セピア

時津彼方

第一話

 今日も、終わった。


 駅の改札を出て、俺は喉の奥の方にある重い息を吐き出す。

 最近、毎日が退屈に思えて仕方がなかった。朝起きて、学校に行って、帰って、寝る。別に不満ばかりではない。話す友達はいるし、先生からも嫌われていない。

 でも、そんな同じ日々の堂々巡りで、常に辺りに霧が立ち込めているようだ。知らない間に桜は散り、服の袖は短くなり、浴衣を着る人もちらほら見かけるようになった。盲目的に生きていては、一度瞬きをする間に死んでしまう。なのに。


 駅前の、いい匂いの漂う商店街を抜けてすぐ、煙草の匂いがした。俺は息を止めて煙たいスーツ姿の男の脇を通り過ぎ、新鮮な空気を吸い込んで、空を見た。空は紫色、電柱の上にはカラスがまばら。たまにカァと鳴く。


 自分のやりたいことを見つけられないまま、何年もの月日が過ぎた。

 周りが次々と夢を見つける中、ただ胸の内の焦燥感が、さらに煮える。

 もちろん、早く決めなければならない。だけど、決まらなければ、見つけられなければ何も成せない。


 昔のような穏やかな日々に、戻りたいと思うことが最近多くなった。

 俺は思い出す。あの場所での、あの出来事。落ち込んだときに励まされた、ありふれた出来事。あの日のことをこれまで忘れたことは一度もなく、むしろサブリミナル的に脳裏に自然と映し出される。


 数年後の自分は、こんなモラトリアムな今を、どのように振り返られるのだろうか。

 


 ***



 家に着いた。


 うがいをして、タオルを手に取る前に鏡を見る。顔のパーツが置かれただけの、疲れ切った自分の顔を、三面鏡が責めるように指差す。別に今日の授業で体育があったわけでもないし、満員電車に揺られたわけでもない。

 制服を脱ぎ、部屋着に着替える。空色のTシャツの上にグレーのパーカー、紺のジャージのズボン。親は仕事でいない家で家事をするにはちょうどよい服装だ。


 俺の放課後は、暇だ。

 部活はやっていない。委員会活動も日中で終わるかんたんなものばかり。宿題はやるが、そんなに時間はかからないし、放課後に話したり遊んだりする友達も少ない。たまに学校で課題をやることもあるが、基本的に親のいぬ間に家事をやっているのだ。

 ぱぱっと晩御飯を作ってしまい、自分の分だけよそって残りは冷蔵庫に入れた。

 洗い物は親がやってくれるので、俺は流しに自分の分の皿を積み上げ、上から水を流す。そして、風呂自動のスイッチを押して、やっと俺は安堵の息を吐く。さて、何をしようか。将来どころか、今日の晩にやることすら思いつけない。

 結局俺はぼんやりすることが好きなのかもしれない。そのままではいずれダメ男になることはわかっているけど、まあいいかな、と思ってしまう自分が憎めないのが少し悔しい。

 俺はカバンを引きずって廊下に出た。階段を上がる度、かばんの中の何かがカラカラと鳴る。自分の部屋の前に立ち、がらんと引き戸を開けた。



 俺は思わずカバンを落とす。

 俺の部屋は、いたっていつも通りだ。入ってすぐ右にある棚も、パズルのように敷き詰められたベッドと机も、変わらずそこにある。

 でも、明らかに雰囲気が違った。


 俺はその違和感の正体が、色であることに気づいた。まるで昭和のレトロな映像のようなセピア色。不気味で非現実的なその光景は、懐かしさと新鮮さ、鮮やかさと淡さ、確からしさと曖昧さが混じり合って、俺のレンズをすり抜けた。その両極端な印象に少し酔いそうになる。

 刹那、耳に微かな違和感を覚えた。

 雷? 違う。

 バイク? 違う。

 工事の音? 違う。

 その違和感は徐々に増大し、やがて何かの咆哮のように思えた。俺は思わず耳をふさぎ、その場にしゃがんで目をぎゅっとつむった。


 龍だ、と直感的に思った。



 ***



 目を開けると、俺は足元の感覚が無いことに気づく。羽織っていたパーカーがふわっと膨らみ、下からの風の強さに耐えきれずはためき始める。俺は慌ててチャックを締めた。周囲を見ると、セピア色の雲が俺を包んでいるのがわかる。さっきの部屋の色だ。

 髪の毛が上に逆立ち、妙な爽快感がある。

 息も続いている。まだ音も聞こえている。とことん不思議だ。


 あ、と声が出た。目の前の視界が開けた。そこには心が洗われるような、紺と橙のコントラストが美しい、幻想的な景色が広がっていた。上には星が見え、下には雲海が広がっている。もう日は雲の下にあるようだ。そんな、奥行きのありふれた世界。

 そして、周りには誰も……いな……い?


 刹那、目の前を何かが通った気がした。いや、目の前の空間が歪んだのか?

 あまりの速さに思わず手を体の前でクロスしたが、その『何か』の勢いに体が吹き飛ばされることはなかった。

 間もなく今度は背後に気配を感じた。背筋が、凍った。そして無意識に開いた口を閉じ、なんとか頭を回す。ここはおそらく上空。もちろん、この状況は間違いなく不自然だ。そして後ろの『何か』はきっと得体のしれない謎生物か、幽霊か。そもそもそういうものは信じていなかったが、ここまで来ると信じなければならない。

 そして、強張った声で問う。


「誰だ」


 後ろの『何か』が少し動いた、気がした。

 すると、再び大きな音が聞こえた。急に叫ばれたものだから、バランスを崩してしまい、体が上下逆さまになってしまった。でも、落ちていく気配はなく、頭に血が上る様子もない。

 少しの静寂の末、目の前に女の子が現れた。というか、気づいたらいた。


「え……誰……ですか……?」


 驚きを隠せないまま、今度は落ち着いた声で問いかける。


「……」


 彼女は黙ったまま、なぜか逆だっていない短めの黒い髪を触っていた。汚れのない真っ白な服に、黒いピチッとしたズボンを履いていて、脚の細さがはっきりとわかった。

 再び顔のところに目線を戻すと、彼女は変わらず黙っていた。その顔立ちはすごく柔らかい印象で、こちらを見る大きな目には吸い込まれそうな気までする。


「あ、あの…………」


「そういう君は誰?」


 質問に質問で返された。


「俺は、田嶋」


「下の名前は?」


陽葵はるき


「ふーん。そう」


 自分から聞いておいて、あまり興味はなさそうだ。

 そんな彼女は俺の手を取り、柔らかな笑顔を向けてきた。


「私の声が、初めて届いたひと。私を見つけてくれて、ありがとう。また君に声が届いたら、その時は一緒に空に舞おうね」


「え、だから名前は……」


 俺の質問を遮るかのように、彼女は俺を抱きしめた。

 しかし、顔を赤らめる間もなく、俺の体はそのまま降下し始めた…………ん?


「うわあああああ」


 彼女と俺は真っ逆さまに落ちていく。すごいスピードだ。彼女の方はというと、声を上げて笑っていた。そして、セピア色の雲を抜けるか抜けないかというところで、彼女は真顔になって「聞いて」と言った。その声の妙な強制力に、俺の悲鳴は消えた。


「本当に、ありがとう」


 そう言い放つと,彼女は俺を下に突き飛ばした。俺は唖然としたまま落ちていった。彼女との距離がだんだん離れていく。


「またね!」


 彼女はそう言って、俺が一度瞬きをする間に消えた。


 そして次に瞬きをした途端に、俺は汗だくになって部屋の前―――いつもの場所に戻っていた。



 ***



 俺は膝から崩れ落ちた。頭の整理が追いつかない。強い疲労感と高揚感、そしてかすかな暖かさが心身に残っていた。

 部屋を見渡すと、もうただの黒だった。さっきのセピア色の景色は一体何だったのか。疲れすぎてそういう幻覚でも見たのだろうか。

 とりあえずカーテンを閉めようと立ち上がり、ふとデスクの上を見ると、見慣れない白い靴とネックレスが置いてあった。親からのプレゼントだろうか。とりあえず履いてみると、サイズはぴったりで、とても動きやすそうに思えた。ネックレスには一つ、綺麗なピンク色の小さな欠片がついていて、まるで何かの鱗のように見えた。


 俺はとりあえず何も考えずにそれらを棚の開いているところに置いて、びしょ濡れになった服を脱ぎながら風呂に向かった。



 *****



 翌朝、俺は昨日机の上に置かれていた靴を履いて家を出た。昨日、ご飯を食べたあたりから記憶が曖昧だ。確か汗びっしょりになって風呂に入って、両親の帰宅を待たずに寝てしまった、はずだ。それ以外に何もなかった……はずだ。多分。

 なにか晩ごはんに変なものでも入れてしまったんだろうか。でも、今朝両親から、


「昨日の晩ごはんありがと。美味しかったよ」


と言われたから、多分大丈夫なはず。その後、


「新しい靴ありがとう。履き心地いいから早速今日から履いていく」


と言ったら、二人とも顔を合わせて、首をかしげていたのが少し気にかかるけど。



 俺の朝は早い。両親が共働きというのもあって、朝は早く起こされていた。でも、今となっては親より早く起きて、本を読んでいる。家にいても仕方がないので、両親の出勤を待たずに家を出る。

 ほぼ毎日歩いている通学路の朝は、暗くて、静かで、夜のようで。落ち着いた雰囲気が好きだ。遠くに聞こえる電車の音が耳に心地よい。

 帰りは人の活気にやられて疲れてしまって、電車で帰ることが多いのだが、朝は好んで、電車で二駅分の距離を歩いて学校に向かう。すると学校につくタイミングは運動部の朝練組と重なる。


「おはよ」


 校門についたところで、向かいから来た大樹たいきが声をかけてきた。俺は、おはよ、と返した。彼は学校の中で一番話す友達だ。俺とは対照的で、感情表現が豊かでみんなから好かれている奴だ。

 

「なんか今日、調子いい感じ?」


「え、なんで?」


「だってさ、傍から見たら足取りが軽く見えたし、何だろ、いい意味でちょっと浮いてた」


「ああ、それは靴を変えたからじゃないかな。ほら」


 そう言って俺は彼に真っ白な靴を見せた。


「へえー。でも汚すなよ、その靴。真っ白すぎて一回汚れたらなかなか落ちないぞ」


「あー確かに。残念だけど、学校に履いてくるのは今日で終わりにするか」


「きっとそれが得策だな」


 じゃ、朝練行ってくる、と、サッカー部主将の大樹はグラウンドの方に走っていった。俺はそれを見送って、校内に入った。


「……」


 朝の学校の、ガランとした下足室のガランとした下駄箱に、真っ白な靴を置く。ところどころペンキが剥げている古臭さの中に、透き通るような靴の白が際立つ。

 どこかスピリチュアルな雰囲気を醸し出すその靴を見届けたかのように、俺はその場をあとにしようとした、が。


「あ」


 俺は思わず声を漏らした。

 そして、全てを思い出した。

 昨日の夕方の、あの景色を。空に舞ったあの時を。

 案外早く、彼女と再会したのだ。


「おはよう。朝早いんだね」


 そこには記憶に新しい女子がいた。うちの学校の白いブラウスに、ギンガムチェックのスカート、そしてグレーのリュックサックという出で立ちだ。


「あれ? 昨日のこと覚えてないんだ。もしかして、衝撃すぎて記憶飛んじゃった?」


「い、いや、思い出したけど……」


「まあいっか。ちょっとそこまで付き合ってくれない?」


 彼女は階段を登っていった。俺は慌ててついていった。


「あの、どういうことなのか教えてくれない? 俺は確かに似たような人と昨日会った、と思うけど」


「そうだよ。あれは私。正真正銘本物だよ。田嶋くん、何年?」


 名前も知られている……。


「二年生だけど」


「そっか。私も二年生。クラスが違うから、お互い知らないんだと思う」


 俺はこれまで一年と少し、この学校に通ってきたが、彼女を見たことはない。ただ、クラスメイトですらピンときていない人もいるのだから、納得できるのも事実だ。


「放課後あいてる?」


 彼女は唐突にきいてきた。


「え、あいてるけど……」


「じゃあ昇降口前で待ち合わせね」


「え? 一緒に帰るの?」


 俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。


「うん……じゃあ続きは放課後話そう。もうクラス着いちゃったし」


 気づくと、もう教室の並ぶ廊下にいた。上に「H2−2」と書かれた札が、窓からの隙間風に揺れている。


「わ、わかった。じゃあ放課後」


 彼女は手を振って教室の中に入ろうとした。その時、俺は彼女の名前を知らないことに気づいた。


「あ、あの。名前は」


「ん? そういえば言ってなかったね」


 彼女は、ライ、という言葉を残し、教室に入っていった。



 ***



「あ、やっと来た。女の子待たせたらダメだって、知らない?」


 俺が肩で息をしながら下足室にたどり着いたとき、すでにライはそこにいた。


「ご、ごめん。先生にノート運ぶよう言われちゃって」


「そう。じゃあ行こっか」


 彼女は地面においていたリュックを持ち、俺達は校門を出た。今日は職員会議のため部活がなく、下校する生徒を多く見かける。


「あの、ライって本当に名前なの? あだ名とか?」


「うん。下の名前がそれ。名字は内緒。女の子は秘密が武器なんだよ」


「だったら今から俺は武器を取り上げていくことになるのか。なんか罪悪感あるな」


「別にいいよ。何でも聞いてみ?」


 その後に彼女は、でも秘密にしないといけないこともたくさんあるんだけどね、と付け加えた。

 ここから駅までの道中で時間的に聞けそうなのは一つぐらいだ。俺は頭をフル回転させて、問うことを考える。龍の咆哮、セピア色の景色、空に舞っていたこと。そしておそらく靴も彼女となにか関係があるはずだ。

 そうこう考えていると、彼女がしびれを切らして、


「早くしないと駅に着いちゃうよ?」


と言って足を速めた。俺はそれに追いついて結局、


「わ、わかった。じゃあ一つ。この靴、どう思う?」


という、なんとも物事の核心に触れない質問をしてしまった。


「どうって、似合ってると思うよ? やっぱり私がプレゼントしたからかな?」


 やっぱりあんたか、と心の中で言った。


「ありがとう。でも汚れるから明日からこの靴は履いてこないけどね」


「え、その靴、汚れないけど?」


「でもこんなに真っ白なんだから汚れの一つや二つぐらい……もしかして、そういう力があるの? 非科学的な?」


「神秘的な、って言ってほしいけどね」


 彼女に聞かなければならないことが、また一つ増えてしまった。


「ねえ。こんどは私から質問していい?」


「え、何?」


「何色が好き?」


 は? と食い気味の返事が自然と出た。好きな食べ物とか俳優とかならわかるけど、色って。

 マイナーな質問の答えに悩んでいると、


「セピア色は好き?」


と、質問を変えてきた。

 セピア色。茶色や黄色に近い色。黄土色を、世界中に混ぜたような色。昔の出来事の再現映像には、モノクロかセピアのフィルターが使われがちだ。


「うーん。嫌いじゃないかな」


「嫌いじゃない、か」


 彼女は、どこか残念そうに告げて、じゃあね、と改札を通った。

 そして俺が、あの日の部屋の色がセピア色だったことに気づいたのは、家についてからであった。

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