364.観劇(前編)
美観地区の一角に設けられたオペラ座に、フライハイトの住民たちが列をなしている。
魔道国歌劇団の公演を観劇するために集まった人々は、ざっと見繕っても五百人はくだらない。美観地区の中央を貫く大きな歩道を埋め尽くした群衆は、好奇心に満ちあふれた表情を浮かべ、いまかいまかと開場を待ち望んでいるようだ。
「しっかし、よくもまあ、これだけの人数が集まったもんだな」
窓辺から群衆を見下ろすと、クラウスは感心したように呟いた。珍しく礼服に身を包んだハイエルフの軍人は、端正な面持ちも相まって、一見すると爽やかな王子様といった印象を受ける。
オペラ座と同じく美観地区の一角に設けられた大陸将棋協会の三階フロアには、歌劇団にとっての賓客が集められ、オレや奥さんたちの他、フライハイトの要職についている面々が揃っているのだ。
一般客と一緒に入場するのは警備上よろしくないということ、賓客用の席が離れていることから、オレたちがオペラ座に入場するのは最後になっている。そのため、一時避難的な意味でこの場に集まっているのだが……。大人数が集まることを想定していない場所なので、手狭感はどうしても否めない。
やれやれ、こういうことならもっと広めに作っておくべきだったかと若干の後悔が脳裏をよぎったものの、一瞬で思い直した。そもそもこういうことを想定して作ったわけじゃないしな。まあ、でかくすればその分だけ、お義父さんは喜ぶかもしれないけれど。
「前々から告知をしていたのですわ。私も公演情報を広めるため、微力ながらお手伝いをしましたの」
ドレスアップしたニーナがクラウスに応じた。こちらは陶器人形を思わせる愛らしい顔立ちも相まって、どこかの国の王女様という様相である。美男と美少女であり、実年齢で言えば九五〇歳以上も離れているにもかかわらず、クラウスと並ぶ姿はきょうだいのようにも見える。
もっとも、そんなことを口にしたらニーナは嫌がるだろう。いつになく興奮している才媛の機嫌を損ねないよう注意を払いながら、オレは話題に加わった。
「告知って、公演をやるって話を誰から聞いたんだ?」
「マルグレット様より直接、お手紙をいただきましたの! 今日この日に公演を催したいと! あの、マルグレット様から! 直接!」
憧れの人物からの手紙が相当に嬉しかったようで、内容の詳細には一切触れられなかったのだが、要するに助力を乞うという旨だったようで、それはもう念入りに準備を進めていたらしい。
開園日時だけでなく、作法や拍手のタイミング、
その結果が、この大行列である。うーむ、推しの布教活動恐るべしだな。こうして、知らず知らずのうちに『歌劇団沼」に引きずり込まれていくのだろうか。
とはいえ、大衆文化に演劇を知らしめるにはいい機会であることも否めない。せっかく歌劇団が来てくれたのに、客の入りがいまいちでは申し訳ないし、ここはニーナの尽力に感謝しよう。
これだけ多くのお客が入るなら、オレが観劇の誘いを断っていても、歌劇団も安心して公演を行えただろうしな。ひとり納得して頷いていると、即座にニーナは否定した。
「兄様が観劇なさらないのであれば、公演は延期されておりましたわ」
「だって、前もって今日この日に公演をやるって決めていたんだろう?」
「主賓が来ることが大前提ですもの。兄様を中心にして考えるのは当然でしょう?」
えぇ……? しれっと言ってのけたけど、ものすっごい大事じゃないか。こっちはそんなこと知らないし、オレが断ってた可能性だってあっただろう?
「あの場で断ってみろよ、タスク。魔道国との外交問題に発展しかけねえぞ」
口を挟んだのはクラウスで、オレとしてはその仰々しさに首をすくめたいところなのだが、どうやらいたって真面目な話らしい。
「有力者たちが一堂に会した公式な場での公式な誘いだぞ? むげに断ってたらあっちの面目が潰されるってことでな」
「とはいえ、もしもそのような流れになったら、周りの者が観劇を勧めるよう口を添えていたはずですわ」
うわあ、マジですか……。いちいち恐ろしいな、こちらの世界は。
「いやいや、こういうのはどこの世界でも同じだと思うぜ。運良くお前さんがかかわらないで済んできただけって話でな」
「できれば今後もかかわりたくはないんだが、できない話なんだろうな」
「おう、諦めろ諦めろ」
ケラケラと愉快そうに笑って、クラウスはオレの肩を軽く叩いた。少しも面白くないんだがね。
「しかしまあ、どうしても都合が悪かったら断らざるを得ないだろ? 体調が悪かったりとかさ、いろいろ事情があるじゃん」
「兄様」
微笑を浮かべたニーナは、表情と不釣り合いの声色で続けた。
「わざわざマルグレット様がお見えですのに、観劇なさらないなどあり得ませんわ。というより、私がそのようなことを許すと思いますか。この私が、そのようなことを、本当に許すと?」
いやあ、ニーナさん、目が怖いっす……。歌劇団が絡むと我を忘れちゃうの、どうにかならないですかね……?
十一歳少女の放つ殺気から逃れるようにその場を去ろうとしていると、ドアをノックする音が室内に響き渡り、戦闘メイドのカミラが姿を現した。
「出発の準備が整いました。これより皆様をオペラ座へご案内いたします」
***
オペラ座の中は開放感のある構造となっていた。
音響効果のために、場内は三階建てのフロアを吹き抜けにしていて、それだけに天井は高く、空間を広く感じる。一番奥に舞台があって、その手前部分は楽団用のスペースになっていて、生演奏に合わせ、演劇が進行していくのだ。
それらを取り囲むように凹型に設けられた客席は、一階と二階あわせて八百人もの大人数を収容できる。二階の最前列が貴賓席となっていて、建設責任者であるファビアンいわく「観劇をもっとも楽しむことができる席」だそうだ。
革張りのソファへ腰を下ろしたオレは、物珍しさにあたりをキョロキョロと見渡した。振り返って見上げると、三階部分には黒装束をまとった人々が動き回っているのが見える。
「照明を担当する魔道士ですわ。場面に応じて、光の加減を調節しますの」
囁くようにしてニーナが教えてくれた。他にもステージ警備の担当を兼ねているとのことで、トラブルがあった際はあそこから飛び出して対処するらしい。過激だなあ。
いまのところ、客席は明るく照らされており、場内を満たす来客たちの話し声も賑やかである。ふと、気になったのは子どもの姿を見かけない点で、ニーナへその点を尋ねると、同年代である天才少女は微妙な角度に眉を動かした。
「私が言うのも妙な話ですが、長時間着席したままの観劇は子どもにとって苦痛でしかありませんわ」
「そりゃそうか、声を上げるのもマナー違反だしな」
「ええ、ましてや大人ですら演劇に通じているわけではありませんので」
オレだって、日本にいた頃、片手で数えるぐらいしか観劇する機会がなかったからな。日常的なレベルにまで浸透するには相当時間がかかるかもしれない。
とはいえ、またとない機会なのだ。子どもにも“本物”に触れる時間があってもいいと思うんだよなあ。公演が終わったら、家族向けの演目ができないかどうか、マルグレットやヘルマンニに相談を持ちかけてみるか。
そんなことを考えていると、徐々に場内が暗くなり、それにあわせるようにして客席も静寂に包まれていった。
いよいよ、歌劇団の公演が始まるのだ。
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