第1話 五歳
アリスティアの双子の兄、エルナードとクリストファーとは十歳も歳が離れていたが、二人は妹であるアリスティアを溺愛し、双子の友人であり彼女の恩人のルークも二人の兄同様に彼女を可愛がってくれていた。
それは
その理由は二年を経て五歳になった彼女には今もってわからなかったが、十五歳で成人するこの世界の貴族家では家の意向で幼い頃から婚約者が決められてもおかしくないのに、ルークにはそんな気配が全くないし、それが一般的に考えるとおかしな事であるのは貴族令嬢としての教育を施されているアリスティアにも理解できていた。
それなのに、三日に一度はルークはアリスティアの前に現れる。その事を二人の兄も困っている様に感じたから、或るときアリスティアは思い切ってルークに聞いたのだ。小首をコテンと傾げて。
──ルーク兄様、エル兄様とクリス兄様が困ってるみたいですけど、ちゃんとルーク兄様のお家の人に許可を貰ってここに来てるのですか?
と。
それを聞いた時のルークは、一瞬キョトンとし、次いで盛大に吹き出したため、アリスティアはムッとした。笑う事ないじゃないの、と。
──大丈夫だよ。ティアが心配してくれるのは嬉しいけど、やるべき
そう言ったルークは、とてもいい笑顔で。
その笑顔を見たアリスティアは、その時、なぜか言い知れぬ奇妙な寒気を感じ、ぶるりと震えた。
二人の兄は、そんなルークにげんなりした顔を向け、エルナードがボソリと一言、それに付き合わされるこっちは毎回胃が痛くなるんだけど、と呟いたのをアリスティアはしっかり耳にした。やはりルークに兄たちは困っているらしい。ならば、妹としては兄達の苦労を取り除かなければ、と決意する。
「ルーク兄様、お勉強やお仕事を頑張っているのは尊敬出来ますけど、そろそろ貴族の義務としてお家を継ぐための婚約者を用意されると思いますの。わたくしも、ルーク兄様から遊んで貰えるのは嬉しいけれども、婚約者が出来たらいくら妹とは言え婚約者は面白く思わないでしょう?
ですから、今から妹離れの練習をなさったらどうかしらと思いますの」
そうアリスティアがルークに提案した途端、ルークがピシリと固まり。
双子の兄達は、真っ青になってオロオロし始めた。
「アリス、ルークは嫌い?」
「ルークはアリスの事が大事なんだよ?」
そう言われると、アリスティアだってそれ以上は何も言えない。兄達が今困った顔を向けているのは自分で。大好きな兄達を困らせたい訳では無いのだから。
「わかりましたわ、エル兄様、クリス兄様。ルーク兄様はわたくしの事を、
にっこりと微笑んでそう言うと、エルナードとクリストファーは安堵の溜息を漏らし、ルークは若干不満そうにしながらも、アリスティアを片手で抱き上げ、彼女の頭を優しく柔らかく撫でた。
その手付きが本当に優しくて慈しみに溢れているのを感じ、彼女はくすくすと笑いながらルークの胸に頭を擦り寄せた。彼女の気分はすっかり飼い主に甘える犬か猫だった。自分は動物ではないけれども、と思いつつ。
彼女がルークの胸に頭を擦り寄せた瞬間、アリスティアの頭上から息を飲む音が聞こえ、二人の兄のいる方からは、は、と短い吐息が漏れ聞こえた。何事? と兄たちを見ると、零れそうなほど目を見開いた二人の兄の姿がそこにあった。
頭をルークの胸から離して見上げれば、ルークがやはり目を見開いてアリスティアを見ており、その耳が薄っすらと赤く色づいていた。
「ルーク兄様?」
どうしたの? という意味を込めてコテンと首を傾げてルークに問いかけると、彼はハッとし、何でもない、と首を横に振った。
「エルナード、クリストファー。バークランド公爵家はティアにどんな教育を施している? ティアが年齢の割にしっかりしてるのはわかるが、この小悪魔ぶりはどういう事だ?」
「でん、んんっ、ルーク、公爵家は国内最高の教育を施しているはずだよ。小悪魔っぽいのは、別にそんな教育はしてないはずだけど」
エルナードは戸惑ったように答えた。
「エルナード、アリスの小悪魔ぶりは三歳の時から始まってたじゃないか。だから完全に教育ではなく、素の能力だと思うよ。流石にギフトだとは思わないけど」
クリストファーはほんの少し眉尻を下げて困ったような、仕方ないと言いたそうな、そんな微妙な表情をしていた。
「クリストファー、小悪魔ぶりがギフトなんて怖すぎるよ。なんか言霊になりそうだからヤメて!」
エルナードが嫌そうに顔を顰めて言う。
「エルナード、クリストファー。公爵家の教育が最高なのは理解している。その教育が、年齢に見合わず聡明なティアを更に聡明にしているのもわかる。しかし、こんな小悪魔っぽさなんてギフトは余計だ」
「ルークまで小悪魔ぶりをギフトと言うのはヤメて! なんか確定されそうで怖いから!」
エルナードは顔を引き攣らせて否定しているが、ルークは額に
そう言えば、と疑問を投げ捨てたアリスティアは、ルークの腕の中から兄たちに話しかけた。
「エル兄様、クリス兄様、ルーク兄様。来週の水の女神の日に、アルバ湖畔にピクニックに連れて行ってくださるのでしょう? わたくし、今からとっても楽しみですの! 我が家の料理長に美味しいお弁当を用意していただきましょうね!」
「ティア、ピクニックは私も楽しみだぞ。当日、私も家の料理長に焼き菓子を作らせて持って来るから一緒に食べようか」
「ルーク兄様のお家の料理長が作った焼き菓子は、とっても美味しいから好きだわ! ルーク兄様、絶対忘れないでくださいませ。忘れて持ってきてくださらなかったら、ルーク兄様の事、嫌いになってしまいましてよ?」
「ティア、そんな悲しい事を言わないでくれるかな? 私が可愛いティアとの約束を忘れる訳はないだろう? ちゃんと焼き菓子は持って来るぞ」
十五歳と五歳のほのぼのとした会話に、横からエルナードが割って入る。
「アリス、ルークに焼き菓子をねだるのはお淑やかな令嬢ではないよ?」
「エル兄様、だってルーク兄様のお家の焼き菓子は、本当に美味しいんですもの! それに、ルーク兄様がいいと仰るんですから気にする必要はないと思いますわ。毎日、貴族令嬢としてのお勉強を頑張っているんですもの、たまには令嬢のお休みがあってもいいと思いませんこと?」
アリスティアが満面の笑みで胸の前で手を合わせてエルナードを見上げると、エルナードは口を片手で抑えてふるふると震えた。
「エルナード、僕らの可愛いアリスに、僕らが敵うわけがないよ。それにアリスの言う事も尤もだろう? アリスは毎日、公爵令嬢としての勉強を頑張ってるんだから、たまには息抜きさせないと可哀想じゃないか」
クリストファーは苦笑しながらエルナードの肩に手を置いた。
「そうだぞ、エルナード。ティアは可愛いだけではなく聡明で、公式の場に出たらきちんと場に合わせる技量もあるのだから、たまには息抜きも必要だ」
「ルークがそう言うなら」
エルナードは渋々と言った態で、アリスティアの希望を叶える事を了承した。これでピクニック当日の焼き菓子が楽しみの一つに増えた──アリスティアは満足だった。
焼き菓子に想いを馳せて目を輝かせるアリスティアをルークが目を細め口角を上げて眺め、双子の兄達がそんなルークを溜息をつきつつ諦観した様子で眺めたのを、幼いアリスティアは気付く事はなかった。
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