10話 シークレット・ゾーン

 チンパンジーは、みるみるすがたを変えていった。それまでの動物から他の動物へと姿形を変えてゆく変化とはどうも違って、ずっと手が込んでいた。

 よく人類の系統図で見られるようなヒトの進化の変遷。

 それがある時点で分岐していく。

 チンパンジーから分岐してヒトになり、現生人類とは別のいまはもう絶滅してしまったネアンデルタール人のすがたになった。背は低いが肩幅が広く、がっちりした骨太な筋肉質の体型である。二足歩行で立っている。

 しかも、二人いる。どうやら小飼、大西の女子高生チームらしい。二人の手にはそれぞれ棒の先端に石器をつけた槍らしきものがある。

 そういう若澤もネアンデルタール人のすがたである。手には例の石器もある。

 若澤が途方に暮れているとTレックスが襲いかかってきた。この中にいるのは、長田と道原と江部だった。

「長田くん! どうして俺たちを襲ってくるんだ!」

「ここからが本番ですよ!」

 歴史上リアルに実現することのなかった恐竜とヒトのサバイバル。

「理后! とりあえず逃げましょ!」

 小飼の声を合図に、二人はいっせいに駆け始める。「若澤さん! もしよろしければ、そこで囮になってくれません?」

「それはいい考えだ。囮になろう」

 ひとりカッコつけてブツブツ呟いていた若澤だったが、Tレックスの顔が近づいてくるにつれて気が変わった。

「やっぱダメだ! 怖ぇ!」

 手近にあった石ころを拾い、それを恐竜に向かって投げた。当たり前だがまったく抵抗にすらならなかった。ちょっとかゆいなという程度だろうか。

 ネアンデルタール人は意外にも走るのが遅かった。これは致命的だった。心臓の鼓動が早い。ブレスレットのバイタルをチェックしたら、血圧の上が百三十、下が八十を超えていた。脈に至っては百を越えている。警告アラームが鳴った。これ以上は健康上危険だということだろうか。

 苦肉の策として三人は散り散りに逃げた。データによるとこのヒト属のパラメーターには、チンパンジーを優位に越す賢さがあった。

 散り散りに逃げたら、Tレックスも狙いが定まらないだろうと思ったのだが、相手は知恵を持った長田と道原と宇部という最強の侵入種インベーダー現生人類ホモサピエンスどもである。

「佑介を狙え!」

 道原の嫌がらせというか、むしろ彼女なりの好意によってTレックスは若澤に狙いを定めた。

 Tレックスのパラメーターはというと、意外にも賢さの数値が高かった。賢さが高いということは、アクションを取れる幅が広いということだ。

 若澤は人類が第一歩を踏み出したと言われるサバンナをひたすら駆けた。

 散り散りになった二人が横からTレックスに石つぶてを投げてフォローしてくれるが、硬いウロコと羽毛に守られているためか、攻撃力オフェンス防御力ディフェンスの数値ともに異常に高い。石つぶてではなく、崖の上から巨大な岩を落とすくらいじゃないと効果はないだろう。

 若澤は素早くマップを呼び出した。大地溝帯グレートリフトバレーがあった。

 大地溝帯とはアフリカを南北に縦断する想像を絶するほどの巨大な谷で、いつか若澤も生で見に行ってみたいと思っていたスケールの大きな絶景ポイントだ。

「大地溝帯へ行こう! ここから近いみたいだ!」

 データ上からネアンデルタール人の身体能力を十分に生かすため提案したのは、Tレックスの身体によじ登って牙から遠ざかるというアクション映画っぽいやり方だった。

 通信システムで二人と連絡し合い、軽く打ち合わせをした。

 まずは、Tレックスが若澤と大西を追いかけているあいだ小飼が急に方向転換をしてジャンプ。

 実際にやってみるとデータ通り屈強なネアンデルタール人は身体能力が高かった。図鑑チュートリアルによれば、当時の現生人類よりも大型であったと言われており、トラのように待ち伏せ型のハンターだったという。

 小飼はしかし、羽毛につかまりなんとかよじ登ったものの飛びつく場所が首に近い辺りだったので、邪魔者が取りついたことに気づいたTレックスは首を激しく振り小飼を落とした。小飼は地面に激しく叩きつけられ、悲鳴をあげることなくその場にうずくまった。

 敵討ちとばかりに大西が手にしていた槍を遠くから投げた。が、届かなかった。へにゃへにゃ…とTレックスの手前の地面に落ちた。

 その様子を、Tレックスは今にも笑い出しそうな顔で見下ろしていた。今が襲うチャンスのはずなのに。

「アイツら、ちくしょう。バカにしやがって」

 調べたところ、ネアンデルタール人は屈強な体格を生かし、おもに近接戦闘で獲物をヤリで突き刺す狩りをしていたらしい。そのためか命を落とすことも少なくなかったそうだ。投げやりで獲物をしとめていたのは、現生人類らしい。

「大西さん! 槍は投げちゃだめだ。使うことがあったら、突き刺した方がいい!」

「この硬いウロコをどうやって! やるんですかッ」

「背中だ! 背骨に取りつこう!」

 若澤が見本を見せると言わんばかりに方向転換をすると小飼と同じように跳躍して今度は背骨に生えた羽毛に取りついた。今度は振り落とされなかった。小飼を助け起こした大西とその小飼も次々とジャンプして羽毛に取りつく。

 目標を失ったTレックスは走るのをやめキョロキョロと辺りを見渡した。さすがにこの巨体を転がして落とす気にはならないようだ。

「よし! やるぞ!」

 タイミングを合わせていっせいに三人で首元に槍を突き刺した。硬いが首ならなんとかなりそうだ。噴き出す鮮血。きっとTレックスの中にいる二人には警告のアラーム音が響いているだろう。もっと焦ればいい。

「この調子でしばらく続けよう!」

「佑介! それで助かったと思うなよ!」

 道原はだいぶ熱くなっていた。もともとゲームをやると自分が勝つまでぜったいにやめないタチの悪い負けず嫌いだった。

「長田! そこにアカシアの木があるだろう。枝に体をこすりつけろ!」

 すぐに意味を察したのか、Tレックスはアカシアの枝に背中をこすりつけた。

「イテッ!」

「そりゃねぇーだろ!」

「ひっどーい!」

 三人はアカシアの枝のトゲに刺されて地面に転がり落ちた。

「…バーチャルなのに、イタいって感じるの怖ぇな」

 呟いた若澤の眼前にTレックスの恐ろしげな顔が迫ってくる。幼獣だったらワニみたいに多少はカワイイのだろうけど、成獣のあの縦に走る針みたいな目だけは本能的に好きになれなかった。

 すぐに襲ってこないのは、ふざけているのだろう。

「甘く見んなッ」

 ムカッとした若澤は砂を握りしめるとそれを振りかけた。襲いもせずに無防備に顔を近づけたからだ。さぞかし意外な一撃になっただろう。もたついているあいだに、三人は逃走を再開して大地溝帯をめざした。マップではまだもう少し先だった。

 砂かけの時間稼ぎは十分ではなかった。後ろを振り返るとTレックスがふたたび駆け出している。

「めっちゃこえー」

 昔、こういう映画があった気がした。

 途中、のんきに草を食んでいるデフォルトのノウマの集団を見つけてそのうちの一頭に飛び乗った。小飼、大西もそれに続いた。

 グンッとスピードアップした。もちろんサラブレッドには及ばないだろうが。

 ところが、それにも増してストライドの長いTレックスの足の速さときたら、マップを移動するポインタの速さが尋常ではなかった。

 大地溝帯が目前まで迫ると若澤はノウマから飛び降りた。ノウマは止まることができず非情にも崖の下へと落下していった。同じように小飼と大西も飛び降りた。

 三人でTレックスを取り囲み、槍を構えながらすきをうかがった。すきが見当たらない。体高がありすぎる。獣脚類というだけあって殺人的な鋭いかぎ爪もある。近づきすぎるのも危険だろう。取り囲んでいても心の余裕が生まれなかった。

 崖の近くにいる若澤はちらりと下を見た。使い古されたやり方だが今はこれしか思いつかなかった。

「キミたち、なにか方法はあるかい?」

「たぶん、若澤さんや一木かずきの考えていることと同じだと思います」

 大西が崖の方へ徐々に後退してゆく。

「じゃ、それで行こうぜ」

 若澤は地面に落ちていた石を手に取るとTレックスの顔に投げつけて挑発した。

「佑介。あんたたちがやろうとしていることが私にわからないと思って?」道原が逆に挑発してくる。「そろそろ決着をつけようじゃないの」

 気がつくとTレックスの周りには若澤、小飼、大西とは違うヒト属がどこからともなく集まっていた。別のプレイヤーだろうか。Tレックスを倒すというアトラクションにおける共通の目的でもあるのかもしれない。

 彼らはどこから集めたのか、それとも作ったのか、手にそれぞれ石器ではなく鉄器を携えていた。鉄器ということは現生人類ホモサピエンスなのか。

 彼らはそれをTレックスに向かって投げつけた。その一部は硬いウロコに突き刺さった。一部は、弾かれて地面に落ちた。

 若澤は地面に落ちた鉄器を拾うとTレックスの背にふたたび飛び乗り、目に突き立てた。若澤は崖の側に飛び降りる。

「佑介ぇぇぇぇ! よくもやったわねぇぇぇぇ!」

 道原は頭に血が上ったようだ。リアルでもないのに、自分の片目を抑えて怒り心頭に達しているすがたが目に浮かぶようだ。

「おねえちゃんダメだ!」

 長田が諌めるもののすでに彼女に声は届かなかった。

 Tレックスは崖スレスレにいる若澤に襲いかかった。

 若澤にはもはやネアンデルタール人そのものの魂が降りてきたと言っても過言ではなかった。

「俺たちにはたとえ滅びるとしても危険をおかしてでもやらなくちゃいけない度胸があるんだァァァァ! ネアンデルタール人ッ! アナタたちとはきっと友達になれたッ!」

 若澤は雄叫びをあげタイミングを見計らうと崖に降りた。もちろん崖の突端にあるちょっとした岩のヘリを手でつかまりぶら下がった。

 その彼の上を、Tレックスが駆け出したまま大地溝帯に落ちていった。マヌケな構図ではあった。

「やったぜ!」

 安堵したのもつかの間、崖の一部が崩れ落ちた。Tレックスの重さに耐えられなかったのだろうか。あの体重を支えられるほど頑丈な地面であることにまで考えが及ばなかった自分のミスだった。彼もまた落下していった。

 大地溝帯が逆さまに見える。この絶景を見られただけで落下する価値があるものだった。

 ゲームオーバーと無情にも音声が告げる。

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