Stage14 四つの言葉
「きみは追わなくていいのかい」
思いがけず爽やかな口調で猿の姿形をとった
「彼女だよ。パラケルススといったっけ。あの魔法使いがいなければ、きみがこの『迷宮』を抜けることは難しいよ。彼女のことは離さない方がいいと思うな……。
「黙れ。この薄汚い猿め」
たったいままで猿の姿をしていた目の前の人型は、甲冑をまとったオオトカゲにとって代わられた。
「惑わされるな。お前が、この『迷宮』を脱したいと考えるならそれは叶うだろう。何者の助けを借りる必要もない。すべてはお前ひとりの力で達せられるはずだ。なぜなら、それがお前の宿命。与えられた使命。果たさなければならない義務だからだ
「やだなあ。そんなのは堅苦しくて」
たちまちオオトカゲの姿がかすんで見えなくなると同時に、それが猿と入れ替わった。まるでひとつの身体をふたつの
「なぜそんなに規定したがるのさ。彼のプレイを型にはめようとするんだい? あたかもなにかルールがあるよう“player”に提示してみせるのは、フェアじゃないよ。それこそ『欺瞞』だね。このゲームはいまも、そして将来に向かっても自由に開かれたシステムじゃないか。
「小僧の論理だ
「論理なんてもんじゃない。事実さ。むしろ理屈の合わない論理をふりかざそうとしてるのは『欺瞞』の方だろう。
「そのあたりでやめておいたら?」
猿の姿に代わって、仮面を付けた女の姿があらわれた。その細い腕でふたつの幻影をねじ伏せるように。
「この子、あっけにとられてるわ。いまにも泣き出しそう。ねえ、あなた。『未来』も『欺瞞』も怖くはないのよ。二人ともあなたのことを思ってああいっているだけ。逃げ出したりしないでね」
女の表情はのっぺりと光沢のある仮面に隠されて知ることはできないが、その声音は鈴がなるように美しく、思わずよく聴こうと耳をそばだててしまう。
「気をつけるんだな、若い“player”。こいつは『誘惑』だ」
華奢な体つきの女が消えて、再びたくましいオオトカゲがあらわれた。彼らは次々と姿を変えておれの前にあらわれる。暗がりの中に、ぼんやりと照らし出された幻燈のようにゆらめきながら。
彼らは明らかに実体を持っていない。ゆらめき、たなびき、重なって存在する魂だけの存在――
「誘惑……?」
「“player”を魅了してしまうんだ。目を閉じてやつを見ないようにしろ。耳を塞いで声を聞かないようにしろ。永遠に魂が囲われてしまうぞ。あの女は『誘惑』と呼ばれている。おれは『欺瞞』で、猿の野郎は――
「『未来』さ。だれが名づけたんだろうね、みんなそう呼ぶのさ。『欺瞞』にしては、まともなことを話すじゃないか! もしかして、ぼくたちをそう呼びはじめたのは、きみだったりして」
冗談だったのだろう。猿のような幽霊は、長い手で毛むくじゃらの顔をなでながら歯を剥いて笑った。
「欺瞞……。未来……」
おれの身体のどこかにこれらの言葉がちくちく突き刺さる箇所がある。それはどこだろう。あれはいつのことだろう。わからない、思い出せない。
「いいのよ、無理に思い出そうとしなくって。あなたはあなたのままでいい。だれからもなにも強要されたりしないわ。『未来』や『欺瞞』のいうことに耳を貸さなくったっていい。ただ、わたしを見て、わたしの声を聞いて、わたしにすべてを預けて――」
『誘惑』の声は耳を塞ごうとしても、するりとそれをすり抜けておれの耳道に忍び込む。軽く心地よく鼓膜を叩く。おれは魅了されてしまう。
「さあ、こっちへ……」
細くてしなやかな腕が、暗がりのなかこちらへ差し伸べられる。白く輝くような肌。剥き出しの裸体。華奢な胸と豊かな腰が描きだす柔らかい曲線から目が離せない。これはだめだ。危険だ。漆黒の仮面と黒く豊かな髪は、獲物をつなぎとめるためのくびきだ。おれは逃れられない。
ざっと空気を切り裂く音がした。壁際の棚に置いたあかりの炎が揺れた。
薄暗がりのなか、裸の女の白い腕がちぎれて飛んだ。女の悲鳴。床に落ちた影のゆらめき。オオトカゲの怒号。叩き落とされた白い刃の剣、ひきちぎられた銀の甲冑。幽霊たちは悲鳴のこだまを残して、タペストリーの小部屋からかき消えた。
「誘惑の
「惚けた顔で、あの女の身体を見てたからだよ。だらしないったら……」
忌々しそうに彼女は繰り返した。
「やつらはいったい?」
ほらと
「
ひひっと、ひきつれたような笑い方をするパラケルススを見ている間に、その死体がにじむように形を変えて、陰気そうな小男の形をとった。一瞬だった。おれの腰の高さほどしか背のない小男は、奇声を上げておれとパラケルススに飛びかかろうとした。
ぼうっ。
三つある左腕のうち一番長い腕をひと振りすると、小男が一本の火柱に変わった。長い悲鳴。のたうちまわる幽霊。次の瞬間、パラケルススの太い尾が小男を一打ちすると、依代となっていた“player”の亡骸ごと小男は木っ端微塵に砕けて――消えた。
「四匹め、か」
「あいつは、なんだったんだ?」
「あんたなら、知ってるはずだろ。ほら――」
パラケルススはその隻眼を細めた。あかりの炎を映してその瞳が赤く輝く。おれがこいつに裏切られないという保証がどこにあるだろう。しかし、もう引き返せない。
「あいつの名は『小さな絶望』さ」
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