Stage6 酒場の女(NPC)
「あまり冷たくはないけれど――」
タンブラーに注がれたビールは冷たいどころか生温く、岩盤をくり抜いて作られた酒場には大勢の人間が集まり、人いきれと喧騒に満ちていた。胸元をあらわにした女が身体をすり寄せてきて、たちのぼる肌の匂いがおれの脳天を痺れさせる。
薄暗い酒場、食器のぶつかる音、銃や剣もあからさまに荒んだ声で話す男たち、疲れた顔でそれでも嬌声を上げて笑う女たち、だれもおれたちを見てはいない。
「乾杯。『鍵』とあなたの未来に」
声が大きい、だれか“player”に聞かれたら……。
「だれも聞いてやしないわよ」
女がタンブラーのビールを勢いよく飲む。すっと伸びた首すじが震える。白く滑らかな肌が赤みを帯びはじめた。
「楽しめばいいじゃない?」
女の湿っぽい身体が絡みつく。柔らかい胸が、豊かな腰が、おれの胸と腰とに押し付けられて、腹の奥底に火が灯る。その身体に手を回す。女の匂いが強くなり、酒場の喧騒が一瞬遠くなった。
「強く……抱いて」
熱い吐息を耳朶に感じる。すぐそばにある潤んだ瞳と濡れた唇に、心が吸い込まれる。おれはおれの炎に包まれていく……。回した手に力を込めると、細身の体は容易くたわむ。一層強い匂いが立ち上って、おれはぐっと奥歯を噛み締めた。
――なにをやってるんだ?
突き飛ばすように女の体を自分から引き剥がす。信じられないといった女の顔。急速に冷えてゆく体。ふたり離れた拍子に首に下げた細い革紐がぶらりと揺れた。酒場の灯りを受けた『鍵』が鈍く光る。
「なに――」
笑顔を取り繕う女。そうだ。彼女たちは“player”の前で取り繕う。そんなことはよく知っているはずじゃないか。
「なによ。カッコつけてるんじゃないわよ! ゲームをはじめたのはあなたなのよ」
微笑みの仮面が引き剥がされた。仮面の下になにが隠されているのだろう。おれはなにも彼女のことを知らない。知る必要がなかった、これまでは。
しかし、ゲームは『鍵』を手に入れた“player”に、牙を剥きはじめた。おれはこのゲームについてよく知らなければならない。
「抱けばいいのよ。いつものように私を。それとも『鍵』を手に入れれば、NPCは用なしってわけ?」
そうだ。彼女はゲームの用意したNPC(non-player character)。迷宮の酒場にいて“player”の相手をつとめる名前も与えられない女。彼女はかさにかかって まくしたてる。
「『鍵』を使ってここから出ていけば? そして、本物の女を抱けばいいのよ。あなたにそれができるならね」
今度は逆に彼女が立ち上がっておれを突き飛ばした。その口調は氷のように冷たい。
「あなたがここへやってきたのは、なぜ? よく思い出してみればいい。なにに失望し、なにをあきらめ、どうしてここへやってきたのかを」
おれはよろめくように腰を浮かせて、彼女に背を向けた。ここにいる理由はもうない。はやアルコールが回ってきたのか、頭が痛い。フロアいっぱいの男と女をかき分けて、おれは出口へ向かった。
「どうして出ていこうとするの? あなたが望んでここ(迷宮)へやってきたんじゃないの。出ていくためにやってくるなんて滑稽よ。そうでなければ悪夢ね、きっと」
そうだ、これは悪夢に違いない。痛いいたい頭が痛い。床と天井がつぎつぎと入れ替わってぐるぐる回ってやがる。どこまでも人の壁が続いて果てがない。これが夢ならはやく覚めてくれ!
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