第5話 困惑①

 アリスティアは、ふわふわした感覚を心地よく感じた。

 続いて、なぜだか甘くていい匂いも感じ取る。


(こんないい匂い、初めてかも。兄様たちにもこのいい匂いを感じて欲しいけど、なんだかとても……懐かしい? なぜかしら?)


 そこまで考えて、ふと、つい先ほど自分に起こった事を思い出して──。


 ──水の精霊

 ──精霊王ウンディーネ様

 ──愛し子

 ──ルーク兄様が皇太子殿下

 ──守護契約

 ──ピクニック


 アルバ湖のほとりで、突然ミニチュアな透明の妖精のようなものが姿を現したのを切っ掛けに、信じられない情報が次々と詰め込まれ、驚き過ぎたその後の記憶がアリスティアには無かった。

 だが、その驚愕の情報が言葉として次々と頭に思い浮かぶ。


(そうだ、ピクニックの最中だった!)


 先程までの事を思い出した途端、アリスティアは必死になって重い目を開けた。

 その彼女の目に飛び込んで来たのは、ひどく整った、でも心配そうなルークの顔。


(ルーク兄様って、とても綺麗ね)


 些か場違いな感想を抱いたのは、アリスティアの現実逃避なのだろうか。


「ティア! 良かった、目が覚めたか」


 ルークの震える声は心配そうなのにどこまでも甘かった。

 アリスティアはそんなルークの顔をじっと見て。

 アリスティアの反応が薄い事にルークの顔が困惑の色を浮かべだした頃、そのルークの顔の横にエルナードとクリストファーの顔がひょっこりと現れた。


「ルーク、アリスが心配なのもわかるけど、僕たちもアリスが心配なんだからちょっとは見せてよ」

「エルナードの言うとおりだよ、ルーク。自分だけがアリスの守護者に選ばれたからって、何故ルークだけがアリスを抱え込むのさ。僕たちがアリスの兄なのは変わらないんだから僕たちにもアリスを介抱する権利はあるはずだよ」

「うるさいぞ、お前たち。ティアを護れと言われたのは私だ。守護契約したのは私だぞ」


 ルークの言葉にアリスティアの脳内には疑問符が飛び交う。


(え? 守護契約ってなんの事? え? 私を護れとか何ごと? あれ、でもルーク兄様はルーカス皇太子殿下で……)


「殿下? 守護契約? ウンディーネ様? 水の精霊? えーと……」


 思ったよりはスムーズに声が出た事に安心したが。しかしその出た声が自分でも驚くような掠れ声で、しかも明らかに困惑している事がわかるもので。

 あ、こんな声だと余計兄様たちに心配をかけてしまう、とアリスティアが思った瞬間。

 なぜだかルークにぎゅっと抱きしめられていい匂いが強くなった。

 ああ、いい匂いなのはルーク兄様だったのね、とか、ルーク兄様また抱きしめてる、とか、ぼんやりと他人事のように考えていたら。


 次の瞬間、凛とした気配を感じてそちらに視線を向けたら、この世のものとも思えないほど整った面差しの、水の精霊たちを人間大にした少女がいた。しかしその少女が人間ではないとわかるのは、少女の背後に薄く透き通るような、まるでカゲロウのような六枚の羽根があって、少女が湖の上に浮かんでいた。

 それだけでその少女が、水の精霊王だと理解した。いや、理解させられた、といった方が正しい。


『アリスティア、我が愛し子。困惑しているようね?』


 水の精霊王ウンディーネがアリスティアに優しく話しかける。その声は幼い少女のような無邪気さと永き時を生きているモノの持つ落ち着き、そして人外だけが持ち得る澄んだ清浄さを感じさせた。


「水の精霊王ウンディーネ様ですか?」

『ええ、そうよ。我が愛し子』


 アリスティアが顔をその少女──水の精霊王に向けて問うと、彼女を抱きしめる力が強くなった。

 顔を戻して見上げるとルークの顔には不安と焦燥と心配とが綯い交ぜになったような表情が浮かんでいた。

 なぜそんな顔をするのかしら、私にはそんなに価値がある訳ないのに、とアリスティアが考えた途端。


『まあ! ダメよ、アリスティア。我が愛し子。そんな風に考えてはダメ。貴女の価値は貴女が思っている以上に貴重なのよ? いくら前が平凡だったからと言って、今もまた平凡だとは言えないわ。だって貴女は私の、水の精霊王ウンディーネの愛し子なのだから。それがどれ程貴重なものかわかって?』


(心の中が読まれた⁉)


 驚いて目も口も開いたまま、精霊王の方を見るアリスティア。

 けれども、精霊だったら心を読む事もあるのかもしれない、と次の瞬間にはひどくあっさりとその事を受け入れた。


「ウンディーネ様、わたくしには色々と訳がわからないんですの。そもそも愛し子って何ですの?」

『まあまあ! 愛し子とは精霊に愛される存在よ。精霊の愛し子と、精霊王の愛し子と二種類いるわ。そこにいるルーカスは、精霊の愛し子だけれど、私の、精霊王の愛し子ではないわね』


 ウンディーネの話した内容に、少しばかり心配になってルークの顔を見れば、相変わらず心配顔のルークと目が合った。彼が精霊王の愛し子ではないと言われた事を、全く気にしてない様子に安堵する。


「それでは、守護契約とは何ですの?」


 精霊王にまた視線を戻して尋ねる。


『守護契約とは、護る力を我ら精霊が与える契約。精霊王ウンディーネの眷属の水の精霊たちが、ルーカスと契約したわ。貴女を護らせる為よ』

「なぜわたくしが水の精霊王の愛し子なんですの? わたくしは顔はきれいかもしれないけれど、ごくごく平凡なのに」


 そう言った途端、ルークがなんとも言えない困惑した顔をして、兄たちが「えっ⁉ 平凡ってなんだ⁉」と悲鳴めいた声を上げた。

 水の精霊たちからは、くすくすと笑うさざ波のような感情が流れて来る。


『だからその様に考えてはダメだと言ったでしょう? 貴女の魂は、こちらに生まれてからは、とても私達を惹き付ける存在なのだから。それが愛し子なのよ?』


 ウンディーネは、呆れた様に溜息を吐きながら言った。


(なんだか理解しようとしても無理な気がして来た。これは諦めるが勝ちというやつだ、きっと、多分。メイビー)


 それに、もっと差し迫った問題がある気がする。


「ルークにいさ──ええと、ルーカス殿下? 離してくださいませんか? 不敬を働き申し訳ございませんでした」


 困り顔でそう言った途端、ルーク──ルーカスの目が見開かれ、そのきれいな金色の瞳に驚愕の色を宿した。


「あー、今更気がついたのか、アリス」

「精霊たちが思いっきり皇子って言ってたしね。というか、ルークが自分で名前を名乗った時点でバレるでしょ」


 兄達が苦笑いしながら話しているのを聞いて、なんだか居たたまれない心地になる。

 そんなアリスティアを、更に強く抱きしめたルーカスだったが。


「ティア。私の事は迷惑か?」

「迷惑とかではありませんわ。でも知らなかったとは言え、今まで殿下を兄様と呼んでいたなんて、畏れ多くて」


 困惑しながら言うと、なんだか安心した様に溜息を吐いたルーカスは、少しだけ抱きしめる力を緩めた。


「不敬とか考えなくても大丈夫だ。私がそうしたかったからな。そなたを側で守りたかった」


 アリスティアには言われた意味が理解できず、茫然として皇太子を見上げた。

 アリスティアにとっては、皇族こそが守られるべき立場で、臣下は皇族を守る立場なのだ。その守られる立場の皇族から、しかも皇太子から守りたいと言われるなど、まだ生まれて五年しか経っていなくても、いや、前世の記憶を持っているからこそアリスティアには理解し難い言葉だった。


(守られるべきはルーカス殿下の方でしょう⁉ 一臣下を守るとか、意味不明過ぎて理解不可能よ!)


「殿下。アリスがびっくりしてますよ」

「殿下から守りたいと言われて素直に受け入れられるなら、アリスは不敬を心配しませんよ」


 流石、アリスティアの兄達である。アリスティアの心情を代弁してくれた。


『でもアリスティア、私の愛し子。これからはルーカスが、わたくしたちが側にいられない時に貴女を護ってくれるわ』


 だが、水の精霊王ウンディーネがアリスティアを混乱に追い込む。


『貴女は、貴女の価値を知らな過ぎるわ、アリスティア、私の愛し子。水の精霊王の愛し子は、数百年現れなかったのよ?』


(あ、だめだ。理解したらキャパオーバーになる! 諦めよう)


 アリスティアは内心で嘆息しつつ理解する事を投げ捨てた。


「わかりましたわ、ウンディーネ様。ルーカス殿下、ありがとう存じます。ええと、これからもよろしくお願い申し上げます?」

「なぜそこで疑問形なのかわからぬが。とりあえず、ティアを害する者は全て排除しよう」

「物騒過ぎますわ、殿下!」

「精霊王の愛し子の価値は、それだけ大きいのだぞ?」

「アリス、諦めよう? 数百年ぶりの精霊王の愛し子なんて、狙ってください、と言ってる様なものだからね」

「エルナードの言うとおり。僕たちも守るけど、精霊達と守護契約をした殿下には敵わないからね」


 ひどく残念そうな兄たちの言葉に、突如として応える存在が現れた。



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