07.猫、再びの来訪
ザザーという音を立てて、浴槽から溢れたお湯が洗い場へ流れ落ちていく。
「あ゛ぁ゛~~~……。生き返るわ~~~……」
浴槽に身体を沈め、ほどよい温度を全身で感じながら、オレは肉体的にも精神的にも充足感を覚えていた。
風呂場の南側の壁は四角い穴を開けて窓を作り、遠くの海を眺められるようにした、自分の設計プランを褒めてやりたい。オレンジ色の空と青い海のコントラストは、見た目に美しい。
……いや、まあ、浴槽の設計は問題だらけだったけどね。終わり良ければ全てヨシとしようじゃないかと。
とはいえ、風呂の度に、毎回あんな苦労をしなければならないのは考え物だな……。水汲みの重労働っぷりは問題だよなあ。元いた世界の文明のありがたさが身に沁みてわかるわ、ホント……。
「……元いた世界、か」
オレと同じように、元いた世界から『ラボ』の世界へ転移した人って、果たして他にいるんだろうか?
いるとしたら、どこで何をしているんだろう? 漂着物があったとはいえ、ここの近くに人が住んでいる様子もなさそうだし。オレと同じように、この世界のどこかで、サバイバル生活に四苦八苦しているんだろうか。
そもそも、だ。転移してこの世界へきたからには、元いた世界へ戻れる手段があるのかどうかというのが問題なのだ。
「うーん、可能性として真っ先に考えるなら、ゲームクリアを目指すってことだけど……」
そもそもオンラインゲームの『ラボ』にはゲームクリアという概念がなく、エンディングも存在しない。
エンディングに近いのは、“ある条件”を満たした時に流れるスタッフロールなのだが……。それをゲームクリアと仮定するなら、条件はいくつか存在する。
この世界に存在する、いずれかの国の王となり、世界征服を達成する。もしくは暗黒世界に存在する、七頭の闇の龍を討伐。または世界中に散らばる十三の秘宝を発見する。さらに文明を発達させ、宇宙進出できる科学技術を開発……などなど。
「命がいくつあってもクリアできそうにないな、こりゃ」
オレは思わず苦笑した。というか、そもそも『宇宙進出システム』なんて、まだ未実装だしな……。一年以内の大型バージョンアップで実装されるらしいけど、お目にかかる前に異世界転移しちゃったし。……あ~あ、プレーしたかったなあ。
「でもなあ。今のこの状況も、割と楽しいんだよなあ」
そうなのだ。スキルは使えないし、チートなんてもちろん無縁である。更に言えば、ゲームの世界を忠実に再現しているわけでもない。
それでも、
「……我ながら、地味な異世界転移になっちゃったな」
華々しさとはかけ離れた暮らしなので、やることはまだまだ山積みだ。食料事情は相変わらず不安だし、あの「豆腐ハウス」も立て直したい。他の住民たちと交易をするなら森の探索もしないといけないだろう。
課題を挙げればキリがない。とはいえ、仕事に追われ、毎日終電間際に帰宅していた、数日前までの生活に比べると、生きているという実感が湧いてくるのだ。
「こっちの世界で、オレの人生を
一度きりの人生である。なるようにしかならないし、それなら少しでも後悔しない生き方を選びたい。なぁに、生きていれば、不便な生活も楽しくなるさ、うん。
ま、とにかく今は湯船からの絶景を楽しもう。水汲みで散々疲れたのだ。これ以上の考え事は、肉体面だけでなく精神面にも疲労が蓄積されそうである。
そう思い直し、オレは数日ぶりの入浴を満喫することに決めた。今日の所はゆっくり休み、心機一転、明日からまた頑張ろう……。
それに、事態が変化するような出来事は、そうすぐにはおきないだろう。ぼけーっと、そんなことを思いながら浴槽に浸かっていたものの、その予想は見事に外れることになったのだった。
***
翌朝、畑の様子を見に行こうと家を飛び出すと、思わぬ訪問者がオレを待ち構えていた。
「にゃー」
愛らしい声で鳴く三毛猫は、昨日とは違い、畑の近くへちょこんと腰を下ろし、こちらの様子を伺っているみたいだった。
「か、かわええ……!」
思わず声がこぼれてしまう。そのまま吸い寄せられるかのように、三毛猫へ足を向けた瞬間、オレは、はっと思い直した。
(不用意に近付いたら、逃げてしまうんじゃないだろうか……?)
猫は警戒心が強い。慣れてきたのかもしれないが、こちらから近付くのはまだ我慢していた方がいいだろう。
三毛猫も一定の距離を保ったままだし、もう少し時間を掛けて、こちらに害意がないことをわかってもらいたい。
猫へ笑顔を向けてから、オレは咳払いをひとつして、畑の作物を眺めやった。昨日は青々とした葉の付いた立派な茎が生い茂っていたけれど……。
一日経過したら、茎は更に伸びて黄色みを帯びた薄茶色に変わり始めていた。同様に変色した葉の近くから、丸々とした実が無数に連なって、頭を垂らすように実っている。
「うーん。見た目はなんとなく小麦っぽい感じだけどな……」
触ってみると、成熟まであと少しだけかかりそうな気配だ。ゲームと同じく、収穫できるまであと一日は様子を見た方がいいかもしれない。
とりあえず水やりだけは済ませ、別の作業へ取りかかることにした。一昨日から考えていた、作りたい道具があるのだ。
***
オレがどうしても作りたかったもの。それは魚を捕る罠である。
子供の頃に理科の時間で作った、ペットボトルで小魚を捕る罠のことを思い出したのだ。幸い、材料は揃っているし、似たような物を再現して作るのは問題ない。
木材と石材、それと伐採の際に入手した木の皮を手に、オレは家の外で作業を始めることにした。
中で作っても問題なかったのだが、慣れてきたのか、先程の三毛猫が近寄ってきてくれたため、せっかくだし、猫を愛でながら製作に取りかかろうと思ったのだ。
「撫でたいところだけど、逃げられたら嫌だしなあ……」
美しい毛並みに触れたい衝動をぐっと堪え、オレは早速、構築を始めた。
まず、木の皮を加工する。木の皮に含まれる繊維は、構築すると糸や縄へ変化するのだ。できたらこれを使って寝具を作りたかったんだけど。睡眠より、食事を豊かにすることを優先したい。
出来上がった縄はいったん置いておき、木材を構築して円筒状の容器を作る。水が流れるように、所々、小さい穴を開けておくのだ。
次に、円筒状の容器と同じ大きさの、底の開いた円錐を木材で構築した。ただし、魚が入る程度の穴を開けるため、先端から半分は切り捨てる。
作っておいた円筒状の容器に、穴の開いた円錐をはめ込み、縄で繋いだら罠の完成だ!
容器に重り代わりの石材と餌を入れて海に沈めておけば、餌目当てに円錐から入った魚を逃がすことなく捕まえることができるという、極めてシンプルな構造の罠である。
とはいえ、現代にもこの手の罠は多く存在し、有用だということは実証されているので、異世界でもその効果を期待したいところだ。いい加減、果実と貝だけの食事も飽きてきたしな。
「にゃー」
鳴き声に視線を向けると、いつの間にか、三毛猫がオレの足下に来ているのがわかった。……ここまできたら撫でても大丈夫だろうと、三毛猫の背を軽く撫でる。
「にゃー」
……うん、逃げる様子も嫌がる様子も無い。調子に乗って、顎下を撫でてみる。
「ゴロゴロゴロ……」
おお、喜んでる喜んでる! いやあ、異世界でも猫は変わらず可愛いなあ!
「魚が捕れたら、お前にも分けてやるからな。楽しみに待ってろよー?」
「にゃー」
うん、この猫のためにも、気合いを入れて魚を捕まえないと!
***
そんなこんなで三毛猫に見守られながら、黙々と罠を作り続け、出来上がった物は全部で六個。それを木桶に入れて、早速、海へ足を運ぶことにしたのだった。
すっかり慣れたのか、三毛猫はオレの歩く歩調に合わせ、横についてきている。うん、ここまで仲良くなったら、飼うことも特に問題ないだろう。猫がいるというだけで、これからの生活が楽しみになってくる。
気持ちの余裕ができると、足取りも軽やかになるもので、あっという間に海へ到着。罠へ入れる餌は、殻を壊した貝の中身を調達することにした。
人間のオレが食べて美味しかったのだ。魚だって喜んで食べるはずだと、餌を入れた罠をできるだけ遠くへ放り投げる。
「せーのっ!!」
振りかぶって投げた罠は二十メートルほど飛んだだろうか。音を立てて海の中へ沈んでいくのを見届けてから、罠につながっている縄を、砂浜にある流木へ固定しておく。
こうすれば波で流されることもないし、あとは明日の朝、罠に魚が掛かっているか見に来ればいいだけだ。
残りの罠も同じように放り投げたら、恒例の漂着物チェックへ移る。……とはいったものの、毎回、何かが流れ着いているわけではないらしく、残念ながら今日はこれといった物が見当たらなかった。
うーん、罠を縛り付けたやつ以外にも、流木は何本かあるけど、木材には困ってないしなあ。とりあえず、この前と同じく、貝類を採取したら今日は撤収だな。
海の恵みは本日もありがたく、この前のホンビノスガイみたいな白色の貝に加え、今回はムール貝のような紫色の貝も手に入れることができた。
白い貝を三十個、紫色の貝を十個、海水ごと木桶に入れて帰路へつく。重い物を抱えながら、孤独に長い道のりを歩いていた先日とは違い、今日は猫が寄り添って一緒に歩いてくれているお陰か、疲れもあまり感じない。
「帰ったら、ごはんにしような」
「にゃー」
こちらの話す言葉を理解できるのだろうか。例え理解できていないとしても、話し相手ができたのは嬉しい。
鼻歌交じりで家に着いたら、手に入れた貝の砂抜きをすることに。とはいっても、木桶には海水が入っているので、そのまま放置でいいのだが。ここで気になったことがひとつ。
「猫に貝食べさせたらダメだよな。塩分も摂取させると良くないし……」
とはいえ、他に食べるものといったら、例の「ミンゴ」しかないわけで。この果実が食べられないんだったら、やったことの無い釣りをしてでも魚を手に入れないと、三毛猫の食べるものがない。
うーん、一緒に暮らすと決めたからには、責任を持って飼いたいし。食事もちゃんとしたものを用意したいしな。一刻も早く、食料事情を改善しないダメだよなあ。
色々思い悩んでいると、ふと、足下にいた三毛猫がいなくなっていることに気がついた。「どこへ行ったんだろう?」と思うよりも早く、後方から声が聞こえてくる。
「そんなに考え込まんでも、食事はおぬしと同じ物でかまわんぞ?」
声のする方へ振り返り、オレは愕然とした。驚きのあまり、全身を硬直させたオレを愉快そうに眺めやりながら、声の主はなおも続けた。
「ああ、塩気も気にせんでよい。私はそんな軟弱な身体ではないのでな。しっかりとした味付けで頼むぞ」
声の主――十五、六歳ぐらいの女の子は、一糸まとわぬ姿のままで、頭上に生えた猫耳と、腰から生えた尻尾をぴょこぴょこと動かし、オレに食事の注文を告げたのだった。
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