火遊び

それは私が女子大生の頃の事。

 それは、私が良い子じゃなくなる日のお話……。


「貴女はどうしてここに? まだ若いし、見るからにお嬢様じゃないか」

「えにしです。ご縁の字でそう読みます。私は見るからなお嬢様だから……ここにいるんです」


 私の家は裕福でした。

 お金の稼ぎ方も地位の作り方も知っている両親は、私の進む方向を全て教えて下さいました。進路も交友関係も、習い事、それに婚約者まで全てをです。なに不自由はない生活でした。ただ、それは窮屈で両親のお人形の様な日々でした。生きている実感の無い日々が、私をこの道を外れたバスに誘ったのです。


「妻を看取った。もう未練はない」

「俺は彼女に浮気されて……振られた」

「借金で……もうどうしようもないんだ」


 沢山の絶望をのせたバスは深夜の山奥をゆっくりと走ります。

 バスに同乗した皆さんは、初めこそ自分たちがここに来た理由を口にしましたが、次第に口を閉ざして俯く様になりました。そして、車内から音が消えてしばらく、バスは潰れたキャンプ場の駐車場に到着しました。


「……はじめましょうか?」


「……」

「……」


 口火を切った男性の言葉に一同は顔を見合わせ、唾を飲みました。

 このバスの運転手で、今回の計画を立てた男性です。年齢は30代前半、男性にしては少し小柄に思えます。彼は、こんな計画を考えた理由は話してくれませんでしたが、何重にも重なった目のクマを見ればそれだけの理由があるのだろうと思わされます。


「……はい」


 私たちの中で一番年輩の男性がうなづきました。

 初老の頃だと思います。彼の両足は擬足で、あまり手入れがされていないのか重心を変えるたびにギィギィと摩擦音を響かせてました。


「そうですね……私たちはその為にここにいるのですから……」


 頬を腫らせた女性が同意を示しました。

 年上の同意が後押しになったのでしょうか。そして、彼女の同意により多数の意見になった事を機に、乗員たちは次々にそれを肯定していきました。


「よし、じゃあ……閉めるね」


 企画者は同意を確認すると、バスの入り口をガムテープで丁寧に塞ぎ始めました。


「ま……待ってください!! 私、私やっぱり降ります!!」


「……」

「……」


 19、20歳……同い年くらいの女性でした。その言葉に一同の眼が集まります。

 集まった目は彼女の幼さを残した顔に当たり、次に潤んだ瞳、最後に大きくなったお腹に辿りつきますが、誰からも言葉はなく、侮蔑の眼が彼女を囲むだけでした。そんな中、企画者が言葉を返しました。淡々と、恐ろしく事務的な返答でした。


「送ることはできないよ? ここは山奥、それに深夜だから気を付けて……あと、これは確認だけど分かってるよね?」


「は、はい……誰にも言いません……」


 それだけ確認をすると企画者は女の子をバスの外に案内しました。

 バスの入り口が開くとその先には足元も見えない様な闇が口を開き、冷たい風を吹かせます。私の目には、これから確実に終わるはずのこのバスの中の方が命にとって安全である様に錯覚するほど、外が険しく思えました。


 そうでなければ同世代同性の彼女の心変わりに、決心が緩んだでしょうか?

 いいえ、それは無いでしょう。ここで日常に戻っても私には命がないのです。昨日の夜、私はとうとう婚約者と顔を合わせたのです。目鼻立ちの整った大人びた男性を前に、私が感じた感想はただ、私の人生には一つの選択肢もないのだなという実感だけでした。


 羨ましい事です。

 彼女の様に侮蔑と争い、闇に飛び出してまで命を惜しむ理由が世の中にあるというのはどれほど楽しい人生でしょうか。ただ、そんなに強い気持ちなら私の分も生きて欲しいとも思いました。女の子が足元も見えない山中を小走りで走り去るのを見てから企画者が小さくため息をつきました。


「冷やかしは嫌だよね……前から思ってたんだよ。子供産むなって言われたからって自分も死ぬとか支離滅裂だし、超馬鹿女なんじゃないかなってさ。あ、他にも引き返す人、いる?」


「面倒だから言ってよ? 本当にいないね?」


「……」

「……」


 企画者は気怠そうな表情で全員の顔を見てから再びガムテープでドアの隙間を塞ぎます。


 静まり返った真夜中の小型バスは女の子を見送った後から降り始めた豪雨の音だけをやたらに響かせます。


 彼女は無事に山を降りられたでしょうか。

 体を冷やしていなければいいのだけれど、生憎道中に帰路を気にしていなかったせいでここがどこなのかは分かりません。ただ、きっと人里は遠い事でしょう。


 それにしても、このバスの中は暖かいです。

 多分、この七輪の下で燃える練炭のお陰。


「煙、もう出ないね。じゃあ、飲んで……最後に眠くなった人、窓閉めて……あ、ガムテープはここ。隙間なく貼ってね」


 企画者から渡されたのは紙コップ一杯の水と、小さくて冷たい錠剤です。


 私はそれを注意深く眺めました。

 本来は安らかに眠るための粒であるそれをこんな事に使う事に申し訳なく思い、その粒に頭を下げました。そうしている間に乗員たちがそれを口に含みました。対照的な例えではあるけれど、まるで砂漠で水を得た様に勢いよく飲み、喉を鳴らしました。


 どうやらここに残る人たちはもう、覚悟ができている様です、

 ただ、その慌てぶりには最後に窓を閉める役、直接的なその行為だけは嫌煙しての事なのかもしれないと思いました。なぜなら、一番遅れてそれを口に含みながら私がそう思っているからです。


「……」

「……」


 車内には、相変わらず言葉はありません。

 ここにいる人たちは同じ目的を持ちながら全くの他人です。


 最期にあえて話したい言葉はなく、薄暗い車内に見たい景色があるはずもないのです。


 携帯電話は電源を切っているし、そもそもが圏外だろうと疑わない程度にはここは山の奥地でしょう。


「……スー……」

「……ズズズ」


 しばらくして寝息が聞こえました。

 薬がようやく効いてきた様です。


 擬足が痛むのか、それを抱えて眠る男性。となりの女性は腫れた頬を抑えています。眠りながら涙を流すのはすでに癖になっているのかもしれません。


 辛い事情を抱えた人がいます。

 行きの車内、ただ虚しいからと語った青年もいました。いろいろな人が様々に考え、悩み、それでも結局は同じ結論に行き着いたのです。


「私の理由は……皆さんより軽いでしょうか?」

「……」


 分かっています。

 これは、優劣のある問題ではありません。ただ、それがどうしても気にかかってしまうのは私の育った環境が人の優劣や順位に厳しいものであったからでしょう。一般教養はもとより文武両道、お家芸である弓道にはひときわ厳しくありました。指導は普段の姿勢にまで及びましたが、私にとってはそれが生まれ持っての普通でした。


 終日延々と続く習い事が普通でした。

 常に付き人が付く生活が普通、大学生まで通信機器を所持していない事が普通、口に入るものは一月先まで全て決まっている普通、衣服を付き人が決める普通、友人は家族の許可の元で選定するのが普通、学友の語るテレビを見たことが無い事が普通、通学の車窓に見える多くの店に入った事がないのが普通で、婚約者が決まっていることも、私が生まれる前に決まっていた普通でした。


 普通だと思っていました。

 まして疑う為の情報を絶たれていたそれらになぜ気付けたのかは、分かりません。


 大人になる過程での様々な変化を学ばなくても徐々に理解する様なものでしょうか。

 私の他の人とは違う普通の数々に気づく時は自然とやってきたました。


 そうして付き人の目を盗み知った世界はあまりにも刺激的で、魅惑的でした。


 特に衝撃的だったのは恋愛観です。

 昔読み聞かせられた王子様が迎えに来る絵本には幼いながら感じていた違和感がありました。許嫁でもない王子と結ばれるという、私の普通にはない疑問の正体を知ったのは全寮制の高校に通っている二年目でのことで、無いものねだりは本物の普通を知るほどに加速しました。やがて欲求に耐えられなくなっても、それを誰かに打ち明ける事はとうとうできませんでした。


 当たり前です。

 私には本当の友人はいないのです。友人に限ったことではありません。私には本当が一つもありません。そういう風に育てられ、造られたのです。

 誰にも打ち明けることなく、でも苦しくて……ただ過ごす時間さえ胸が痛くて、逃避の末に見つけたのが穏やかに全てを終わらせるバスの存在でした。


 そうこう思いを巡らし、ふと周りを見れば車内で眠りについていないのは私だけでした。


「あぁ……窓を閉めないと」


 いつも通りです。言われた事をただ行うだけ。

 窓を閉めて丁寧にガムテープで隙間を塞ぐ。ただ、これが最期です。


 もう、これで誰も私に強制しません。

 席に行儀よく腰かけ目を閉じます。


「……最期くらい、良い思い出を振り返りたいな……」


 でも、何も思い浮かびません。

 思い返すほどに何もない人生、自分のいない人生でした。


「私……いつ生きていたんだろう?」


 自然とそんな言葉が漏れました。

 いつの間にか目が潤んでいました。


「私、なにしてるんだろう……」


 途端に眠気が引きました。

 若干の息苦しさを感じるのは練炭の効果。終わりは既に始まっています。


 酷い風邪をひいた時の様に気分が悪くなり、甲高い音が聞こえます。

 強い痛みを覚えて頭を抑えたけれど、痛みは治まらず相殺する痛みを求めて頭を強く押さえました。ただ、それでも内側から湧く痛みが勝ります。


「苦しい……嫌……こんなの……」


 おぼつかない足で立ち上がり窓に手を添えます。

 外気との温度差で曇ったガラス窓を拭きました。


 今も、目的は変わらない。ただ夢は見ます。

 もしも、もしも私の問題の全てを解決してくれる様な王子様が現れるなら、それを望みたい。だけど、誰も来ないからこの企画はこの場所に決まったのです。つまり、そんな事はありえないのです。


「……ばか。ありえないでしょう……」


 とうとう最期でしょうか。

 身体が立ち方を忘れた様に、背中が地面に引き寄せられていきます。気づくと周囲の音は聞こえなくなっていました。いつからでしょうか、視界も狭まっています。残されていたのは小さな蝋燭の明かりの様に円形にぼやけた視野で、きっとそれもこのまま小さく狭くなりやがて消えてしまうのでしょう。


 私の人生なんてこの程度なのでしょう。

 このまま何も起きずに終わるのです。今までどこにいても現れなかった王子様が、こんな山奥に現れるなんて、それこそ都合の良すぎる御伽話。


「私に救いなんて……起きるはずないですよね」

「いいや、貴女は私が必ず助けます」


「……え!?」


 声が聞こえた瞬間、世界が明るくなりました。

 風……冷たい外気です。煙を晴らす風が吹き抜けています。でも、暖かい。いえ、温かい。なぜなら、私は毛布に巻かれて……声の主に抱き抱えられていたからです。


「あ……貴方は?」

「今は、ゆっくり休んでください」

「……はい」


 掠れていく記憶に残っているのは彼の柔和な笑みと赤い髪、そして私の隣で泣き噦っているお腹の大きな彼女だけでした。


「そう、貴女も助かったのね……良かった……」


 それが、私が意識を失う前の最期の言葉でした。


魔王の従者外伝  『火遊び』  終幕

次号 火遊び別視点 『衝動』  開幕


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