エスケープ⑤
翌日、目を覚ますと何かを刻む包丁の音が聞こえた。
どうやら久しぶりに弟が帰っていたらしい。規則正しい包丁の音と味噌汁の匂い。いつもと変わらない朝に、変わってしまったのは私だけが取り残されている様な嫌な気持ちになる。そうは言っても、昨夜は普通に熟睡できたのだけど。
「おはよう。朝ごはんもうすぐできるよ」
「ん……ありがとう」
背中を向けながら私に声をかける。
この部屋の広さと、私の耳に馴染む大きさの声とキーの高さ。本当にいつも通りだ。
「あのさ、姉さん僕に隠し事してないよね?」
「え……?」
心臓が跳ねた。
いつも通りは、私が思うよりずっと簡単に崩れた。でも、なぜ私が魔物になったと気付かれたのだろう。いつもの朝、服は着ていたし、何も不自然はなかったはずだ。
「二者面談、したんだって? あのエロ教師と……」
「え……あ、なんだ。そのこと?」
驚き損だった。
私にしては、意識しすぎていたのかもしれない。いくら血を分けた弟でもそんなに早く気付いたら怖いわ。
「そんなこと?」
「ん? うん?」
前言撤回。優助が怖い。
俯いたままで表情は見えないけど、声はいつもよりゆっくりになるのは優助が怒っている時の癖だ。でも、まだ私には何に怒っているかわからない。ただ、慌てて耳を押さえた。だって、優助のこのゆっくりな声は導火線と同じだ。やがて本命の火薬にたどり着いて、爆発する。
「どこがそんな事かな!!?」
「ちょっと優助!? 落ち着いて!!」
「これが落ち着けるかよ。金のことで脅されて風俗の斡旋? 馬鹿にしてるよ……」
「大丈夫よ? しっかり断ったよ?」
普段怒らない人間ほど怒ると怖い。
優助がその典型だ。普段は滅多に怒らないし、なまじ賢いせいで会話が合わなくても卒なく相手に合わせる癖がある。その分、一度怒ると手がつけられないし、何をしでかすかわからない。
「足りないよ……」
「え? 優助? 江口先生生きているよね?」
「……姉さん、僕をなんだと思ってるの?」
「ごめんなさい」
流石に、それはなかった。
弟の冷たい目を見て反省する。
「そんな直接的な報復なんかしないよ」
「そ……そうよね」
えっと、間接的にはするのだろうか。
「流石にこれだけの準備をしようと思うと数日の徹夜は避けられなかったよ」
ああ、過去形でした。
「優助、あんた何をしたの?」
「……見てもらった方が早いよ」
「!!? あんた、これ……」
優助の逆さまにした鞄から落ちてきたドサリと音を立てる紙の束。
「百万円……口座にまだ百万円あるよ。今回の新薬研究のアルバイト代だよ」
「……え?」
「お金がないって馬鹿にされるなら、心配いらないよ。稼ごうと思えばこれくらい、難しいことじゃないから」
「……」
「姉さん……」
驚いた。呆気にとられた。何より、信じられなかった。
私は、優助の学費を稼ぐ為に頑張っているつもりだった。でも、弟はとっくに自立できる力を持っていた。それも、私が何ヶ月もかけて手に入れる大金を数日で稼げるほどにだ。それでは、私はなんの為に働いていたのだろう。
「姉さん……それ、やめてくれる?」
「あ……うん、ついね」
お札の束と同じ高さになる様に顔を畳に擦り付けている事を優助に咎められる。
だって、一度はしてみたいじゃない。札束を見上げる体験。
「とにかく、お金なら困らないから。僕は姉さんにいきいきと働いて欲しいからお金のことは口にしなかったけどさ。それで姉さんが馬鹿なことを考えるくらいなら僕が稼ぐから」
「優助……」
優助は、私が思うよりずっと凄かった。
それは凄く悔しい。姉として、親代わりをしていた私の尊厳みたいなものがくだけ散る様な虚しい気持ちで悔しい。悔しいけれども、少し安心した。私は、いつ魔物として生きることになるか分からないからだ。だから、私は戯ける事にした。
「優助……今晩、松坂牛のステーキでもいい?」
「姉さん!!」
「……すいませんでした」
夕食はいつものバラ肉。
白菜と挟んで煮るミルフィーユ鍋は安いお肉も美味しくなる最強の調理方法で、私唯一の得意料理だ。因みにゴマだれとポン酢ダレを混ぜると美味しいことを私が発見したのは市販品が出るより5年以上早い。
暖かい物を食べると気持ちが少し落ち着いた。
強がってはみたけど、魔物化してしまったことより、弟に必要とされないことの方が私にとっては効いていた。
「洗い物は僕がするから姉さん先にお風呂入りなよ」
「いいわよ。今日私の当番でしょ?」
「そうはいうけどさ、姉さんお酒飲んでたし後になるとそのまま寝ちゃうでしょ?」
「う……」
それを否定するには、過去を変える必要がある。
でも、譲れない理由もある。私がお風呂に先に入れば多分、魔物になって生えた体毛が抜け落ちて優助に魔物化がバレてしまう。
「優助最近徹夜だったんでしょ? いいから先に入って寝ちゃいなさい。私は明日も休みだから」
「ん、そう? そういえば珍しいね。姉さんが連休なんて」
「……まぁね。そういうこともあるわよ」
「……そうなんだ?」
こうして私は秘密を貫いた。
いや、少し不自然だったかもしれないからダメ押しをしておこう。
「優助!! 背中洗おうか?」
「わー!? わ!! 姉さん!!? ここ風呂場だよ」
「当たり前じゃない。我が家の風呂場を間違えるわけないでしょ?」
「なんで僕がいるのに来るの!!?」
「え? だから背中洗おうかと……前はよくやったでしょ? 洗いっこ」
「低学年の頃の話だよ!!? いいから出てってくれよ!!」
「えー???」
と、ここまでで作戦成功。
なぜか優助は最近、私とお風呂に入るのを異様に嫌がるからこうなると思ったのだ。あれだけ慌てさせれば考える余裕もなくなるだろう。
さて、こうして1日を卒なく終えて思った。
魔物化を隠すのは意外に大変だ。特に優助にバレない様にするのは大変そうだった。いっそ、優助にだけは話してしまってもいいかもしれないけど、それで優助はなんと言うだろう。
「……」
分からない。
こればかりは弟の事でもまったく分からない。いや、私はよく知っているつもりだったけど弟のことを本当は全然知らないのかもしれない。例えば優助は賢いとは思っていたけど、それで何をどうできるかなんて知らなかった。勉強の苦手な私では聞いてもどうせ分からないからと勝手に線を引いていたからだ。
まして、魔物は世間体でいえば最悪だ。
人権はないのはもちろん、動物愛護団体の対象でもない意味ではそれ以下。無いとは思うけど、優助も私が魔物になったと聞いたら態度が変わってしまうかもしれない。
直接聞いてみる。
というのは危ないのだろうか。でも、このまま隠せる自信はちょっと無いし、優助は1人でもなんとかなるとして、頼られている職場の仲間を放っておく訳にもいかない。ああ、そういえば3日も休むのは初めてだけど、みんなは生きているだろうか。急に心配になってきた。そして、そんなあれこれを思案している間に2日目も夜になった。
「え? 今日も僕が先に入るの?」
「いいからいいから。ほら、はやくしないと背中洗いに行くわよ?」
「わ、分かったよ! 行けばいいんだろ!! 行けば!!」
2日目にして2度目の奥の手で難関をクリア。
しかし、このパターンもそろそろ限界だろうか。
その夜のことだった。
暖かい布団、時計の針の音だけが響く時間に人の気配を感じた。優助かと思ったが、その動きはどこかおかしい。
「……」
人影は私の布団の足元でしゃがみ込む。
「!?」
冷たい風が布団の中に入り込んだ。
優助じゃない。確信、でも身体はすぐにいうことを聞かない。得体のしれない相手への怖さ、横になっているという不利な態勢がそれを増長する。情けないけど、声も出ない。この影に私が起きていると気づかれたら何をされるか分からないと思うと恐ろしかった。いっそ眠ったふりをして時間を稼いだ方がいいかもしれないと思ったのが最後、時間が経つほどに身体は強張り、声はますます出なくなった。
「……ふ」
多分、手だ。
足元の布団をまくった手が私の腰から肩にかけてをまさぐる。それはいやらしいというより何かを探る様な手つきだったけど、気味が悪い手に撫でられても体を動かすことも許されず、声も我慢しなくてはいけないというのはとても苦しい。
「……っっ……」
どうにか声を抑え、身体の動きを我慢する。
パジャマが小刻みに揺れる理由が初めはわからなかった。ただ、しまったと思った時にはもう、手は私の肩を抑え、起き上がることもできなくなっていて、さっきの揺れはもう一つの手が私のパジャマのボタンを下からゆっくりと外しているからと分かった。このままじゃあダメだ。
「優……優助!!」
「……」
なんとか、声を振り絞る。
「……え?」
「呼んでも無駄だよ。僕はここにいるから」
「なん……で?」
優助の声が私の上から聞こえた。
暗かったあたりが見え始める。優助は、私の上にいた。私の胴体を両膝で挟む様にして、右手は相変わらず私の肩を押さえつけ、左手はボタンをはがし終えたパジャマを大きくはだけさせる様に引っ張っている。
「変だと思ったんだよ。これが、原因?」
「……」
優助は私の胸に生えた体毛を見てそう言った。
それが、その夜の夢だった。
「最悪の夢だわ……」
これは、いけない。
昨日魔物化のカミングアウトのことばかり考えたせいかもしれないけど、こんな不穏な夢が続いたらいくら私でもまいってしまうかもしれない。いつもならとっくに起きている朝を通り過ぎて昼過ぎまで眠ったのにかえって疲れを感じる。猶予はないけど、一度考えるのをやめた方がいいかもしれない。そう思った時だった。
「!? 稲葉??」
スマホの着信音だ。
途端に目が覚める。仕事モードとでもいうのだろうか。懐かしい、久しぶりの感覚だ。用件はなんだろう。私が2日も休むのは珍しいから、もしかして職場がとんでもなくピンチなのかもしれない。そう思って電話に出る。
「優子!? 元気?」
「え? うん。それより急に電話くれるなんてどうしたの?」
「優子が連休なんて珍しいから、心配してたのよ!! やっと休憩時間になったから……」
予想外に元気な稲葉の声。
彼女は疲れがすぐ声に出る。どうやら職場の修羅場化は私の懸念だったらしい。むしろ、稲葉が心配性で仲間想いだということを私が忘れていた。
「あぁ、そっか……急にごめんね。仕事大丈夫だった?」
「それがね、優子の連休でよっぽど焦ったのかな。会社が優子並みに優秀なすごい派遣社員の子を入れてくれたのよ」
「え?」
それは、聞きたくなかった。
「この会社もやればできるのね。前まで私か優子が休んだら潰れるんじゃないかって思ってたけど……」
「そっか……」
「まだ体調良くない? 無理しないでね。こっちは大丈夫だから」
「うん……ありがとう……」
電話越しの稲葉に悟られるくらい、私の声は沈んでいたのだろうか。
稲葉は言った。これまで何度も人員不足でピンチになったけど、私や稲葉がいて今までなんとかなった。なんとかなっていたから、会社は変わらなかったのかもしれない。
「……じゃあ、私は会社にも必要じゃなかったの?」
知りたくなかった。
考えたくもなかったこと。でも、知ってしまった。私は弟にも会社にも本当に必要な人間ではなかったのだ。
「……私、格好悪いなあ」
そのスマホを布団に落とした時、私は全てを失っていた。
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