


「え、う、うん。私のためだもんね。し、仕方ないよね。うん」


「よし、じゃあ行こうか。」


「え、どこに?」


「とっておきの場所。俺も準備あるから、終わったらソファでくつろいどいて」


あと、きっと俺の身に起きていることは、全部偶然だから。気にしないで。

 

俺はそう言い残して、自室に戻った。



 ***



「ここは、映画館?」


俺たちは隣の町の駅で降り、少し街の中に入ったところの映画館に来ていた。


「そ。まずは、観客を泣かせにくる映画を見よう」


「まさかここがとっておきなの?」


「いやいや、全然違う。まだこれは、コース料理で言うところの前菜。メインディッシュは最後まで取っておくから、楽しみにしてて」


 どれがいい? と彼女にきく。


「うーん。じゃあ、これ」


 ライは券売機のタッチパネル上の、大ヒット中の恋愛アニメ映画のタイトルを指さした。俺はそれを選び、二人分のお金を入れた。


「え、お金……」


「今日はレディースデイだし、俺が請け負うから。ライは泣くことだけ考えてて」


 何とか彼女を説得して、俺たちはポップコーン片手にスクリーンへと足を踏み入れた。


「あ、そういえば、服、洗濯してくれてありがとね。あんなビショビショの服、触るの嫌だったでしょ?」


 彼女はフードを整えながら言った。ライの服装は昨日と変わっていない。


「それぐらい気にしないよ。あ、そういえば、服縮んでない? 乾燥機かけたから」


「うーん。言われてみればちょっと胴回りがきつい気がするけど、多分気のせいだと思う」


「もしかして、ふと


 俺は昨日のお返しに少しからかってみると、彼女は目にもとまらぬ速さでジーパンの上から俺の太ももをつねってきた。


「痛い痛い! ストップストップ。ごめん。謝るから、謝るから許して!」


 つねるのをやめた彼女の方を見ると、いかにも人を見下すような目線をこちらに向けていた。


「あのさ。もし私が太ったって言ったら、次はグーだよ」


 パンチよりも攻撃力のありそうな冷たい声で言う彼女に、小さな声のすみませんしか、俺の出せるものは無かった。



 映画を見終わった俺たちは、外のベンチに腰かけていた。彼女に泣いたか聞こうとしたが、それをするまでもなく、彼女のハンカチは茶色く染まっていた。どうやら感性にドンピシャだったようだ。俺も目に涙をためたシーンはいくつかあったが、彼女の隣で泣くわけにはいかず、何とかこらえた。

 俺は彼女のハンカチを見ていた。涙であっても、空であっても、あの色はセピア色だった。どこか懐かしく、すこし煙草そうな色。そう見えた。でも、ハンカチを染めていた色は、どう頑張ってもそうは見えない。ぬかるんだ地面みたいな色で、とても空を飛んだ結果得た色とは思えない。


「ハンカチ、汚れちゃった」


 彼女は気にするそぶりは見せなかったが、涙に交じる汗や、掌に残る爪の跡が、彼女に与えたダメージを物語っていた。


「じゃあ予定を変更して、ハンカチ買いに行こうか」


「ううん。どうせまた汚しちゃうし」


 そう言う彼女の顔は、どこかやつれているように見えた。


「俺からのプレゼントだと思って。いい?」


 彼女はしぶしぶ頷いて、俺の後をついてきた。



 ***



「本当に、ありがとね。こんなモフモフのハンカチくれて」


 紙袋の中に入った真っ白のハンカチを、嬉しそうに触るライを見ていると、俺にはとても彼女がさっきまで泣いていたようには思えなかった。

 ショッピング中に聞いたところ、彼女の視界はかなり改善されていて、もうほとんどの色は識別できているらしい。でも、まだ白や肌色といった薄めの色はすべて同じに見えるようだ。あと、頻繁に視界がちかちかするらしい。きっと急な変化に体が追い付いてないのだろう。


「もう、夕方だね」


 彼女は夕日に目を細めて言った。


「そうだな。じゃあ、とっておきの場所に行こうか」


「うん。ねえ、まだ教えてくれないの?」


「すぐそこだから。あ、あと、今日もし完治できなかったら、今度のサッカー部の試合見に来てよ。ピンチヒッターで呼ばれて、出ることになったから」


「わかった。その日予定空けとく。てか、サッカーなんだからヒッターはおかしくない?」


「たしかに。ストライカー、かな」


「ピンチストライカー、なんて聞いたことないけどね」


「―――あ、ここから目つむって」


 俺は人通りが少ないことを確認しながら、目を閉じた彼女の手を引いた。

 それから少し歩いて、目的地に着いた。視界の端に映る石碑には、『第一公園』と彫られてある。


 目を閉じたまま彼女の手を引いて、俺は思い出の場所へ向かった。


「よし、目、開けていいよ」


 彼女は目を開けた。そしてすぐに、握られた手が震え始めたのを感じ、俺は手を放した。

 俺の思い出の場所は、奥に海が見える花畑だ。ロープを隔てて様々な色、種類の花々が咲き乱れ、その目線の先には―――並木がそこだけぽっかり空いて―――雄大な海が広がっている。ちょうど夕日が、水平線の上に乗っていた。

 俺も久しぶりに来たせいか、その景色に圧倒されて、しばらく絶句していた。


 ふと我に返った俺は、彼女の方を見た。彼女はしゃがんで花の一つ一つに食い入るように眼差しを向けているように見えた。表情は見えないが、少なくとも彼女の横顔に流れる涙の河は、透明だった。


「見える?」


「―――うん。全部、見える……!」


「にしてもすごいだろ。俺も初めて見たときはびっくりしたな―――」


 俺は何度も思い出した、あの日のシーンを脳内シアターに映し出す。



 *****



 小学生の頃のある日、同じ地区のサッカークラブとの試合があり、俺は大樹とともにスタメンで出場した。しかしその日、俺はひどいプレーを連発した。トラップミスに二つのファール。しまいには一点ビハインドの後半ロスタイム、コーナーキックで大きく外した。

 試合後、みんなが帰ってから監督にこっぴどく叱られた。

 自分のプレーに満足してなかったのか、叱られたのが嫌だったのか、もしかしたら理由はなかったのかもしれないが、帰りの道で泣いてしまった。

 泣き始めて少し経った頃、うつむく視界に影が映りこんだ。顔を上げると、同じくらいの歳の、知らない女の子が立っていた。


「ついてきて」


と、手を引かれ、あの場所に連れてこられた。初めてあの景色を見た時、俺の涙は止まり、あんぐりと口を開けていた。


「ここ、わたしのおきにいり。しんだママが、わたしがちいさいころから、つれてきてくれたんだ。はじめてほかのひと、つれてきた」


 あの子はニコニコ幸せそうに笑って、近くの花の花弁に触れた。


「なにかあったの?」


 俺はあの子に全て話した。その子は黙って、時折相槌を挟みながら聞いていてくれた。日が沈む頃まで―――俺の気持ちが晴れるまで話した後、その子は、


「きっときみはだいじょうぶ。がんばれ!」


と言って、肩をポンポンとたたいてくれた。


 結局その後、中学入学と同時にサッカーはやめてしまったけれど、俺はその場所に―――頻繁と言えるほどではないが―――通った。

 でも、その子と会うことは、これまで一度もなかった。

 毎年来るたびに思っていた。もしかしたら、俺はカラフルな花々じゃなくて、あの日のセピア色に包まれた彼女に会いに来たのかもしれない、と。

 その子は白っぽいパーカーを着ていて、黒くて短い髪で、ちょうど今みたいな立ち位置で……。



 *****



 その時、俺ははっとして彼女の方を見た。真っ黒で艶やかな髪と、真っ白なパーカーのコントラストは、俺のセピア色の憧憬を砕いた。

 俺は、彼女によって救われたのかもしれない。


「よく、見えるよ。ありがとう。田嶋くん」


 彼女は目線を花に固定したまま、そう言った。


「ここ、すごくいいところだね。どうやって知ったの?」


「そ、それは……多分」


 俺は彼女を指さした。言葉が途切れたことに気づいた彼女はこちらに振り向き、俺の指を見るや否や、目を大きく見開いた。


「あの、サッカー少年なの?」


「こんなことがあるんだな。ご察しの通りだ」


俺は頷く。


「ご察し、って」


 彼女は立ち上がってこちらに向き直った。


「ライ……」


「ライじゃなくて、未来みらい。これからそう呼んで」


 ライ―――未来は恥ずかしそうに、風にそよぐ髪を指にかけながら、そうはにかんだ。

 

 咲き乱れた花々。周りを囲む木々。沈みゆく夕日。だだっ広い海。

 そのすべては、俺たちの目には眩しすぎるぐらいカラフルに映っていた。

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セピア 時津彼方 @g2-kurupan

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