310.出産

「……よ……スク!」


 心地よいまどろみに身を委ねていると、途切れ途切れの声が鼓膜をノックしているのに気付いた。


「起きよ! タスク! 起きるのじゃ!」


 ベッドに潜り込んでからそんなに時間は経っていないはずだ。睡眠の時間をジャマをするとは、たとえ愛する奥さんといえども容赦しないぞなんて考えながら、オレは不機嫌と眠気の微粒子を表情にたゆわせて、ゆっくりとまぶたを開いた。


 薄暗い部屋の中で猫人族の妻がオレの身体を激しく揺らしている。その表情をぼんやりと眺めつつ、オレはくぐもった声を出した。


「……まだ夜中じゃないか……。どうしたんだよ……」

「一大事じゃぞ、タスクよ! 産まれるんじゃ!」

「……?」


 産まれるって、あんことしらたまの卵なら、ついこの間産まれたばっかりだろう? なにを寝ぼけたことを言っているんだと反射的に応じると、アイラは「阿呆ぅ! 寝ぼけているのはおぬしじゃ!」と言葉を遮った。


「リアじゃ! つい先程から産気づいておる!」


 その一言は全身から眠気を追い払うのに十分すぎるほどの効力を発揮し、オレは勢いよく身体を起こして、いつになく焦った様子のアイラを見やった。


「リアが? 子どもが生まれるのか!?」


 返事の代わりに、アイラは首を縦に振ってみせる。確認するのとほぼ同時に、ベッドサイドに置かれた上着へ手を伸ばしたオレは、それを羽織りながら足早に部屋を飛び出した。


***


 階段を降り一階まで辿り着いたオレが目にしたのは、白衣をまとったサキュバスの医師が、数名の戦闘メイドを相手に指示を与えている光景だった。


「ジゼルとマルレーネを起こしてきて。それと、ジゼルにはここにメモしたものを持ってくるよう伝えてくれる?」

「担当医のマルレーネ様はさておき、ジゼル様はお休みになられているのではないですか?」

「叩き起こしてちょうだい。それでも起きないようなら大声で叫んであげて。医師を志す者が、こんな時に眠っているようだったら破門してあげるって」

「承知いたしました」

「産湯とタオルの準備は?」

「カミラ様から手配を承っております」

「オーケー。長丁場になるかもしれないから、そのつもりで」


 慌ただしく立ち去っていく戦闘メイドに一瞥もくれず、クラーラはきびすを返してリアの寝室に足を向ける。その一瞬、視界の端にオレを捉えたようで、クラーラは足をその場に止めると、視線をこちらに向けた。


「陣痛が始まったわ。いよいよって感じね。もっともリアちゃんは初産だし、どのぐらいの時間が掛かるのかはわからないけれど」

「そうか……。なにか」

「『なにか手伝うことがあるか?』という問いかけだったら、はっきりとないって言っておくわ」


 オレの考えを見透かすように呟いたサキュバスの医師は、軽く肩をすくめ、再び口を開く。


「今回、アンタの出番は皆無と言っていいわね。神聖な場に素人がいたんじゃ気も散るし、リアちゃんだって集中できないでしょ?」


 こちらの世界では立ち会い出産という文化がないのかと思いつつ、オレはクラーラの言葉の正しさを認めざるを得なかった。正直な話、オレ自身、落ち着いていられる自信がなかったからだ。


「しっかりなさい」


 冷静な声に視線を上げる。白衣のポケットに両手を突っ込んだクラーラはいつになく真剣な表情を浮かべてみせた。


「アンタも父親になるんでしょう。こういう時は焦らずに、でんと構えていればいいのよ」

「焦っているつもりはないんだけどな」

「ウソおっしゃい。動揺しているのが丸わかりよ」


 ポケットから取り出された手が、オレの上着を指出した。そこで初めて気付いたのだ、上着を裏表逆にして羽織っていたということに。


 慌てて脱ぐオレを愉快そうに見やり、「領主サマも形無しねえ」と呟いてクラーラはきびすを返した。


「ま、ご心配なく。リアちゃんの子どもは、つまりは私の子どもでもあるワケだし、ちゃんと取り上げてあげるわ」

「誰がお前の子どもだ、誰が」


 こちらのツッコミを無視するように、クラーラはヒラヒラと手を振ってリアの寝室に足を運んでいく。扉を開ける際、部屋の中からわずかに漏れ出たリアの声は明らかに苦しそうで、オレは胸の奥が締め付けられる感覚に陥った。


 耳の中に残る声を振り払うようにかぶりを振る。すると、不安そうに顔を覗き込むアイラの表情があった。


「クラーラの言うとおりだ。オレたちに出来ることはなさそうだし、ここは医師たちに任せて待機しておこう」

「とは言うがのう……」


 頭上の猫耳を伏せて、尻尾をだらりと下げるアイラの声は、いつもの明朗さが欠けている。まあ、ただ待つだけというのも気が重いよな。その点はオレも同じだ。


 いっそ、食堂でその時を待っていようか。お茶を飲む気は起きないけれど、話し相手がいる分には気も紛れるだろうし……。そう考えたオレはアイラの肩に手を回し、エントランスを挟んで反対側にある食堂に向かうことにした。


***


 食堂の大テーブルの上に、五つのティーカップが置かれている。エリーゼの手によって淹れられた紅茶が五つの水面を作り出し、その水位は少しも目減りすることなく、五時間が過ぎようとしていた。


 あれから程なくして到着したマルレーネとジゼルは、リアの寝室にこもったまま出てくる気配がない。時折、カミラが食堂に姿を見せたものの、様子を尋ねるにははばかれるといった感じで、他の戦闘メイドにいくつかの指示を与えては、またリアの寝室に戻っていくという有様だ。


「……長い、ネ……」


 聞こえるか聞こえないかぐらいの声でベルが呟く。隣に座るヴァイオレットは、腕組みしたまま首肯するように頷いたものの、口を開こうとはしない。


 アイラは明らかにソワソワした様子で、座ったり立ったりを繰り返しては、たまにううぅと謎のうめき声を上げて、食堂の端から端を行ったり来たりしている。


 八十三回目の往復を目で追いながら、エリーゼが「そ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と、これまた八十三回目となる同じかけ声を発した。


 自然と集まった姉妹妻たちを眺めやってから、オレはティーカップを満たす琥珀色の液体に視線を落とした。水面に映る自分の顔は不安定でしかなく、それは不安からなのか、わずかに揺れる液体がそうさせるのかが不分明で、もはや冷たさしか感じないティーカップをオレは両手で包み込んだ。


 出産がこれだけの緊張をはらむものだとは思わなかった。待つだけなのに、ただただ苦しいのだ。リアはどれほど過酷な状況に身を置いているのだろうか。


 そこらへんがうまく想像できない辺りに、自分の至らなさを恥ずかしく思ってしまう。まったく、『母は偉大なり』とは昔の人もよく言ったものだ。心から尊敬するよ。


「……旦那様。名前は決められたのか?」


 オレの意識を引き戻したのは、それまで沈黙を守っていた女騎士の声である。オレは一拍を置いた後、金髪の美しい妻に視線を転じてから、ぎこちなく答えた。


「あ、ああ……。一応、候補はあるんだけど、決めてないんだ」

「決めてない? 旦那様とリア殿の御子だろう? 決めておかなくてどうする。もう間もなく産まれるのだぞ?」


 ヴァイオレットの疑問はもっともなんだけど、ジークフリートお義父さんやクラウスの命名案を無視するようで、いまいち決めきれないっていうかさ。ほら、二人とも名付け親になりたがってたし。


「そこまで気を遣う必要もないだろう。旦那様の第一子なのだ。旦那様が名付けてあげるのが良いに決まっている」

「そうだよ☆ ジッくんやクーちゃんだってわかってくれるよ♪」

「そ、そうです。タスクさんの子どもなのですから、タスクさんがキチンと名付けないと!」


 そうだよなあ。こんな事に気を遣う必要はどこにもないよなと納得していると、八十四回目の往復に向けての一歩目を踏み出そうとしていたアイラが、その足を空中で急停止させた。


 そして頭上の猫耳をピコピコと動かしたかと思いきや、みるみるうちに顔一杯の笑みをたたえている。その表情の動きを見つめる間もなく、叫び声にも似た赤子の泣き声が、扉の向こう側から響き渡ってくるのがわかった。


 オレたちは誰ともなく食堂を飛び出し、リアの寝室に駆け込んでいく。


 程なくして目にしたのは、産湯で元気いっぱいに声を上げる赤子と、全身を汗で濡らし、蒼白な表情を浮かべるリアの姿だった。


「まったく……。アンタたちは待つって事を知らないの?」


 額に汗を滲ませ、血の滲んだ白衣を身にまとい、クラーラは呆れたようにこちらを見やった。


「タスク様、おめでとうございます。元気な男の子ですよ」


 マルレーネが続けると、四人の姉妹妻が歓声を上げた。オレは何度も頷いてから、ベッド横へくずおれるようにしゃがむとリアの手を取り、ただただ「ありがとう」と繰り返すのがやっとだった。


「タスクさん……、泣かなくても……」

「だって、だってさ……」

「エヘヘヘ……。ボク、頑張っちゃいました……」

「うん、うん……ありがとう……本当に、ありがとう……」


 疲れ果てているリアの声はか細いながらも力強く、オレはその頬にそっと手を添えた。


 ……それからのことはあまり覚えていない。


 はっきりと記憶しているのは、白々とする空から降り注ぐ柔らかな朝日が、窓から差し込んでいたということだけで。


 とにかく、オレとリアの子どもはこの世に生を享けたのだった。

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