第9話 バスに乗ったぼくは、子どもの頃を想う

 バスの窓から見える景色が高くなってきた。くすんだコンクリート色の街が、揺れながらぼくの足の下に遠ざかっていく。


 その向こう側に、青い空をうつして群青色の海が広がりはじめた。きらきらきらきら、太陽を反射してかがやく波頭。何隻もの大型船が接岸する港も遠くに見えている。


 岸壁にずらりと並べられたコンテナにはなにが詰まっているのだろうか。あの船は中国へも行くのだろうか。


 バスはおじいさんの家へ向かって坂を登っている。でも、ぼくはあの家のことがあまり好きではない。よそよそしく感じるからだ。受け入れてもらえそうにないからだ。


 いまでは足も遠ざかってしまったけれど、子どもの頃は、ときどきおじいさんの家を訪ねていた。


 あの頃は、お父さんがいて、お母さんがいて、お兄さんがいた。ぼくたちが訪ねていくと、エプロンをかけたおばあさんがにこにこしながら出迎えてくれ、ぼくは真っ先に手を引いてもらって、居間の食卓にずらりと並べられたおばあさんの手料理を食べさせてもらうのだ。


 やがて会社から戻ってきたおじいさんも上機嫌で居間にやってきて、ぼくたちの輪に加わる。ぼくたち家族とおじいさん、おばあさんがひとつの食卓を囲む楽しい夕ご飯。


 ぼくはおばあさんのそばでおかずをほおばりながらみんなを見ている。おじいさんとお父さんはビールを飲みはじめている。おばあさんとお母さんは箸を止めておしゃべりに夢中だ。お兄さんは夕飯を食べ終えてテレビのスイッチを入れる。毎週みているアニメがはじまる時間だ。


 とてもゆったりとした時間がおじいさんの家を満たしている。日が落ちたあとも残照が鮮やかな空と、次第に紺色が深くなってゆく海に向かって開かれた窓からは、潮の香りとともに船の鳴らす汽笛の音が流れ込んでくる。


 子どもの頃は揺蕩たゆたうように流れるこの時間が好きだった。金色に輝く空が影の池に沈みこんだ街。海と街を覆う赤銅色の輝き。刻々色を変えてゆく空。何もかもが、このときのまま停止すればいいのに。


 ぼくは満ち足りた気分で、藍色が濃くなってゆく窓の外を眺めるのだった。


 それがいつの頃からか、おじいさんの家には、とげとげした空気が忍びこんでくるようになった。ぜんたいそれがいつのことだったのか、まだ小さかったぼくはよく覚えていない。


「あいつはどうしてる」


 おじいさんの声だ。早口で少し高い声。いらいらしている。


「あの子は部屋にいますよ」


 それに応えるおばあさんの声も「もう何度めなのかしら」とうんざりしている。さっきからおじいさんはそのことを気にしている。


「いいのよ気分が良くないのなら、わざわざ降りてこなくても」


 ちょっとあわてた調子でとりつくろうように話すのはお母さん。


「いや、公子きみこたかしくんが子どもたちを連れてきているんだ。あいさつくらいさせなさい。お母さん」


 おじいさんの声は明らかに不機嫌になっている。


「嫌だといってるのに……」


 こんなこと無理強いしなくてもと、つぶやきながら腰を上げるおばあさんの声に、押しかぶせるようにおじいさんの声。


「お前が甘やかすから、あいつもこうなってしまったんだろうが」


 一瞬、大人たちの時間が凍りついてしまうのが、子どものぼくにもわかった。「あいつ」とか「あの子」とか呼ばれていた人が、この家の三階に帰ってきていた。それが叔父さんだった。彼がやってきたときから、この家は変わってしまった。





 バスはその家の前にゆっくりと停車した。丘を登りきったところにあるロータリー式の停車場。歩道をほんの少し歩いてそこにある門をくぐると、もうおじいさんの家の庭だ。南向きの日当たりのよい一等地。この丘の上に広がる住宅地は、この家を扇の要のようにして広がっている。


 バスを降りると、停車場でふたりの男がぼくを待っていた。刑事の徳山と西野医師だった。

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