332.ふたつの準備(前編)
十二月が終わりを告げる頃、オレは領主邸の庭先にちょっとしたログハウスを
ミュコランの住居の反対側に建てられた家屋の中には、家具や寝具のたぐいは一切ない。玄関を空けた途端、焼き菓子やパンの材料が所狭しと山積みされていて、それらを通り抜けると今度は巨大な調理台が設置されており、それを囲むようにして備えつけられた十数個のパン焼き釜がフル稼働しているのだ。
遙麦と七色糖とバターが交わって焼ける香ばしい匂いが、さながら協奏曲のように部屋中を漂っては流れ、季節は真冬にもかかわらず半袖でも十分すぎるぐらいの室温を生み出している。
「も、もうすぐ三番釜のパンが焼き上がりまーす」
額に汗を浮かべたハイエルフの妻が声を上げると、はいという返事とともに戦闘メイドたちがそれぞれに動き出す。焼成されたパンをどかし、新たに焼き上がったものを冷ますための場所を確保したり、次に釜に入れるための生地を用意したり……。本職のパン屋そのものといった光景に目をやりながら、オレはオレでパイ作りを再開するのだった。
パンと焼き菓子を大量に製造している理由。それは新年早々、領内の子どもたちに配る『
元いた世界で言うところの『お年玉』が、こちらの世界では『祝袋』になるのである。お金ではなく、パンにパイ、焼き菓子や玩具を詰め込んだ袋を子どもに手渡し、健やかな成長を願う……。大陸の古い習わしに倣い、領主になった翌年から実施している、いわばフライハイトの恒例行事なのだ。
もっとも、この行事を始めた際にカミラから聞いた話では「祝袋を配る領主は極めて
それもそのはず、飛躍的な人口増加に伴って子どもが増えた結果、三十個程度用意すれば事足りた『祝袋』が、いまではその十倍以上の数を用意しなければならなくなったのである。
この行事を始めたころと同じように質量ともに充実した『祝袋』を四百近く用意するのは、ぶっちゃけ骨が折れる。とはいえ、自分で配ると決めたからにはクオリティは維持したいし、なにより子どもたちの喜ぶ顔を見るのはこの上なく嬉しい。
で、考えた結果、これはもう人海戦術で用意するしかないなという結論に至り、戦闘メイドたちに手伝ってもらって『祝袋』の準備に取りかかることになったわけなのだが。
間もなく『祝袋』に詰め込むパンや焼き菓子をどこで作るかという問題に直面してしまったのである。領主邸のキッチンでは間に合わないし、管理者であるロルフたちがいない間、勝手に菓子工房を使うのもどうかと思ったオレは、美観地区の一角に設けられたパン焼き工房を使おうと思案を巡らせたのだ。
あそこなら一度に大勢の人々が使えるよう設計されているし、設備も整っている。『祝袋』の準備をするにはもってこいだと足を運んだまではよかったものの、結局はこの計画も頓挫してしまった。
パン焼き工房に足を踏み入れた途端、女性の領民たちに取り囲まれてしまったのだ。……いや、モテ期到来とかそういうんじゃなくてだね、女性陣から感謝の言葉やら質問やらが矢継ぎ早に飛んでくるわけだよ。
「領主様のおかげで何不自由なく暮らせます!」
「学校でこういったことを学んできたと、子どもたちが毎日嬉しそうに話してくれるんですよ!」
「領主様と奥方様はどこでお知り合いになったのですか?」
「お子様のお披露目はいつになるのでしょうか?」
このぐらいはマシなほうで、これがご年配のご婦人が相手となると、涙ながらにこちらの手を取っては、
「ありがたや……。この老いぼれが心安らかに過ごせるのも、領主様のおかげでございます……。本当に……、感謝してもしきれません……」
と、まるで宗教の教祖を相手にしているかのような態度をとられてしまうので、オレとしては困惑しかないのである。「どうか顔を上げてください、当然のことをしているまでです」なんて応じてしまっては「なんというもったいないお言葉……。領主様は私たちの神様です……」と、本当に神様に祭り上げられそうになるし。
そういった事情もあって、まったく作業ができないままパン焼き工房を後にしたオレは、専用の工房を作るべく、急遽、庭先にログハウスを構築したのだった。必要がなくなれば
ログハウスを建ててからは焼き釜を相手に格闘中で、日持ちのする焼き菓子を始めパンやらパイやらを大量作成といった毎日なのだ。
途中、奥さんたちが手伝いに来てくれたのは助かった。中でも、慣れない手つきでパン生地をこねるアイラの姿はなかなかに微笑ましい。あの食いしん坊が焼き菓子に手を伸ばそうとしないのも貴重である。子どもたちに用意したものを口にするのは、さすがの猫人族もプライドが許さないようだ。
ともあれ、この調子で準備が進めば、年明けまでには必要分の『祝袋』が確保できそうである。もっとも、オレが手伝えるのは執務の休憩時間だけなので、ほとんどの作業を戦闘メイドに任せてしまっているのだが。
もう少し、『祝袋』の準備に割ける時間を捻出できればいいんだけどなあ。なんだったら執務の時間を減らしてでもこちらを優先して……。
「いけませんよ、お兄様」
振り返った先にはニーナが佇んでいて、書類の束を抱えた天才少女はたしなめるような口調で続けてみせた。
「執務を放り出すのはいただけませんわ。それがたとえ、子どもたちを思っての行動だとしてもです」
「バレたか」
「ええ、お兄様の事ですから。そのように考えておられるのではないかと思いまして」
生地にまみれた手をタオルで拭き取りながら応じると、才媛で知られる少女は笑みをたたえて書類を差し出した。
「そちらの準備も結構ですが、こちらの準備も進めていただかなくては困ります」
「わかってるよ。今日でまとまりそうかな?」
「それもお兄様次第ですわ。建国にあたっての最優先事項――閣僚人事なのですから」
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