第2話

 梅雨が明ける少し前、雨がまだちらちら降っていた頃だったと思う。その日はたしか日曜日で、僕は図書館に行った。もうそろそろ夏が始まるから、いい加減進路を決めろと担任に言われて、調べ物をしに行ったのだ。彼女も一緒だった。彼女も進路希望調査を真っ白で出したうちの1人だったのだ。

 閲覧室で何冊か流し読みしていたとき、

「何かいいのあった?」と彼女が顔を寄せて小声で聞いた。もちろん図書館だから当たり前の行動だったけれど、なぜか気持ちがすこし揺れた。

「さあ、よくわかんない。」と僕は彼女のぼんやりした質問に彼女のやる気のなさを見つけて、僕も乗り気じゃなかったからテキトーに答えた。

 彼女はふーん、と言ってそれきり何冊か積み上げた中から一冊を引っ張ってはパラパラとめくる、という作業を始めた。

 これでは埒が明かない、と、僕は眺めていた本を閉じて、さっき彼女がとったのとはほんのすこし遠い距離まで近づいて、

「飽きてない?もう帰る?」と声をかけた。すると、彼女は案の定飽きていたからだろう、きらきらした目で頷いた。


 帰るっていったって家にってわけじゃなかった。僕は家があまり好きではなかったのだ。好きではなかったといっても、別にはっきりとした問題があったわけではなかった。虐待とか、ネグレクトとか、そういった類のものではなくて、ただ居心地が良いとはいえなかっただけだった。今ではどうしてかはわからないし、当時もよくわかっていなかった。ただ思っていただけだった、帰りたくない、と。


 そんなわけで、僕たちが向かったのは、いつもの土手だった。高校と図書館のちょうど真ん中の距離のところに流れていた川。雨が降るとすこし水位が上がるから、小学生の頃は、よく、担任の先生から近づかないようにって言い聞かせられていた。そんな警告を無視する子供は少なくなかったけれど、犠牲者が出たという話は聞いたことがなかった。そんな場所で、僕たちは色んな話をした。あの学内祭の準備期間の時から、定番の場所だったのだ。その頃は梅雨だったから、雨が降れば高校からすこし歩いたところの駄菓子屋に行ったけれど。その日は珍しく曇りだった。


 雲の隙間からぼんやりと覗く青空が余計に青かった。階段に座った僕の隣にしゃがんだ彼女はいつもより小さく見えた。

「この前の日曜日、目覚めたら8時だったの。でも日曜だってこと忘れてて。ほんと焦って飛び起きたんだけど、日曜だったの。」なんていうどうでもいいことを彼女は話していた。他にも、虫と毛玉を間違えたとか、革カバンの持ち方とか、シャツの袖を何回折るかとか、とにかくどうでもいいことをべらべら喋っていた。彼女はたしかに話さない方ではなかったけれど、その日はなんだかいつもよりもたくさん話していた。

 ふと、彼女が黙った。どうしたんだろうと思って俯いた彼女を覗き込んだのと、彼女が顔をあげたのが同時だった。僕たちはあと2センチでお互いに届いてしまう距離になった。しばらく、なにがなんだかわからなくて、だいぶ動揺して、僕も彼女も無言で—。永遠に感じられたけれど、実際はきっと10秒もなかった。ぎこちない動きでお互い前を向いて。


 しばらくお互いなにも話さなかったけれど、彼女が口を開いた。

「将来、とか、なんだろうね。」とぼんやり言った。「10年先とか、想像できる?27歳、って。ぜんぜん、わかんない。明日のこともわからないのに。別に、死んでたって、いいよ。」

「そう、だね。だけど、」僕は言葉を慎重に選んだ。「死んでたっていい、なんて言わないでよ。僕は—。」と、そこまで言って、そこから先はなにも言えなかった。君と一緒に居たい、とか、そういうことを言えればよかったのかもしれないけれど、僕はそんな未来のことを決められなかったし、これからどうなるかなんて、僕にもわからなかったのだ。白紙の未来に、目の前の彼女に。もうすぐ始まる夏に、湿った風に。なにも約束できなかった。

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