@TwO
その数時間前。
「済みません、特別にこんな遅くまで」
「いえいえ。明日は土曜でお昼もありませんし、それより何より、まずは帰国早々にも関わらずご贔屓にしてくださってありがとうございます、日奈円さん」
和服に身を包んだ、恐らくはその店の店主であろう女性が、カウンターに戻り、そう告げた後に真鍮のグラスを傾けつつある日奈円にそう返した。非常に上品な出で立ちの女性だ。恐らくはかなり頻度の高い礼儀作法や割烹の教育を終えて店に立っているのだろう。品の良さは、隠そうとしても不可能なように思えるほどの印象がある。
「こちらこそですよ。いつもいつも急な
「いいえ。今後もご
「さすがですね」
「もちろんです。あ、もうお客様お帰りになられましたが、いかがしましょう?」
「まだ時間大丈夫なんですか?」
「もちろん。まだまだ丑三つ時ですよ」
「では、私から差し入れを。紀麗、いいよね」
「問題なーし」
「そいじゃ、おでん少しいただきたいですけど、もしよければ、
「いいんですの?」
「もちろんです。我儘の報酬、と思っておいてください」
「ありがとうございます。あ、では…余り物になってしまうんですが、お出ししてもよろしいですか?」
入り口の扉を閉めきった後で、女将といって差し支えないであろう立場にあるであろう女性ー日奈円
が息梛と呼ぶ女性と日奈円のやり取りは、まるでリラックスしきっているようにそう展開された。日奈円の隣でカウンターに着席した紀麗も同様だ。どうやら二人とも顔なじみらしい。
「ええ。なんでしょう?」
「良品でなくて申し訳ないのですが、寒ブリと鯛がありまして、もしよかったらお付き合いいただけます?」
「大歓迎!」
声を放ったのは紀麗だった。
「いいですね。てか紀麗うっさ」
「いいじゃんよ。めっちゃ好き!刺身すか?しゃぶしゃぶ?」
「お好きなように」
「じゃあ刺身かな。そっちのが、柳もゆっくりできるっしょ」
「そうねぇ。捌いてはあるから、それでいっか」
日奈円との会話とは一味違う、紀麗と息梛の会話。
「……こういうタイミングで毎回思うけど、本当に息梛さんって紀麗のこと好きですよね」
「それはまぁ旦那ですからー。式にもいらっしゃっていただいたじゃないですか」
「それはもちろんなんですけどね…このテンションの紀麗慣れなくて…」
「あはははははは!それはそうかもしれませんねぇ。けど、たまにですけど、うちでもそうですよ?」
「そう?というと?」
「お伝えしたことありませんでしたっけ?あ、ないかもですね。たまに自宅に帰ってきて、一緒にいると、大概」
「おいこらやめろ」
「いいじゃない。隠す仲じゃないでしょ」
「…ま、まあ」
「なに、紀麗恥ずかしいのか?照れてんのかー!?こんな綺麗な嫁さんにいじられて!」
茶化したのは日奈円だ。
「うっせーわ」
「うっせー、じゃないでしょ?」
息梛の目つきがやや厳しさを帯びる。その目に睨まれた紀麗は、まるで蛇に睨まれたカエルだ。
「い、いや、今のは勢いっつうか…ってか早く座れよ。せっかく日奈円女史が言ってんだからよ」
「何その呼び方!気持ち悪!」
これもまた日奈円である。まるで悪寒でも走ったかのように身震いするようなそぶりを見せる日奈円。
「…つってもあれか。あまり名前とかで呼ばれたことなかったなぁ。え?あれ?紀麗さぁ、私のことなんて呼んでんの?」
「いいからその話はもう」
「私が聞く範囲内では日奈円、か。まあ、ちょっとテンション高いと仍生、ですかねぇ」
「くくく。なんで普通にそう呼ばないのよ。いっつもお前とか貴様じゃん」
日奈円の指摘とほぼ同時にカウンターに料理が運ばれてくる。上品なわかめ出汁の香り漂う大根や牛スジなどのおでん数品と、丁寧に盛り付けられた寒ブリと鯛の刺身だった。
「うっせーっつーの。とりあえずほら」
そういって、グラスを差し出した。
「あ、うん」
まるで人が変わったようなハッとしたような表情とともにグラスを持ち上げる日奈円。そんな仕草を見ながら、紀麗を挟んで反対側に座る息梛。夫婦と日奈円、という構図になる。
「今日は遅くまでありがとうございました。息梛さん。いつもそうですけど、本当に感謝してます。おかげで、なんとか進みそうです」
「いえいえ。お役に立てていることは嬉しいですわ。それがどんなことであれ、この国に必要なことですものね」
「ええ。確実に今よりいい国にしてみせますよ。では」
「はい」
「あ、もちろん、私のおごりです。紀麗の分も含めて」
「さすがボス」
「調子いいな」
「乾杯」
だがそうなのであればさっきの確認はなんだったんだと思ってしまう紀麗であるが、それぞれのグラスが、寄り添うように優しい吃音を奏で、短い間であろうと憩おうとする空気に、彼もそんな矛盾を一旦忘れることにした
夜は深い。
送り出した客人は、国政に関与している人間たちだった。その人間たちと、クローズドな料亭で会談を持った、帰国直後の内閣情報調査室職員たち。そこで交わされていた会話が、その先の未来に何をもたらすのか。
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