8話 レストハウス

 江部裕之えべひろゆきは、目の前のシロクマに対してドラミングを行ったもののまったく逃げていかずピンチだった。

 今まではタイリクオオカミやヒョウといった動物があらわれたときには、ドラミングをしたらたいがいは逃げていったのに。今はなにか明確な意図があって自分をターゲットにしているとしか思えない。

 だがこのゴリラという動物。極太の腕を見るかぎり、腕力はありそうだ。犬歯も戦闘用に使われるものだろう、相手の首根っこに噛みつけば即死させられるように鋭く尖っている。なによりこのアドレナリンの高まり。

 江部ゴリラも戦闘態勢に入っていると言える。迎え撃てば、もしかしたら勝てるかもしれない。

 さいごにもう一度ドラミングをすると吠えた。樹上にいた小鳥たちがいっせいに羽ばたいた。



 シロクマ長田は、外野の声に辟易していた。

「長田くん! 右からフックをかませ!」

「あー! 決まった!」

「さすが鋭いツメね!」

「ツメ立てるなんて反則じゃん!」

「うっさいなーあんたたち。ボクシングじゃないんだからさー」

「ほら、怒ったじゃん」と道原。「佑介あんたが右フックなんて言うからさー」

「ていうか、おまえもノっただろ」

「ノることにはなんの罪もないわ」

「いやある。あると思う。俺のセリフに追従していないとノることはない」

 イジメでも、イジメてるヤツに振られたセリフにノるということは、そいつにとって直接加害する明確な意図に欠けるというだけで、間接的にイジメを促しているのと同様だろう。だからそういうヤツはズルいと思う。

「あんた、あいかわらず細かいわね」

「こういうセンシティブなところは細ければ細い方がいい」

「わからなくもないわ」

「じゃあいいじゃんか。わからなくもないなら、どちらかというとわかってほしい」

「言ってみたかっただけよ。細かいわねって。私たちってあまりそういうことを言うことがないから」

 たしかに、ない。お互いカンカン照りの日に外干ししたようなドライな性格なので、細かいことはいちいち指摘しない。それが良好な関係を築くに当たって一番大事なことだと思う。

「…ちょっと恥ずかしいから、ここでそういうプライベートなことにツッコむのはやめないか? みんな聞いてるんだよ」

「私といて恥ずかしいだなんてヒドい」

「そうとは言ってないだろ」

「じゃあ、自慢の恋人です、ってここで宣言してよ」

「イヤだ。ぜったいイヤ」

「地球が滅んでもダメ?」

「ダーメッ!」

「分子レベルにまで解体されたら、愛しているもなにも言えなくなるわよ」

 ツンとした道原の澄まし顔が目に浮かぶようだ。

「…仲がよろしいんですね」と小飼。

「まったくもってマイナーなカレシとカノジョの関係ですね」と大西。

「カノジョとか言わんでくれ。恥ずかしい」

「じゃあなんて言えばいいんですか?」

「恋人」

「恋人? えーそっちの方が恥ずかしくないですかー」

「カレシとカノジョが許されるのは、高校生までだよ」

「道原さん、恋人ですって」

「うらやましいですね。私も恋人って言われたいです」

「あ、ああ、あんたたち年上をからかうもんじゃないわ」

 こういう冷やかしには動揺しやすい道原だった。いつもは無表情な童顔をわかりやすく紅潮させているに違いない。

「皆さん、ぼくが苦戦しているときに、なにをベラベラくっちゃべってるんですか!」長田はイライラを募らせているようだ。

「あまりイライラすると老けるぜ?」

 若澤が小学生に言ったが誰も笑わなかった。

 長田シロクマは、白い体毛に血しぶきを浴びながらも、ようやくゴリラをその足元に屈服させていた。

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