第7話 警察から戻ったぼくは、母と言いあらそう

 ゆさりと体が揺さぶられ、ぼくは目を覚ました。バスは丘を取り巻く外周道路に差し掛かったところだった。エンジン音が高くなり、乗客が左右に揺さぶられる。目的地まではまだしばらくある。ゆっくりと坂を登り始めれば、窓の外に海に向かって開いた街がその姿をあらわしはじめた。


 叔父の家――母の実家は、この海を望む丘のてっぺんにある。贅を凝らした三階建てで、屋上からは海に突き出たこの街を一望することができる。ぼくのおじいさんが建てた家だ。


 おじいさんは貿易商だった。

 街の港に小さいながらも事務所を構え、中国大陸から雑貨を輸入していた。おじいさんはこの国で生まれ育った人だったけれど、おじいさんの父親――、ぼくのひいおじいさんは大陸生まれの人だった。つてを頼って開拓した輸入ルートは、ひいおじいさんだけの秘密で、買い付けた大陸の雑貨は、日本の住む中国人、台湾人の間で飛ぶように売れていったという。


 ひいおじいさんが死んで、おじいさんの代になり詳しいことは分からなくなってしまったけれど、ひとつ確かなことは、お金持ちのおじいさんが街を見下ろす丘の上に、さして大きくはないけれど、ぜいを凝らした家を建てたということだけだ。ぼくはいまその家に向かっていた。





「そう。よかった」


 あの日、すっかり日も暮れた時刻にぼくがおじいさんの家の鍵を持って帰ると、母はそう言ってよろこんだ。テーブルの上にはささやかな夕食が用意されていた。


 刑事から受け取った銀色の鍵を差し出すと、じっとそれを見つめたけれど、ぼくの手の中のそれを受け取ろうとはしなかった。


「どうしたの。お母さんからもらってきてくれと頼まれた鍵だよ。さあ、受け取って」


「それは、持っていて」


 赤ん坊がイヤイヤをするようなしぐさで、母は首を振って後ずさりした。


「どうして。おじいさんの家に置いてあるお金が欲しいんだろう? この鍵があれば、お母さんがおじいさんの家へ行って、そのお金を探せるじゃないか」


「わたしが?」


 母はとても驚いたといった表情で、ぼくの顔を見返した。心の底から意外なことを聞かされたという目をしていた。


「いやよ」


「だって、お母さんがお金が欲しいっていったんだろ。わだから、ぼくは仕事を休んでまで、行きたくもない警察へ行ったんだよ」


「その代わりに、おじいさんの家にはいりこみ、隠してあるお金を探せと言うわけ? わたしに泥棒のまねをしろって?」


 よくも母親にそんなことがいえたものだと責められて、ぼくは言葉が継げなくなり、おじいさんの鍵を持ったまま立ち尽くした。なんのためにぼくは警察へ行き、叔父の死体と会い、鍵を持って帰ってきたんだろう。


「じゃあ、お金はいらないんだね」

「そんなこと、いってないでしょ」


 母のいうことはときどき筋がとおらない。


「お金はいるのよ。桝本さんとお食事会へゆくもの。いつもいつもお母さんは同じ洋服に同じバッグなの。桝本さんやお友だちは一度だって同じ洋服や同じ持ちもので食事会へくることはないんだもの。お母さん、そのことが情けなくって。お金はいるのよ」


 桝本さんは母の若いころからの友だちで、明るくて気のいいおばさんだ。お金持ちではあるけれど、そうであればこそ、陰で母のことを悪くいうようなことはなさそうな人なのに、本人としてはそうともばかりは考えられないらしい。


「由実さんにしてもそう。わたしが貧乏たらしいものだから、さとる隼人はやとをわたしに会わせたくないんだわ。いつも『そのうちに、そのうちに』というけれど、もうあの子たちとは五年も会わせてもらってないんだから。お金はいるのよ。そうでしょう」


 由実さんは、東京に住んでいる兄の奥さんだ。悟と隼人は兄の息子たち。由実さんと母はあまり折り合いがよくない。そしてそれは、決してこのうちが裕福でないからばかりではないとぼくは思っている。


 鍵はいらない。おじいさんの家には行きたくない。でも、そこにあるお金は必要だ――こんな問題は解けない。


「お金をとりに行かなくちゃいけないわ」

「かりに――」


 つばをごくりと飲みこんでぼくは続けた。お母さんのいうことは、まちがっている。ぜったいに。


「かりにお金が必要だとして、おじいさんの家にあるのはお母さんのお金じゃない。叔父さんのお金だろ」


 それを叔父さんが死んでしまったからとはいえ、だまってその家から持ちだしてしまうなら、それはどろぼうだ。


「ぼくにどろぼうしろっていうのか」


 頭のなかが、かっと熱くなって声が大きくなるのがわかった。情けない。ぼくは間違っていない。そうだろう? ぼくは正しい。恥ずかしい。こんなことを息子にいいつける母が情けない。そして結局は、そんないいつけに逆らえないだろうぼく自身が恥ずかしかった。


「受けとれ!」


 目の前に鍵を突きつけても、母は頑固そうな視線をぼくからそらそうとしなかった。固く結んだ口元、みじめにしわの刻まれた唇をかすかに震わせている。怒っている。腹を立てているんだ。お母さんが怒っている。


「受けとれったら!」


 そのときには興奮と混乱とで、ぼくはパニックになっていた。こうなってしまうと自分でもどうしようもなくなってしまう。母の足もとに鍵を投げつけるととなりの自室へ飛び込んだ。


 頭の芯が焼けるように熱かった。畳の上にたたまれた布団の上に身体を投げだして身もだえする。お母さんは怒っている。でも、ぼくも怒っている。どちらの怒りを選べばいいのだろう。ぼくには選べなかった。


 どうすればいいのだろう。ぼくはひどく震えはじめた身体を抱きしめたまま、汗のにおいのしみついた布団の上で、固くなっていた。もう長い夜がはじまっていた。

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