第二話
「おはよ。今日も早かったんだね」
俺が下駄箱に靴を入れていると、例の彼女が校内に入ってきた。
「まあ身に染み付いた習慣みたいなもんだから」
「そうなんだ。いつから?」
「小学校に入った頃には、いつも教室の鍵を開けていたから、幼稚園から?」
「そう。若さの証拠なんだし、いいんじゃない?」
俺とライは他愛のない会話をして、いつもどおり彼女の教室の前で別れた。そう、彼女と再会した日から何の進展の無いまま―――頭の中がもやもやしたまま、二週間が過ぎた。そして今日、学校で終業式が行われる。つまり彼女としばらく会えなくなる。
今のところ、彼女との関係は、ただの友達といったところだろうか。朝はこうして下足室で会い、下校時は駅まで一緒に行く。移動教室で廊下であったときは軽い会釈をする。他の人よりは話すようにはなった。
急に俺が彼女と話し始めたものだから、クラスの中で少し噂されるようになった。とはいえいじめがなく、応援されたのは意外だった。大樹にすら、
「やっとお前にも春が来たんだな。俺は嬉しいよ。羨ましいけど」
と言われる始末。大樹はみんなに好かれるものの、恋愛面では冬続きとのこと。
彼女のことも、少しは分かってきた。住んでいるところは案外近く、一駅分ないぐらいだ。趣味は絵を描くこと、一人カラオケ。ただ、描く絵の種類や十八番は知らない。
「明日から夏休みだね。田嶋くんはなにか予定あるの?」
「俺はサッカー部の試合を見に行くのと、家族の旅行と、あとは……んー…………」
「ないんだ」
「仕方ないだろ? 俺は友達が少ないし、その少ない友達は部活とか長い旅行とか」
そもそもあまり外に出たくないというのが本音だ。暑いし。
「そっか。じゃあ明日、二人でちょっとどこか行かない?」
えっ? と俺は彼女の方を見た。彼女はこちらを見、
「ん? なにか先約あるの?」
「い、いや……そういうわけでは」
「じゃあ決まりね」
半ば強引に、夏の予定が一つ埋められた。半ば、というのは、俺もどこかのタイミングで彼女の秘密を探る一日を、夏休みの中で作ろうとしていたからだ。
「わ、わかった。あ、そういえば、連絡先交換しとく?」
「あ……うん。いいよ」
と言って、彼女はポケットからスマートフォンを、なぜか顔を赤らめながら取り出した。なんで男子を誘うより連絡先を教えるほうが恥ずかしいのか。女心はよくわからない。
「―――よし。じゃあ明日の集合時間とか場所とか送っておくから」
「うん、じゃあまた放課後」
俺は彼女の姿を見届けたあと、自分の教室へ向かった。
*****
「おはよー。待った?」
ライは約束の時間の五分前に来た。黒Tシャツ、羽織りのフード付き白パーカー、カーキのチノパン、紺のスリッポン。背中にはそこそこ大きめな黒いリュックを背負っている。私服のためか普段より大人びて見えた。
「まあそこそこね」
そう答えると、彼女は不満そうに、行くよ、と言った。
送られてきたメッセージによると、今日の予定は、ちょっとした買い物らしい。何を買うかも、どこに行くかも、持ち物すら書かれていなかった。唯一書かれていたのは、集合場所が俺の最寄りの駅だということ。とりあえず久々に取り出したウエストポーチに、スマホと財布と、一応鱗のネックレスも持ってきた。久しぶりに取り出したそれは、あの日と違わない、きれいなピンク色をしていた。
「で、どこに行くの? この辺りはそんなに栄えてないから、ここから電車でも乗るの?」
「ううん……あ、着いた。ここだよ」
そこは文房具屋だった。百円ショップより安いものも多くあり、俺も頻繁に立ち寄る場所だ。
彼女は店内に入るとすぐに、画材コーナーに向かった。
「―――田嶋くん、どっちがいいと思う?」
彼女は大きな白い紙を左手に、小さな黄色い紙を右手に持って問いかけてきた。
「描く絵によるんじゃないの?」
「ううん。田嶋くんに決めてほしいの。描くものも決めてないし」
「じゃあ、そっち。でも。その紙黄色だけどいいの?」
「え? ああうっかりしてた。ちょっと待ってて」
慌てて彼女は棚の前に戻り、じっと白い紙を探して一枚持って来、さっき左手に持っていた紙と一緒に、レジに持っていった……ん?
「どっちも買うのかよ!」
「別に片方だけ買うなんて言ってないよ」
彼女はそう言って、少し長めの行列の後ろに並んだ。
俺はため息をついて、ちょうど切らしていた黄色の蛍光ペンを片手に彼女の後ろに並んだ。
***
俺たちは買い物をし終えたあと、昼ごはんを食べるためにファミレスに入った。俺はペペロンチーノ、ライはカルボナーラを注文した。
「そういえば、どんな絵を描いてるの?」
話題に困った俺は、フォークにパスタを巻きつけながら尋ねた。
「うーん、風景画が多いかな。人物はたまに描くけど、頼まれて描くことが多かったからなぁ。なにか描いてほしいものでもあるの?」
「いや、気になっただけ。見たことなかったからさ、ライの絵」
「そっか。じゃあ見せてあげるよ」
と、彼女はリュックサックの中を探り、封筒を取り出した。その中に入っていた一枚のハガキを、彼女は得意げに見せてきた。
「これは……」
だだっ広い雲海と夜空。使われているのは鉛筆一本だけのようで、濃淡だけや線の幅だけで、雲の影までもが表現されていた。
「そう、私が空を初めて飛んだときの景色。きれいだったから覚えてる間に描いたんだ」
それから少し、空白があった。見とれていたせいか、空気が重くなったのを感じる。尽きないはずの話題をひねり出そうとあたふたしていると、それを察したように彼女は口を開いた。
「鉛筆の絵だったらさ、熱とか水分とかで劣化しちゃうじゃん。だからこうやって、封筒に入れてるんだ。いつもはパネルに入れてるんだけど、今日は持ってきたんだ。本当だったら色付けたいんだけど、あいにく色を付けるのが苦手で、ぐちゃぐちゃになっちゃうんだ」
「いや、こういうのも悪くないと思う。逆に白と黒の濃淡だけで表せるのはすごい技術だと思う」
「本当?」
俺は
***
俺たちは、なぜか学校に来ていた。無言の列車に揺られて見慣れた学校の最寄駅に着き、ライに連れられるままにきたものの、普段とは違う道だったため気づかなかった。そしてそこは裏門だった。警備員の姿は見えなかったが、カメラのようなものを見つけた。
彼女はなんのためらいもなくそこを通った。俺も、少しの罪悪感と興奮を胸に、あとに続いた。
靴を脱いで校内に入り、近くの階段を登り、たどり着いたのは美術室だった。
美術室は四階の廊下の角を曲がったつきあたりにある、扉の付近も含めて、極めて閉鎖的な空間だ。十数年前に美術部がなくなってから、行事のとき以外はあまり使われていない印象だ。
彼女はなれた手付きで南京錠を外して引き戸を開けた。ところどころペンキが禿げたドアから、がらがらがらと音がした。なぜ鍵を使わずに開けられたのかは、後で聞くことにしよう。
中に入ると、カラフルな絵の具のはりついた、いかにも、という床が目に入った。ただ、周りはきれいに整理されている。絵の具セットや筆、鉛筆や彫刻刀などは、分類されて引き出しにしまわれているようだ。棚の別のところに積まれた紙の上には、くまの形をした乾燥剤が置かれている。
美術室はたくさんのもので溢れているものだと思っていたが、以外にも目についたものはその程度だった。あとは、今彼女が屈んで見つめている、鉄製の大きな箱ぐらいだ。膝丈ぐらいまである大きな段にすっぽりとハマっている。
彼女は何かを確認し終えたような様子で、手近な丸イスに座った。俺も倣って近くにあった頑丈そうな木箱に腰掛ける。
「ここに、私が空を飛んだ理由がある。誰かに話すのは、初めて」
少しの沈黙が開け、彼女は口を開いた。
*****
私がこの学校に入学してから、誰とも話さない日が続いた。同じ中学から来た人がいなかったせいだと思う。でも私はそんなに辛くはなかった。休み時間は絵を描いているだけで楽しかったし、そのことについて誰かに嫌味を言われることもなかったから。
そんな私が初めてクラスメイトの話に興味を持ったのは、ある昼休みのこと。
「ねえ知ってる? 先輩に聞いた話なんだけど、この学校に美術部があったらしいんだけど」
近くで集まってお弁当を食べていた女子たちの話それが私の耳に偶然留まった。
私は黙って、意識をそちらの方へ向けた。
「十年くらい前になくなったみたいでさ。その部室の美術室で、学校の七不思議の一つがあるんだって」
「七不思議って、トイレの花子さんとか、笑う肖像画とかの、あれ?」
短髪の女子が、ポニーテールの女子に問いかける。
「そうそう。なんでもそこに行ったら空を飛べるとか」
「えー? それはないでしょ」
栗色の長髪の女子が、ご飯を口に運びながら言った。
「私もそう思う。第一、花子さんとか肖像画はカラーバス効果(ある対象を見る人の感情が、その対象の見え方に影響する心理的効果)で見えているだけ。だから見た人がいてもおかしくない。本当にそこにいなくても、その不思議は成り立つ。でも、空を飛ぶのは人の主観的な動作だから、もしそれが本当だったら……やばいよ?」
短髪の子が冷静に見解を述べたけど、最後には非科学的な現象に言葉が足りなくなってしまったみたい。
でも、私は彼女たちの話に興味を持った。短髪の子の見解の通り、もし本当に空を飛べたとしたら、それは事実になって、噂話だけではすまされないことになる。
検証してみたい。
そう思うより先に、私は彼女たちに詳しい情報を聞き出していた。
それから、私はそのことについて彼女たちと連日語り合った。私は案外、こういうオカルトチックな話に興味があったのか、と自分でも驚いた。
得た情報は、そこは行事の際に倉庫として使われる以外は、ほとんど誰も入らないということ。中は乱雑で、整理する必要があること。南京錠がかかっているが、実はもう壊れていて、鍵なしでも開けることができるということ。
ここまでが事実。
そして、ここからが七不思議情報。
一番奥にある棚にある鉄の箱を引っ張り出すと、奥の壁に人が入れるほどの穴があって、そこから空につながるらしい。ざっくりとした話だけど、それもオカルトっぽい。
私たち四人はある日、とうとう美術室に来てしまった。壊れた南京錠を開けて中にはいると、床にはしわのついた紙や先の割れた筆、割れたパレットや壊れたイーゼルが散乱していて、気分が悪くなるような埃の匂いがした。
仕方なく、私達はそのガラクタたちを整理―――というより、処分した。換気のために窓を開けると、高地の学校の性質か、強風がこちらに入ってきて、まだ袋に詰めてない紙が舞い散った。私はその風を感じて、胸が高鳴った。
その日は掃除だけでくたくたになって帰った。連日の雨を退屈に過ごして、一週間が経ち、私達はまたそこに集まった。
ドキドキしながら、四人で箱をどかした。重すぎてそれだけで一苦労だったけど、その後に待っているはずだった楽しみがそれを全て晴れやかな色に変えてくれた。
その奥の壁には―――噂とは少し異なっていたけど―――正方形の黒い鉄扉があった。ひとしきりそれで騒いだ後、代表として私がその先に進むことになった。
体操服に着替えた私は、簡素な鉄のハンドルに手をかけた。その冷たさでも、私の熱は冷ましきれなかった。それを引くと、奥は真っ黒な闇が広がっていた。
「叫んだら引っ張り出してよー」
「わかってるって。いってらっしゃい!」
そう言葉をかわして、私はその奥に這って進んだ。
そして全身がその通路の中に入ってすぐ、まばたきをしたそのコンマ一秒の間に、私は雲の上にいた。
飛行機にすら乗ったことのなかった私は、その未知の空間で子どものようにはしゃいだ。はじめは風に煽られて四苦八苦していたけど、だんだん慣れてきて意のままに進むことができた。
真下に広がる真っ白な雲海はもちろん、明るいのに見える星々、遠くに見える少し黒い雲、どれもに圧倒された。目を閉じた。全身を包み込む風はまだ感じる。
この光景を三人とも分かち合いたい。
帰りたい、と願ったコンマ一秒後、私は美術室に汗だくになって座っていた。
違和感に気づくのはすぐだった。
四人でやっとの重さの箱が、元の場所にあった。あと、周りに誰もいない。念の為スマホで年月を確認してみると、ちゃんと今日の日付だった。
とりあえずその日は制服に着替えて、歩いて帰った。
次の日、三人に話を聞いても、誰もその七不思議を覚えていなかった。
*****
「それからみんなに何回か話してみたんだけど、全く興味持ってくれなくて、というか、ここに来てくれなくて。私以外の人を寄せ付けない、結界でも張られてるんじゃないかって、思うぐらい。この箱をどかすには、私一人の力じゃ無理だから、空の上から何回も叫んだの。誰か、誰かって。それを何回もし続けて一年と少し、やっと届いたのが、君だった」
窓からさす夕日を背に受けた彼女の表情は、こちらからは見えない。ただ、声色から泣きかけているように思われた。彼女には申し訳ないが、いくつかまだ疑問は残っている。
「でも、なんでそんなにここに来る必要があったの? 何もライの身に起きてないなら、そうする必要もないし」
「私、あの日から視界がおかしくなってさ、見えるものが全部、泥みたいな色に見えるんだ。どう頑張っても何も鮮やかに見えなくて。ここに来たら、何か変わるかもって、信じて」
「どうして言ってくれなかったの?」
「君も、みんなと同じで、ここに来てくれなくなるって思ったから」
どこか疲れた様子の彼女に、最後の質問を投げかけた。
「なんで、俺だったの?」
彼女は笑って、なんでだろうね、と言った。
「まあ、それはいっか。正直あの日の衝撃体験で、もうほとんどのことを信じてしまう頭になってるし、もうあとの疑問は全部『神のみぞ知る』ってことで、箱どかそうか」
そう言って箱に手をかける。見るからに重そうだが、高校生男子の筋力にかかれば……。
「よいしょ!」
箱は勢いよく前に倒れ、耳をふさぎたくなるような衝撃音が、二人だけの空間に響いた。
「そんなに……重くなかったな」
「嘘。息切らしてるくせに」
「どかせたんだし、結果オーライ」
そして俺たちは棚の奥を見ると、そこには扉―――ではなく大きな穴があった。
「―――この先に進んだら、空を飛べるのかな」
ふとそうつぶやくと、
「―――いかないで」
と、彼女は俺の腕をつかんできた。かなり痛い。
「私を……おいていかないで…………一人に……しないで」
震える彼女の肩に、そっと手を乗せる。
「大丈夫。冗談だって。飛べないのは残念だけど、あの日の経験で我慢するから」
で、ここからやるべきことは、ほぼわかっていた。先程転がした箱の中から、板のようなものが倒れる音がしたのを思い出し、俺は箱についていた取っ手を引っ張った。案の定その中には、穴にピッタリはまりそうな鉄の扉があった。
俺はそれを取り出し、そこにはめた。
「はめたよ」
俺が彼女の方を見た時、そこには画材の入ったリュックだけがが残されていた。
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