エスケープ③

「……ん、あぁ」


 あちこち欠けた目覚まし時計が鳴り出すジャスト1分前に起床。

 パジャマ……は着ていない。あぁそうだ。あの後ビールを飲んでそのまま寝たんだった。ショートパンツを脱いで会社の制服に着替える。フリルのあしらわれたカッターシャツと生地の固いミニスカート、ちょっと可愛いスーツの様な見た目はいかにも私の趣味ではないのだけどこれでなかなか着心地は良い。


「ん……げっ!?」


 部屋の隅に追いやられた机、2人だけの食卓でも手狭なお気軽サイズ。

 机の上には優助が用意したと思われる朝食が並んでいる。


 ベーコンエッグとサラダの皿はラップで密封され、私がそれを見るタイミングを見計った様にトースターのパンが跳ね、焼きたてのパンの香りを踊らせた。私に似ずよく出来た弟だと思うが、この几帳面さは逆に不安になる事も多い。トースターの横にある置き手紙がその際たるものだ。


『姉さん。目覚ましをかけてから寝ないと遅刻するよ!?』

「ふふん、その前にちゃんと起きたわよ」


 などと手紙に思わず返事をする。

 って、そういえば目覚まし時計をかけた覚えがない。これも優助の仕業だったのか。


『出勤までまだ時間あるんだからちゃんと朝食を食べてね。食べる前に歯磨きをするのも忘れないで……』

「……オカンかよ」


 なんだかそんなお小言が続いているので少し読み飛ばすと……全文が終わっていた。

 なんと以下8行全部お小言だったらしい。


「これは当分彼女も出来ないわね……」


 思わずため息。

 優助を見ていると死別したお母さんを思い出す。お小言が多くて心配性で、そういうところはお母さんにそっくりで、私はそれに似ていないからきっとお父さんに似ているのだろうけど、残念ながらお父さんのことは顔も分からない。


 それにしてもこれは私も安く見られたものだ。

 確かに家では少ーしだらしないけれど……


「これでも私、会社ではかなり頼られてるのよ?」


 それも、手紙を相手に言っても仕方がない事なのだけれど。


……


 定期券で電車を乗り継ぎビル街へ。

 大型ショッピングモールの2階、エスカレーター前の旅行代理店が私の職場だ。と、言っても私の仕事は事務仕事、パソコン業務だ。初めは顔が良いからと店長に接客を任されたのだけど、なぜかすぐに今の部署に変わることになった。


「待ってたよ戦友!!」

「稲葉!? どうしたの……目の下、凄いクマじゃない!!?」

「貴女が半日も休むから……うう」

「え? 嘘? これ私のせい!?」


 事務室に入るとそこには徹夜明けなのだろう稲葉茜(イナバアカネ)が白くなっていた。

 まさか来社そうそうこれを見るとは思わなかった。これは、ウチの会社の名物『稲葉の白兎』だ。稲葉茜は優秀な社員だけど、虚弱体質だ。すぐに体力がなくなって目は充血して赤く、身体は燃え尽きて白くなる。名前も相待ってこれを『稲葉の白兎』または、これが激務の初めのチャートになることから『白い警鐘』と呼ばれている。


「つまり、今日は残業……稼ぎ時って事か」

「先輩、ポジティブ過ぎません?」


 稲葉を仮眠室に案内した後輩君が私を見て苦笑する。

 でも、これはいつものことだ。この仕事は給料が良いけど万年人手不足。激務なのは当たり前で、今に始まった事ではないのだ。


「さぁ、企画書ちょうだい。宿泊先の候補、その他アポイント情報と当日の天候、バスの手配書と……雨天案もね」


 私の仕事は主に資料の集積だ。

 接客担当がお客さんのニーズを聞いて、企画担当が関係施設に相談、会計士などが介入してお客さんが満足して関係施設も旅行代理店もお金になる金額に計画するのだけど、私や稲葉がそれら別々に行われる資料を一つにまとめるのだ。それもお客様が見て分かりやすくて魅力的に感じるパンフレットに仕立てるという必要がある。


 この会社の社風に鍛えに鍛えられた企業戦士達が持ってくる大量の資料をまとめてコラージュするのは楽な仕事ではないけど、まぁ長年やっていればなんとかなるものだ。


「うぇ、優子さんの手が速すぎて逆に止まって見える!!?」

「新人くんは見るの初めてか? あれがウチのエースの実力さ……!! 彼女の行う仕事量は1日換算で私の10倍以上だ!!」

「先輩……それ言ってて虚しくないですか?」

「馬鹿!! あいつが異常過ぎるんだよ」


「おぉ!? あっちも手が止まって見える……って気絶した稲葉じゃないか!? 誰か仮眠室に戻してやれ」


 と、そんな感じで終電の時間。

 やる事はまだあるけど、仮眠室に先客もいるし今日は帰ろうと思う。


「みんなお疲れ様!」

「お……疲れ様です。先輩……元気ですね」

「まぁいつもの事だからねっ」

「マジですか……」

「新人くんも頑張ればこれくらいすぐできるよ」

「そうですかね……サンタクロースくらい信じられないんですが……」

「まぁ、なるようになるわよ」


 そうは言ったけど、新人くんの顔は沈んだままだった。


「なるようになった……か」


 翌日、新人くんは退社願いを提出した。

 新人くんへの洗礼には少し刺激が強かったのだろうけど、これは仕方ないのだ。彼に合わせてのんびりしていては間に合わない仕事がある。厳しい言い方だけど、出来る出来ないはともかく、頑張れない人にはここは厳しい職場だ。


「新人くん、やっぱり続かなかったね」

「まぁいつものことですよ」

「優子は呑気ねぇ」


 仮眠室、小さな机にカップラーメンが2つ。

 1つは1.5倍サイズで誰のお昼かはヒミツ。稲葉と私はいつもの様に昼食をとりながら今日初めての私語を始める。悲しいかな、入れ替わりの激しいこの職場での流行語上位にはいつも『なんとかさんの退職』の話題がある。


「あの子ね、倒れた私に濡れタオル置いていってくれたのよ」

「いい子ね……次は新人くんに向いている仕事につけるといいね」


 人には向き不向きがある。

 仕事はたくさん種類があるから新人くんにも向いている仕事はきっとあるはずだ。でも、私は忙しくてもお給金の良いこの仕事がいい。もっと言えばもう少しお給金が欲しい。具体的には優助の担任に馬鹿にされないくらいのお給金が欲しいところではあるのだけど、この仕事は嫌いじゃない。忙しいだけって言われたら、困るけども、みんなで頑張っている感じは好きだし、みんなに頼られているのも嬉しい。だって優助は私を褒めたことがない。一度もだ。


「さて、今日も稼ごっか!! 稲葉は定時で帰りなさいよ」

「もう大丈夫よ? 私すぐ倒れるけどすぐ元気になるから」

「知ってるけど、ほら最近この辺も物騒だしね……ほら、変質者とか?」

「あぁ……『魔物』が犯人かもってやつ? 優子テレビ無いのによく知ってたね?」

「魔物? んー、なんか社員の子からちょっと聞いただけだよ。まぁなんでもいいわ。とにかく無理しなくても今の量なら私だけでも日付変わる頃には終わるから」

「……もう、じゃあ今日はお言葉に甘えるわね」


 ……そう言った事を私は別の理由で後悔した。

 深夜1時、仕事を終えた仮眠室に1人。そんな状況で稲葉の言った『魔物』を調べたのがいけなかった。


「人間が魔物になる? 病気? 魔物は人権がない? えぇ、今こんな事が起きているの!?」


 スマホの情報によると、容姿が一部動物に変わる病気が見つかったらしい。

 彼らの事件があったからそれら『魔物』の人達は殺処分自由の『人外』と処置されたという事らしいけど、その内容はあまりにもファンタジーで、私の知る現実とは何か違う世界のような話と感じた。


「そういえば、ゾンビウィルスが本当に起きたらゾンビの人権問題で討論してる間に感染が広がるって誰かに聞いたっけ……」


 その時の私にとってはそんな記事も他人事。

 魔物と呼ばれる人の気持ちなんて薄い板の文字を見ただけでは想像も出来ず、お国がすごく素早い対応をしたんだなとコメントを書いた名なしさんと同じことを思う程度だった。ただ、魔物の画像は深夜に1人見ていい記事ではなかった。画像一覧には不気味な腕の男や犬の顔をした人、惨劇の跡地の写真が規制を逃れて残っていた。


 ……ここはショッピングモールだ。

 管理者や警備員さんには残業や寝泊まりを黙認してもらっているけど、モールの出入り口はシャッターが下りている。いや、そもそもこんな怖いもの見た後で一人で外に出る勇気はないのだけど……閉じ込められているという事が怖いのだ。


「あぁ、早く朝になれー。こういうのは考えるとダメよね」


 ……そう思うと余計に考えてしまうものだ。

 仮眠室の外には大量のパンフレットがある。そのどの写真にも大袈裟なくらい笑顔で映るモデルさんがいるけれど、まさか動いたり……するわけないよね。


 パンフレットから目をそらす。

 代理店の右はおもちゃコーナー。人形の山は絶対怖いので左を見ると家電コーナーがある。家電といえば勝手に電源が入るとか、これもホラー的には王道だ。


「この階層、家族向けだからなぁ……」


 家族向けの商品というのは、なぜこうもホラーと相性が良いのだろう。

 でも、1番恐ろしいのは、目の前の止まったエスカレーター。無音で停止したままのそれは今にも動き出しそうで、なにより今、登りエスカレーターを何かが登っていても私はそれがエスカレーターの大半を登り終え、頭が見えた時に初めて気づくことになると考えた瞬間嫌な寒気に体が震えた。


「うう……最低すぎるぅ」


……


「で、仕事は終わったけど寝れなくてずっと半ベソかいてたの?」

「……稲葉が変なこと言うから悪いのよ」


 出勤時間の40分前、生真面目稲葉は私を見て言った。

 悔しいのでちょっと文句を言ってみる。


「私のせい!? まぁいいわ。昨日はよく休めたから今度は私が頑張るから、優子は仮眠室行っておいでよ」

「……うん。そうしようかな」


 やっぱり、昨日は本調子じゃなかったのだ。

 稲葉は生真面目でそういうところがある。体は弱いし、熱が出てもそのまま出勤してしまうタイプだ。でも、本調子の彼女はここで1番仕事が早い。今日の調子なら私が抜けても大丈夫だろう。店長は中抜け扱いになる4時間の仮眠を申請するとすぐに承諾、私と同じ考えらしかった。


「毛利さんどうしたんです?」

「怖い画像見て寝れなくなったんだって……優子さんって時々かわいいとこあるよね」

「それ、わかる」

「……」


 背中から後輩たちの声が聞こえる。

 一瞬『かわいい』と『時々』どちらに文句を言おうか悩んだけど、こういうことはムキになる方が恥ずかしい気がして聞こえないふりをして仮眠室に向かった。


……


「ん……あーよく寝た? 身体が軽い感じ……」


 ちょうど4時間、昼休憩の時間だ。

 中抜け時間は4時間だけど昼休憩の終わりから勤務だから実質5時間の休憩はなんとなくお得な気分になる。


「やっほ、稲葉! 調子は……どう?」


 どうかと聞く前に、稲葉の青い顔が飛び込んできた。


「……ごめん優子」

「えー……」


 なんとなく、その時点で察した。原因はやはり『亀と鰐』だった。

 この旅行代理店独自での隠語、『亀』は移動経路のトラブル対応で『鰐』は所謂クレーマーだった。しかも、『空ペコの鰐』だったので無理難題な賠償要求があり、場慣れした店長でも『川を渡る』にはかなりの時間を浪費したそうだ。稲葉は優秀だけど、店長が動けず処理する仕事がこなければどうしようも無い。


「じゃあみんな、くつろいでいたんだからまだまだ元気よね?」

「優子……?」

「まぁ、やってみようよ。みんなでいつもの2倍か3倍くらい頑張れば終電までには終わるでしょ」

「お……おぉ、女の優子さんにそう言われると流石にひけないなぁ……」

「はぁ、男は単純ね……でも、いつも優子さんと稲葉さんに助けてもらってるし、やるしかないよね!!」

「ありがとうみんな!! さぁやろっか!!」


 私達は一致団結した。

 修羅場の多い職場特有なのか、ここに長くいる人達はみんな『ピンチになるとテンションが上がる』気質がある。その後のみんなの動きは分かりやすく動きが機敏になり、どこを向いてもファインプレイが目に映る。そんな姿を見せられたら、私だっていつも以上に頑張らない方が難しい。結局私たちは終電よりずっと早い20時過ぎには最後の仕事を片付けることが出来た。


「お……終わった? マジかよ……」

「すげぇ、なんだこの気持ち。俺、お前らのことが誇らしいよ」

「え? 夢??」

「それ、稲葉先輩が言うとマジっぽいッス」

「どういう意味ですか!?」


 よく気絶する稲葉はむくれ、みんなから笑いが起きる。

 笑いが起きる余裕も残してこの窮地を乗り越えた。ここは多くの人曰く『ブラック企業』『らしい場所』でも、私たちにとっては笑って働ける場所だった。


「よし! このまま打ち上げでも行きましょうか!!」


 いい気分。私はこの仕事のこういうところが嫌いじゃない。

 散財出来ない家庭事情だけど、こういう時くらい生のピッチャーをみんなに奢っても良い……いや、ここは店長に花(会計)を持たせるべきだ。


 そんな事を考えていたのだけど。

 なんだか雰囲気がおかしい。さっきまでの活気や喧騒が嘘の様に静まり返っている。


「え!?」

「いや、流石に休みたいです……」

「右に同じく……」


 見れば、肩を落としている。

 この中では苦笑いをしている若手君でさえ元気な部類に入るほどだ。


「残念ね。みんなさっきまで元気だったのに……」

「さっきまで元気だったから、もう無理なんですよ?」


 そういうものだろうか。


「優子、あなたの体力が羨ましいわ」

「それは稲葉が体力なさすぎなだけでしょ?」

「いや、毛利さんの体力半分を稲葉さんがもらってちょうど人並みです」

「酷くない? それ私が化け物みたいじゃない」

「……」

「……」


「え? 誰も弁護してくれないの!?」

「……」&「……」

「ちょっと!?」


 まぁ、そんな冗談もいいながらその日は解散の流れになった。


 これが私の日常だった。

 とんでもない不幸を感じたことはなくて、すごく幸せとは言えないかもしれないけども毎日1回くらいは笑っている。これからもそうやって生きていく……そう思っていた。


 あの事件に巻き込まれるまではそう思っていたのだ。

 この日、帰路についた私は彼に出会う。『魔物』と呼ばれる存在に……。

 

 






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