第5話 遺体安置所でぼくは、もうひとつの鍵を手に入れる。
兄は東京に住んでいる。
東京の有名な大学に進学し、一流企業に就職、結婚して、東京に住んでいる。3LDKのタワーマンションに奥さんと二人の男の子、高校生と中学生、兄に似て学校の成績は優秀らしい。上の子は来年、大学受験だ――。
どうして兄のことなんか思い出したりしたのだろう。ほくはずっと兄とは会っていない。電話ごしに話したことも、メールひとつ寄越されたこともない。彼のことは母を通じて伝えきくだけだ。ときおり母の携帯電話に着信があり、兄の声がもれ聞こえてくる。母はぼくから隠れるようにしてそれを聞いている。
わずかそれだけのことだ。
父の葬儀で会ってからずっと兄とは会っていない。彼の家族、その姿をぼくは見たこともない。
兄のこと、彼の妻のこと、彼の子供たちのこと、全部母から聞かされる物語の中の登場人物としてぼくは彼らと接している。
結局、ぼくは兄のことをなにも知らないのかもしれない。
どうして――。
※
「遺体の確認をお願いします」
そうか、それは「死」でつながっているんだ。父の死がぼくと兄をつないだように、叔父の死が、ぼくとまた何かをつなごうとしているのかもしれない。
ぼくがまだ気づかない何かと。
大きな金属製の台の上に、ねずみ色をした長方形の袋が横たえられている。ポリ塩化ビニルの袋は、ちょうど大人の背丈くらいの大きさで、人の形にふくらんでいた。上面に大きく「190117」とサインペンで書かれている。これが叔父を指し示す番号なのだろう。
台に近づくと、蛍光灯の光を反射して金属の表面がぎらりとかがやいた。夏なのに吐く息が白い。遺体安置室の空気は冷たかった。徳山刑事がすっと手を伸ばし、ビニール手袋をはめた手が叔父を収めた袋のファスナーを引いた。
臭気を感じた。顔をそむけたくなるほどの強烈な臭気だ。そして、袋のなかは――黒い。なにか黒いものが収まっていた。
最初、ぼくにはそれが何だか分からなかった。袋からは叔父の青白い顔が現れるものだと思っていたので、突然、目の前にさらされた「それ」がなんだか見当もつかなかった。
それは腐ったカボチャのような濃い褐色で、全体がしわにおおわれていた。それがぬめぬめと光沢をもってうごめいている。
そして、強い臭い。
刑事がさらにファスナーを引き下げると、それがころりと金属製の台の上にころがり落ちた。その拍子に、白髪まじりの後頭部があらわれた。頭部――それはたしかに人の頭だった。
「なにをやってるんだ!」
その大きな声は聞こえたけれど、ぼくの目は台の上にころがり出たものに釘づけになったまま動かせないでいた。蛍光灯の明かりのもとで見るとそれは確かに人の頭部だった。ところどころはげ落ちた髪の毛、ぬめぬめと光っていたのは、粘液におおわれ暗褐色に変色した皮膚で、それがうごめいて見えたのはその皮膚の上にも下にも、無数のうじが這いまわっていたからだ。
「徳山くん! 遺体を収めるんだ!」
小柄な白衣の男が体ごとぼくと金属台の間に割り込んできた。視界が白い上着でさえぎられる。
「なにを考えているんだ。遺族にこんなむごいものを見せようとするなんて」
「しかし、死体の身元確認が済まないと手続きが進められません」
徳山が反論する。ぼくの頭の中では、まださっきの見た腐ったカボチャのような人のアタマが明滅していた。
「手続きなんぞ、あんたたちの都合だろ。こんな遺体を見せられて人がどういう気持ちになるか、考えてみたことがないのか! まったく度しがたい連中だな、警察というのは」
「西野先生――。いくら先生でも言葉が過ぎるということがありますよ」
それから、うじ。口からあふれ、眼球を食い破って、皮膚をうねうねとうごめかせる小さなうじ虫。ぼくは両手で顔を覆った。この皮膚の下にうじの感触があったらどうしたらいい?
徳山と白衣の男――どうも医者らしい――は、なおも何か言い争いをしていたけれど、しばらくするとそれも収まり、医者にうながされてぼくは部屋を出た。
「不快な思いをさせてすまなかったね。徳山くんには言い聞かせておく。――西野という。ここの警察医をしている」
ベンチに並んで腰を下ろすと西野医師が話しはじめた。改めて見ると、ぼくの父親くらいの年恰好をした小柄で優しそうな医者だった。
「ご遺体は、きみの叔父さんだそうだね。お気の毒なことだ」
「いえ」
あれが叔父だったのか。あの腐った果物のようなあれが。
「自宅で倒れているところを発見されたときには、すでにかなりの日数が経っていたんだよ。警察に依頼されて、私が検視に立ち会った。ご遺体に外傷はない。病死と思われる」
日数が経つと、人の姿はああも変わってしまうのだろうか。叔父はうじに食われ、頭は身体と離れてしまっていた。
西野からは、叔父の普段の生活状況とか、病気で通院していた事実はあったかとか、服用している薬はあったかとかたずねられたが、ぼくにはなに一つ満足に応えられるものはなかった。叔父について知っていることなどほとんどなかったからだ。
叔父は、生きているときも、そして死んでしまってからも、だれからもかえりみられることはなかった。なにを思ってひとり自宅の床に倒れ、どう感じながら死を迎えたのだろう。そう考えてぼくは身ぶるいした。そんなこと、ぼくには耐えられない。
徳山刑事が部屋から出てきて扉に鍵をかけた。むっつりとした表情が暗い。
「今日はもう、結構です」
「……叔父は……。うちでは叔父は引き取れません」
そもそもそのためにぼくは警察署にまでやってきたのだった。ぼくと母に亡くなった叔父を引き取る意志はないと伝えるために。
「それも身元が分かってからの話になります。今日はもう、結構です」
繰り返しそう言って刑事は目を合わせようともしない。嫌われてしまったのだろうか。ぼくが相手なら無理もないことだと思うけれど。
「まだしばらくは警察で預かってもらえばいい。叔父さんの身元は、私が責任をもって警察に調べさせよう」
西野医師がそう請け合ってくれた。身元が判明すれば改めて連絡するといって、徳山は一本の鍵を取り出した。
「ご自宅の鍵です。お返しします」
手のひらに鈍く光る銀色の鍵が置かれた。ぼくがここにやってきたもうひとつの理由がこれだ。
鍵は水に濡れたように冷たかった。
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