第13話 扉をくぐったぼくは、暗い部屋で震える。

 ぽたり。


 首筋になにかが落ちてきて首をすくめた。冷たい。手で拭い、指の腹で確かめてみるとその無色透明の液体は、さらさらとした手触りで匂いもない。水だ。


 振り仰ぐと、薄暗がりのなか、高さ4メートルはありそうな天井のクロスが大きく波打ち、一部は剥がれて垂れ下がっていた。水は、その垂れ下がったクロスの先端から落ちてきていた。


「雨漏りですよ」


 徳山刑事が、不快そうにカビで真っ黒に変色したクロスを見ていった。ぼくも同じような顔をしているに違いない。ここは真っ白なクロスで覆われたこの家で一番上等な応接間だったのに。


 庭に面した南向きの大きな窓には、厚いカーテンがかけられていてまぶしい光を遮っている。窓は閉め切られているが、室内の温度は高くない。むしろ、ひんやりとしているといっていいくらいだ。エアコンが作動しているのかもしれない。照明はついていない。


 応接間には大きな木製のテーブルといくつものソファが置かれていたはずだ。おじいさんが中国から取り寄せた、選りすぐりの家具だった。いまそこには、新聞や雑誌がうずたかく積まれ、家具は見えない。足元の床も散乱した新聞紙に埋め尽くされていている。この部屋で雨漏りがはじまってから長い時間がたつのだろう。新聞、雑誌は水気を含んで変色し、かび臭い匂いを発していた。


「立派なおうちだが――。なんというか凄まじいものだね」


 西野医師のいうとおりだった。この家の状況を言い表すのに「すさまじい」以外の表現がみつかるだろうか。この部屋だけではない。玄関も、廊下も物で溢れかえっている。


 新聞や雑誌の類いが積み上げられていることはもちろん、赤くチェーンが錆び付いた自転車が何台も並んでいるのは戸外から持ち込んだものだろう。壊れた扇風機や前扉のない電子レンジもある。それらがらくたの上に、コンビニやスーパーのレジ袋らしい包みが、これでもかというくらいに乗っけられている。いくつか手にとってみたが、おにぎりや菓子パンの包装袋、ジュースやお茶のペットボトルや紙パックなどごみばかりだった。どこもかしこも足の踏み場もないくらい散らかっていて、廊下にだけやっと人ひとりが通り抜けられるほどの“道”がついている――といった具合だ。


「ごみ屋敷というやつだな」

「ひどいもんです」

「家中こんな風なのかね」

「はい……。少なくとも一階は」


 徳山刑事は顔をしかめて、しきりに鼻を気にしている。臭いのだ。締め切られた屋内にはうっすらとすえた匂いがこもっていた。


 ゴミの山のなかに、コンビニのレシートやATMの利用明細ばかりがきちんと束になって収められているレジ袋があるのを見つけた。


「なんですか」

「レシートですよ……全部。なんのつもりでこんなことするんだか、さっぱり分からない」


 レシートはどれも、五年以上前のものばかりだった。ぼくはレシートの入れられた袋を放り投げた。袋はほこりをかぶった自転車の歪んだスポークの上に落ちた。


「家はごみでいっぱいだし、何年もこの家にはきていないけれど、これは異常だよ。何年も会わないうちに、叔父さんはおかしくなってしまったんだろうか」


 問いかけは、この家を覆ううす暗い空気に吸い込まれてゆき、答えは返ってこなかった。ぼくは二人とも同じように感じているのだと理解した。


「さて、取りかかるとしようかね」

「はい」


 医師と刑事は、ぼくには分からない暗号のようなやりとりをして、応接間を出ていった。


 ぼくはなぜ彼らがこの家にやってきたのか知らない。なにを探しているのかも知らない。なぜぼくがここに呼ばれたのかも分からない。単にぼくがこの鍵を持っていたからだろうか。彼らが必要としているのはぼくではなくて鍵なのだ。


 必要とされていないと知ってしまうと、少し寂しく、無力感すら感じる。しかし、これまでぼくがなにかの力を持っていたことが一度でもあったのかと考えると、そのようなことは、生まれてからこの方一度もなかったと思い至らずにはいられない。なんだ、これまでとなにも変わらないんだ。


 ぽたり。


 すぐそばに置いた新聞紙の束の上で、黒いクロスを伝い落ちた滴のひとつがはじけて染みを作った。ぼくは医師と刑事を追った。

 

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