263.ニーナの住居

 ニーナの口から発せられた図書館という単語に、オレは多少なりとも意表を突かれた。重要な施設というからには、もっとご大層なものを要求されると思っていたからだ。


 図書館を軽視しているわけではないけれど、このタイミングでどうしてそれが必要になるのか。オレの疑問に、ニーナは頷いて応じた。


「理由はふたつございますわ」


 ひとつ目。現状のフライハイトにおける人材不足の原因は、高度な教育を受けた人材が少ないに他ならない。図書館はそれを補えるきっかけとなり得る。教育水準の向上を図る意味でも、学びの場は用意しておいた方がいい。


 ふたつ目。領地には学校が設けられているが、それはあくまで児童を相手にした初等教育に過ぎない。領民へ高度な教育を施すには膨大な投資と教師の確保が必須である。高等教育への進路を希望する生徒は王立学院へ進学させればよいが、その事前準備の機会を与える場として、図書館はうってつけの施設となるだろう。


「早くから学校を設けられ、幼子への教育を施されている閣下であれば、ご理解いただけるはずですわ」


 ニーナはそう結ぶと、再びティーカップを口元へと運んでいく。……口調といい態度といい、お偉い学者さんを相手に話をしている気分だな。


「僕からも、ぜひお願いしたいですね」


 耳を傾けていたアルフレッドが賛同の声を上げる。


「行政府としても、早急に人材を確保する必要があります。高等教育を受けた後継の育成は必須ですよ」

「わかったよ。でもさ、図書館を建てるのはいいとして、肝心の中身はどうする?」


 こちらの世界における書物は知的財産と見なされ、一部の人々しか閲覧できないものだと聞いた記憶がある。確か、複製するしても許可が必要で、しかも限られた数しか許されないとか。


 図書館だけ建てたところで、本が一冊もない状態じゃカッコつかないだろ? こちらが用意できるとしても、エリーゼやソフィアたちが書いたマンガぐらいしか置けないし……。


「ご心配には及びませんわ」


 不安を解消するように、ニーナは柔らかく微笑んだ。


「私物の書籍を持参してきましたの。寄贈という形を取らせていただければ幸いですわ」

「申し出はありがたいけど、いいのか? 貴重なものとか混じってない?」

「私、智はひとしく共有されるべきだと信じておりますの。皆さんに手を取っていただければ、きっと本も喜ぶでしょう」


 それならいいけどと頷きかけて、オレはハッとなった。寄贈の申し出はありがたいとして、持参してきたという書籍は何冊ぐらいあるのだろうか?


 私物って言っていたし、そんなに量はなさそうだよなあ。うーん、せいぜい数十冊ぐらい、か? となれば、やっぱりさみしい図書館になるのでは……?


 そんな考えを知ってか知らずか、ニーナは安堵のため息を漏らし、口に出してはこう続けてみせた。


「よかった。申し出が断られてしまってはと、内心、不安に思っていたのです。五〇〇冊の書籍を運んできたのは、思っていた以上に大変でしたので……」

「……は? ごひゃくさつ?」

「はい。五〇〇冊ですわ」

「……五冊とか、五〇冊じゃなくて?」

「ええ。もっとも、少なく見積もってという話になりますけれど」


 ……えーと、つまりですね。庭へ高く積み上げられていた木箱。あの中身は全部が全部、書籍だそうでして。


 で、用意しておいた木箱にも収まりきれず、衣装箱にも詰め込んできたと。ニーナ嬢いわく、そういう話だそうです。


「あれほどの量ですし、送り返すわけにもいかないと思っておりましたの。一安心しましたわ」

「は、ははは……。それはよかった……」


 いや、そりゃ笑うしかないわ。そっかあ、あれ全部が本なのかあ。とてもじゃないけど家の中に入りきらないから、どうしようかマジで不安だったんだよね。


 ……あ、そうだ。不安に思っていたことが、もうひとつあったんだ。


「ニーナ、ひとつ聞きたいんだけど」

「なんでしょう?」

「引っ越してくるのはいいとして、家はどうするつもりだったんだ? まさか一人暮らしするとか、そういう考えなんじゃ……?」

「……? もとよりそのつもりでしたが……?」

「いやいやいやいや! ダメでしょ!」


 しっかりしているとはいえ、まだ一〇歳の子どもだぞ!? 一人暮らしなんかさせられないって!


 頭を振るオレに視線を向けながら、何かおかしなことでも言ったのかと言わんばかりに、ニーナは小首をかしげている。


「家を出る前、両親にもそのように伝えております。私としては問題ないかと……」

「ダメです! いい大人として見過ごせませんっ!」


 お父さんもお母さんも何を考えてるんだ!? ……いや待てよ? 「伝えている」と言っているだけで、「許してもらった」とは言っていないからな。もしかすると、ニーナ自身が勝手に一人暮らしを始めようとしていただけかもしれない。


 だからといって、はいそうですかと首を縦へ振るわけにはいかない。ちょうど部屋も空いているし、領主邸で暮らしてもらうことにしよう。


 そんなわけでニーナ、今日から君の家はこの領主邸ですっ! はーい、もう決定したので苦情は受け付けませーんっ!


 ……と、いい大人にあるまじき幼稚な論法で一方的に決めつけたまではよかったものの、言われた方としては、どうしていいのかわからないといった様子らしい。


 困惑の色を漂わせ、ニーナは恐縮したように呟いた。


「……その。ご迷惑ではないでしょうか……? 閣下のお住まいにお邪魔するなど……」

「迷惑なもんか。実家だと思って、遠慮なく寛いでくれ」

「しかし、閣下……」

「あと、その『閣下』も禁止っ! むず痒くて仕方ないっ」


 あまりに照れくさかったため、カミラやハンスにも禁じさせた呼び方なのだ。こんな小さな女の子から呼ばれるのは、違和感しか覚えない。


 間もなく助けを求める眼差しをニーナから向けられたアルフレッドは、肩をすくめ、苦笑交じりで応じ返した。


「ニーナさん。あなたがお仕えするのは、こういうお人なのですよ。爵位や権威などを気にも留めないのです」

「で、ですが……。だとしたら、どうお呼びすればよいか……」

「僕はタスクさんとお呼びしておりますよ。ニーナさんもそうなさったらいかがですか?」


 龍人族の商人はそう勧めるが、ニーナは戸惑いの面持ちを浮かべている。ちゃんとした家柄の子っぽいし、くだけた感じが苦手なんだろうか。


 とはいえ、ここで暮らしてもらう以上、こればかりは慣れてもらわないとな。『閣下』呼びが広まってしまうのは、オレとしても本意ではないし。


 同じ年代の子どもたちは、みんな『タスクお兄ちゃん』って呼んでくれているし、いっそニーナにもそう呼んでもらった方が、こっちとしても気楽なんだよね。


「僕としては『タスクおじさん』と呼ばせないところに、ささやかな抵抗を感じますけどね」

「うっさいぞ、龍人族。お前よりオレの方が年下なんだ。だったら『お兄ちゃん』でいいだろう」

「人間族は三〇歳を過ぎると中年と呼ぶ、そういう話を耳にしておりますが?」

「寡聞にして知らないな。四〇歳の聞き間違えじゃないか?」


 わずかばかりに毒気の含んだ軽口をたたき合っていると、やがて意を決したような声が耳元へ届いた。


「あ、あのっ!」


 オレとアルフレッドが視線を動かした先に、白い頬を紅潮させたニーナがいる。ソファから立ち上がり、胸元で両手を合わせ、口を何度も開閉させては何か言おうと必死な様子だ。


 ……あ~、なんというかさ。そんなに『お兄ちゃん』呼びが嫌だったら、普通に名前呼びでいいんだぞ?


 そんな風に声をかけようとした瞬間、ニーナは勢いよく首を横に振り、振り絞るような声で「違うのです」と呟いた。


「い、いざ、お呼びしようとしたら、何だか気恥ずかしくて……」

「ああ、いや。こっちこそ悪かった。無理強いをするつもりはないし、好きなように呼んでもらって」

「は、はい。お兄様……」

「……はい?」

「お、お兄様とお呼びしては……ダメでしょうか?」


 チラチラと上目遣いでこちらを見やるニーナ。まったくもって想定外の呼ばれ方に、オレはただ一言、「大丈夫」としか言えなかったワケで……。


「よ、良かったぁ……」

「うん、そうか……」

「それではあらためまして、これからよろしくお願いいたしますわ。お兄様っ」


 まばゆいばかりの笑顔を前に、何かが目覚めそうになったけれど、多分気のせいだと思いたい。

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