@THreE

 日奈円かなえ 仍生よるは紀麗きうら夫妻との会食の場を設けたちょうどその頃。

 東京都港区、その大深度地下。

 連結5両編成の列車が、地上における山手線の線路を丸く整形し直径を広げたような円環状のレールの上を低速で走行していた。時速に置き換えれば、せいぜい60キロ程度。快速ではなく、各駅停車の速度である。その走行による振動は僅かながらに発生しているが、しかしそれを地上に届けるには遠すぎるほどに深い。

 複線ではない単線のまるで片道切符しか発行されないようなその円環線路を走る列車は、しかし満員とは到底表現することができず、せいぜい座席の6割が埋まっている程度にも見える。しかし、透明なガラスが貼られているのは先頭と最後尾のみで、残る3両の中の様子を外から伺うことはできないため、それが果たしてその車両のすべての乗員かどうかも判別が不可能だ。さらにその3両には、乗降用のドアも見受けられない。

 寝静まり、明日を始めようとする人々の休む日本国首都の地下を、その国のほとんどの人間が知ることのない、ある意思だけを積んだ列車が、ほとんど止まることなくぐるぐると回っている。



 料亭を出た日奈円 仍生は、すぐ近くに居を構える紀麗夫妻と別れ、歓談中に端末から手配した内閣情報調査室の車に乗車した。車両の前方を捉える視界にはまだ夫妻の並ぶ背中が見える。

「日奈円室長、お疲れ様です」

 日奈円が乗り込んだ直後に、運転を担当してきた職員が声をかけた。

「お疲れ」

「ご自宅でよろしいですか?」

「いや、東京拘置所に」

 労いのつもりもあっての運転手の言葉だったのだろうが、日奈円はあっさりと一言で却下する。

「かしこまりました」

 しかしその運転席についた職員は一切反論はしない。内閣情報調査室特殊情報解析班のトップには逆らえないらしかった。

「あ、拘置所前で降ろしたら帰ってくれていいからね。明日の朝、同僚が迎えにきてくれるから」

「了解致しました」

 日奈円の言葉には慈悲がある。決して乱暴に部下を使い倒すタイプではないように聞こえてくるため、職員は急な深夜の呼び出しにも応じるのかもしれない。

「ふう」

 日奈円のため息には少しだけ憂鬱が混じっているように思えた。

「やはり帰国早々のタスクでお疲れですか?」

「そりゃあね。って行って帰って風呂入って寝たいけど、そういうわけにも行かないじゃん?」

「深夜まで、そんな遠くまで出向かなくても」

「ても鈴木くん、自宅そっちのが近いでしょ?」

「確かにそうですが」

「なら帰りやすいじゃん。だからまだ在庁してたら呼び出そうと思った」

「ありがとうございます。って、いや、そういうことではなく」

「私のことはいいのよ。帰国直後だから仕方ないところはあるしね」

「まぁ、それはそうなんですが…」

 言い淀む鈴木と呼ばれた運転する職員。

「ああ、ごめんごめん。でもね、これが仕事だからね」

「……本当に大変なポジションですよね」

「仕方ないよ。自ら望んでしていることだから」

「頭が上がりません」

「今度紀麗んとこ飲み行こうね」

「ぜひ。ありがとうございます」

 車内に広がる少しだけ暖かい雰囲気の沈黙。

 日奈円は、少し休息ばかりに、首都高を走る車窓に寄り添って、景色をぼんやりと視界に映しながら過去に想いを馳せた。

 自分の過去を知ったのは何年前だったか。

 その時に何が起こっていたことを知ったのか。

 そして、この後向かう場所が、その過去と直接的には無縁とはいえ、それでも。

 自分は、何のために生まれて、何のために生きているのか。

 誤魔化かもしれないけれど、それでもそれが、自らをただの薄っぺらい紙切れ程度の存在ではなく、立体的に成り立たせるための柱の一つであることは自覚しているからこそ、およそ二年間日本を離れてできることをしてきたつもりである。

 犯罪には、市場が存在する。

 その手口や、動機、結果、犯人。その全てにある形で価値がつく。

 それらを裁くものに対しても同時に同様のことが起こる。

 この国ではかつての治安維持法が否定され、人の意思を取り締まることができない現在は、結果や予備動作で裁くしかない。

 そんな現状を打開し強化するためには、必要なことがある。

 正義があくまで先手を打つことができない以上、であれば先手を打てる側がより多くのパターンを作り出し、それに対抗しきるための正義を育成すべきなのだ。

 対処療法ではあるが、そうでもしなければ政治はビクともしない。自らに、想像もしない恐怖が降りかかるであろうことを実感させない限りは。

 首都高、葛飾区を走る車の車窓から見えた、東京拘置所。

 日奈円の目には、それが希望の入り口であり、諸悪の根源にも見えていた。


 そして、東京の地下で、その闇の脈は、ゆっくりと鼓動し始めている。

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