エスケープ④
「おいおい、逃げ切れると思ってるのか?」
「はっ、はっ、はっ……」
息が乱れる。
逃げきれない事は分かっていた。未だに捕まっていないのは、この男が遊んでいるだけだ。
「どうして、こんな事に……」
何がいけなかったのか。
近道に人気のない道を選んだ事かな。それとも、タクシー代を節約したこと。ああ、思い当たる原因はいっぱいだけど、今は後悔している場合じゃない。この不審者から逃げる事を考えなければいけないのだけど……。
「随分頑張るけど、男に体力じゃ勝てないぞ?」
「……」
運動神経には自信があるけど、それだって限界がある。
しかも、相手はあの魔物だった。異常に太くて長い腕にごつごつとした剛毛。軽自動車がどうにか通れるこの裏路地でこの男が手を伸ばされると、道がすっぽりと覆われてしまう。家への道は塞がれ、大声を出そうにもこの辺りは人が少ないのだ。
「そろそろ鬼ごっこだけじゃあ飽きてきたぜ」
「あっ!! 〜〜!!」
男が素早く振るった手が私の上着のボタンを吹き飛ばした。
こんな状況だけぢ、服の隙間から見える光景に口元を緩める姿には腹が立つ。
「逃げ切ったら、絶対通報してやるからね」
「好きにしろよ。どうせ俺にはもう人権なんてないんだ。好きなだけうさを晴らしたら後はゲームオーバーだ」
「……」
男は、笑いながら泣いていた。
同情している場合じゃないんだけど、それでもどんな言葉を返して良いかわからず迷ってしまった。
「俺は魔物になる前もモテる方じゃなかったからな……お前ら美人組にこういう楽しみができるなら悪いことばかりじゃない……さ!!」
「やっ……やめて!!」
泣きながら、その手は私の服を破こうとする。
逃げようとするけれど、走っても追いつかれるし、男の腕は素早くて避ける間もなく私の服を引きちぎる。
上着ははだけ、夜風がお腹を冷やす。
こんな飾り気のないブラでも見ればこの男はニヤけるらしく、それは腹立たしいけれどそれを手で隠していては余計に動きが取れなくなる。あの手は力も強いらしく、固い生地のミニスカートにもダメージ加工にしてはやりすぎなくらいの穴が開けられている。
「安心しろよ。殺しはしないさ」
「殺しは……ね」
私の頬に冷たい汗が流れた。
殺されはしないけど、なにをされるのかも分かった。喉がカラカラに乾くほど緊張した。あの太くて長い腕に絡まれて無理やりに組み敷かれる自分の姿は想像するだけで体が芯から凍りそうになる。
「いや……」
「拒んでくれるのは嬉しいぜ。その方が楽しい……」
男がイヤらしく嘲笑う。
いや。嫌だ。嫌だ。こんな経験はしたくない。私はまだ、ちゃんとした恋をしたことがない。いつかは私だって恋がしたい。でも、私の青春はバイトばかりだった。それで、言い寄ってくるのはこんな不審者とセクハラ教師……冗談じゃない。
「絶対いや!!」
「なに!?」
叫んだのは恐かったというより、怒りからだった。
こんな人生で、こんな男にまで弄ばれてなるものかと思ったら、無理やりにでもここを逃げ出そうと気持ちが固まった。だから、無理だと思っていて男の脇、その隙間を目指して全力で駆けた。
「え?」
「なんだよ……その動き!?」
驚くほど早い初速。
思わずバランスを崩して目の前に家の壁が迫る。それを慌てて両足で蹴り、大きくジャンプした先は念願の男の背後だった。私はそのまま振り返らずに走り抜けた。
「は……は……は……どう? これが優子さんの実力よ!!」
完全に逃げ切ったのを確認して私は勝ち誇る。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。予想以上に私は機敏に動けた。
「私はまだまだ若い!!」
と言いたいけど、かなり身体がだるい。
明日は筋肉痛かもしれない。多分そうだ。私はまだ若いから筋肉痛が遅れてきたりはしないはずだ。とにかく家に帰ろう。
……
家に帰り、鍵を閉める。暗い部屋が少し心細い。
「ただいまー。優助? いないの?」
家には優助がいない。
机を見ると友達の家に泊まると置き手紙があった。それは、私にとってもラッキーだ。優助が破れた服を見たらなにを言い出すかわからないし、お風呂にも入らずこのまま寝たら絶対に小言を言われる。でも、流石の優子さんも今日はお疲れで、今からお風呂を沸かす元気はなさそうだ。
「今日のところは……お布団まで来ただけでよしとしてくれても良いんじゃないかな?」
誰にことわっているのか。
私はそんなことを口にしながら枕に顔を埋めて数秒で意識を失った。
真っ暗な時間が過ぎた。
夢らしき夢を見た覚えもなくて、ただ長く眠れた様な気がしたけど、まだまだ寝足りない感じもした。ただ、身体はまだだるくて、筋肉痛はない。今は何時か分からないけど、なんとなく違和感を覚える。
「あ、携帯充電切れてる」
そうだ。
昨日はあのまま寝てしまったのだ。私は急いでスマホを充電器に挿して目覚まし時計を見る。
「え? ……嘘!?」
時計は既に昼下がりを指していて、復活したスマホが早速鳴り始めた。
宛名は同僚の稲葉だ。
「あ、なんだろ。すご〜くいや〜な予感がするよ……」
「もしもし……」
「もしもし優子!? あなた無事なの!?」
「え?」
でも、電話の一声は私が予想していたモノとは違った。
てっきり遅刻した職場の怒りの救難信号だと思っていた電話は安否確認で、と、いうのも昨日の不審者が私の家の近くで捕まえられた事がニュースになり、同時に私が音信不通。心配性の稲葉が電話をかけてくれたということらしい。
「心配しすぎよ」
「そりゃ心配するわよ!! 優子、今まで遅刻したことないじゃない」
「安心して!! ちゃんと逃げ切ったから貞操は無事!!」
「そう……って……え? 襲われてるじゃない!!!??」
「あー、うん、まあそうなんだけど」
しまった。口が滑った。
でも良い機会かもしれない。
「それより稲葉、魔物に襲われた場合って労災おりるの?」
「あなた……心配するところが違うんじゃない?」
稲葉には呆れられたが、よく考えて欲しい。お金のことは大事なことだ。
「いいから、店長に聞いて。ほらほら!!」
「あーうん」
明らかにやる気の失せた声で稲葉が言った。
そして、保留の音楽が6周。長い。そういえば魔物事件は最近の事で法整備も微妙だとか言っていた。店長もよく分からないのかもしれないけど、そういう場合はお客様を待たせない様に折り返すのがデキル事務員のマナーである。けどまあ、相手が私だしいいか。
「お待たせ。魔物が人外扱いだから犬に噛まれたのと同じで外傷に応じた保険しか降りないって……」
「えー。残念」
「でも元気そうで良かった。その調子なら明日はもう来れそう?」
「ええ、明日と言わず今から支度するわ……あれ!?」
「どうしたの?」
「……はは、痛いところは無いんだけど、身体に力が入らないのよ……」
「ええ!? 大変じゃない!! 直ぐに病院、救急車」
「わわ、いいから!! 自分で病院まで行くわよ。今日は有給で休むけど、明日は行くから心配しないでね」
電話を切り、大きなため息。
稲葉の心配性には困ったものだ。病院くらい自分で行ける。でも、身体はまだだるいし、もう少し休んでからでもいいかな。そうして目を閉じるとまた暗い時間が始まった。次の目覚めは夕方、また携帯がなっている。今度は優助だ。
「もしもし、ごめん。今日も友達の家に泊まるから」
「そう、わかった」
「俺がいないからって散らかさないで、ちゃんとご飯食べてよ。姉さんは放っておくとすぐビールとカップラーメンですますから……」
「あーもう!! 分かったから。切るよ」
まったく、優助はまだまだだ。
ビールとラーメンなんて言われたら、逆に飲みたくなってしまうのが人情でしょう。
「よく寝たからかな? 身体も軽いし、たまにはいいよね? 昨日は飲んでないし、今日は2本開けちゃおっかな」
発泡酒の残数は優助がチェックしているけど、買い足せば誤魔化せる。
カップラーメンを食べるとこの前は冷蔵庫の野菜が減らなくて発覚したから、今日はポット君が頑張ってる間にほうれん草を切る。沸騰したお湯を入れて3分で発泡酒を一本飲みきる。
「あ……最高かも」
3日と約20時間ぶりの発泡酒。
窓から見える夕陽とアゴだしの効いたラーメンの香り。
たまにわ、こんにゃ日があっても良いよね。
「はれ? おかしいにゃ」
まだお酒は一本しか飲んでないのに、ロレチュがまわらない。
もう沢山寝たけど、このままうたた寝したらきっときもちいい。でもそりはラメ。夜勤からかじょえて3日もお風呂に入っていにゃいのだ。お風呂はもう湧くこりょだ。
「それに、にゃにより乙女は3日以上お風呂に入らないのはダメにゃのだ」
ワタシはそう言ってフラフラとだちゅいじょに向かいにゃがら服を脱いだ。
しょして、だちゅいじょにょ鏡を見て、酔いが覚めた。
「え? なによ……これ?」
胸を揉む。柔らかい毛皮の触り心地。
鏡には、私の胸を覆うようにピンクの毛が生えた私の姿が映る。
「そんな……事って……」
そういえば、魔物化は感染するという噂を見た気がする。
いや、よく考えるとその前からだ。最近私は自分でも驚く程身体が軽いことがあった。仮眠後の仕事中、それに魔物から逃げる時の動きは自分でも驚いたほどだ。
「……」
困った分、私は冷静だった。
まずは、自分がどう魔物化したのかを調べた。まず外見は兎っぽい体毛で胸、腰回りが覆われていた。
「んー、純毛のブラとパンツ?」
見た目はそんな感じで、服を着れば隠せそうだ。
問題は、体重だった。
「はは……もうカロリーとか気にしなくていいわね」
女にしては身長が高めの私だけど、今の体重はたったの12キロになっていた。
どうやら、動物の特徴が人間大になって現れる魔物化の特徴で、体重が人間大のウサギになったらしい。そして軽くなっても力は変わらないので総合的にはとても早く動けるし、文字通り飛ぶ様に動ける。
「新体操か、パルクールの選手になれそうね」
ただ、注意が必要。
軽いということは、多分何かにぶつかられたら私の身体は12キロのものらしく吹き飛んでしまうはずだ。その時だけは、私の魔物化が見つかる危険性がある。あと、重さが減った事で押す力などはかなり弱くなってしまった様だ。
「まだ、ダメよ……」
今は、毛利優子を辞めるわけにはいかない。
弟は進路の大事な時期だし、職場も忙しい。こんな時に、私がいなくなるわけにはいかないのだ。この事を秘密にするため、私は翌日から3日、会社に有給を申請して色々とためしたけど、その他の変化は見つからなかった。
ただ、この3日が私の人生を加速させる事になってしまったのだ。
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