265.リアのつわり
翌朝。
寝室から一階へ足を運んだオレを待っていたのは、青白い顔をしたリアと、リアの身体を支えるように寄り添うカミラの姿だった。
階段を降りる足音に気付いたようで、カミラは顔だけをこちらへ向けて頭を下げてみせる。いつになく顔色の悪い龍人族の妻が気にかかり、オレはおはようという挨拶を交わすよりも先に、大丈夫かと声をかけた。
「……ぁ、タスクさ……、おは……よ、ぅ、うぷ……」
空虚な笑顔を一瞬だけ浮かべたリアはそこまで言いかけると、両手で口を押さえ、慌てて洗面室へ駆け込んでいく。
……もしかして良くない病気にでもかかったのではないのだろうか? 不安が浸食していくように、心の中が寒くなっていくのがわかる。そんな様子を感じ取ったのか、つい今し方までリアに寄り添っていた戦闘メイドは、きわめて冷静に「ご心配なく」と呟いた。
「ご心配なく……って、どうして言い切れるんだ?」
「リア様のあの症状は、いわゆる『つわり』ですので」
カミラの話によれば、早朝、朝食の準備をしている最中、洗面室と寝室の往復を繰り返すリアを見かけたそうで、それからずっと付き添ってくれていたらしい。
「忙しい時に、すまないな」
「滅相もございません。タスク様と奥方様に仕える身として、当然のことをしたまでです」
朝食は他の戦闘メイドたちが用意していると付け加えたカミラは、食事の時間が少し遅れるかもしれませんと非礼を詫びるように頭を下げる。
「全然! 気にするなよ、そんなこと。何だったらオレが準備したっていいぐらいだぞ?」
「とんでもない。伯爵にそのような真似をさせるわけには」
「前から言ってるけど、家事をやるのもオレにとってはいい息抜きになるんでな。食事ぐらい、たまには作らせてくれ」
「ですが……」
う~ん、話に妥協点を見いだしそうにないな、これは。それとなく話を逸らすべく、オレはリアが駆け込んでいった洗面室の方へ視線を転じた。
「しかし、昨日の今日でいきなりだな。つわりって、急に始まるものなのか?」
「人それぞれと申し上げるほかございません。ですが……」
「?」
「朝食に準備していたものが、嘔吐のきっかけになってしまったのかと」
いわく、おにぎりの準備をするため白米を炊いていたところ、ほぼ時を同じくして、リアが洗面室へ駆け込んでいくのを見かけたそうだ。
「妊娠中は嗅覚が過敏になります。白米の炊き上がる香りが、リア様にとっては不快に感じ取られた可能性も」
「あ~……。なるほどねえ」
ご飯の匂いを嗅いだだけで、気持ち悪くなっちゃう妊婦さんとか結構多いって聞くもんな。世界が変われど、そこらへんは同じなんだなあ……って、感心してる場合じゃない。
「朝食なんてどうでもいい。白米があるならどこかへやっておかないと」
「ご安心を。先ほど、他のメイドへ命じまして、クラウス様とソフィア様の邸宅へ運ばせました」
その代わり、『
「……はあ……。え、えへ……へ……恥ずかしいところを……、見せちゃいました」
普段の快活な様子はそこにない。こんな弱々しいリアを見るのは初めてで、オレはたまらず愛する龍人族の妻のもとへ駆け寄った。
「つらいだろう、ムリしなくていい」
「タスクさん……」
「とにかくゆっくり休んで。なにかして欲しいこととか、食べたいものがあったら遠慮なく言うんだぞ?」
「……食べたいものは、特にないです……。食欲がないので……」
「……そうか」
「でも……」
「ん?」
「……ちょっとだけ、一緒にいてもらえませんか?」
蒼白な顔に頷いて応じ、応接室から寝室に変貌を遂げたリアの部屋へ、オレたちはゆっくりと歩き出した。
***
「――そういったわけで、図書館建設はもう少しあとになる」
つわりの症状が落ち着くまでは、できるだけリアの側にいてあげたいこと、それまでは大がかりな作業が出来ないことなど、オレは並び立つ少女に事情を説明していた。
「ゴメンな。せっかく、たくさんの本を持ってきてくれたって言うのに」
「かまいませんわ。お兄様、そんなことより、どうかリアお姉様を大切になさってください」
そう言ってニーナはかぶりを振ってみせる。どうやら、オレの『お兄様』に引き続き、五人の奥さんたちも『お姉様』と呼ぶことに決めたようだ。
ちなみにお姉様と呼ばれてもっとも喜んでいたのはアイラで、猫耳をぴょこぴょこ動かしては「もう一度呼んでくれぬか?」と催促していた。……昨日、面倒なことになりそうだからって逃げた割にいい根性してるなと思ったけど、黙っておこう。
なにせ、お姉様呼びが思いのほか効いたのか、珍しく率先して労働を買って出てくれているのだ。しかも、絶好の昼寝日和とも言える穏やかな天気の中、である。ある意味、奇跡とも言えよう。
で、何をやってるかといえば、書籍の詰まった木箱を集会所へ運ぶ作業で、ガイアたち『黒い三連星』を引き連れては、その陣頭指揮に当たっている。
……まあ、木箱を運ぶのはガイアたちだけで、当のアイラは陣頭指揮だけしかしていないんだけど。それでも自ら働こうという意欲は素直に褒めておこうじゃないか。
あ、これは余談になるけど、ワーウルフたちのいつものやつ、つまり「筋肉切れてるよ!」的かけ声は自粛してもらった。あんまり騒がしいと、リアの身体にさわるかもしれないしね。
ただ、いつものかけ声がないから、ポージングも封印するかといえば、それは違うらしい。時折、作業の手を止めては大胸筋やら腹直筋やら上腕二頭筋を見せつけるように、筋肉を誇示してみせる。
荷運びを見守っていたニーナが不審の眼差しを向けながら、「お兄様、あれは一体……」と、説明を求めてきたほどだ。う~ん……どう話したらいいものか。とにかく、慣れた方がいいとしか言い様がないんだよな。
ニーナから不審の眼差しを向けられたのは、ガイアたちワーウルフだけではない。
中庭で作物の種子が詰まった箱を前に、腕まくりをしているオレにも同様の視線が向けられていて、こんなにたくさんの種子をどうするのかと聞きたげな様子の少女へ、オレは肩をすくめて応じた。
「ああ、気にしないでくれ。オレにしか出来ない作業をしようと思ってさ」
「お兄様にしか出来ない?」
「そうそう。ま、上手くいくかどうかわかんないけどな」
事情を飲みこめていない様子のニーナへ、これから行おうとしている『
「ちょっと、どうしたのよタスク。あのアイラがキビキビ働いているとか、雪でも降るんじゃない?」
「……ココ……。……あと……いっしゅうかんは……ずっと……いい……おてんき……。はるに……ゆきは……ふらない……」
「わかってるわよ、ララ! ただのたとえ話じゃない!」
「ところでご主人! 何をやってるっスか!? 花っスか? 花育てるんスか!?」
「ちょっとタスク、お花を育てるなら、
わかった、わかったから。ココもロロもララも、少し静かにしてくれ。家の中では体調の優れない妊婦が休んでいるんだからさ。
とはいえ、突然にやってきては賑やかなやりとりを繰り広げる妖精たちを前に、オレはちょっとした幸運の気配を感じていた。
これから行おうとしている作業も、この三人がいれば上手くいくかもしれない。そんな思いを胸に、オレは妖精たちへある相談を持ちかけた。
「……どうしたのよ、改まって。ははぁん? さては悪巧みを思いついたとか?」
「悪巧みっスかぁ!? ご主人あくどいっスね!」
「……タスク……悪いの……ダメ」
……口を開こうとした矢先、妖精たちからいわれのない非難を浴びせられたんだが。ああ、もう、とにかくオレの話を聞けぃ!
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