第3話 叔父の死を聞かされたぼくは、仕事を休む。

 フラグは立てた。

 ただ単に運がよかっただけなのかもしれない。殺すことはなかったのかもしれない、でも『鍵』を手に入れるという最低限の結果を残すことはできた。探索の足を伸ばすのはまたあとでいい。


 いまはこれで満足しようとコントローラーを置いたところで、晩ごはんをお盆に乗せて母が部屋にやってきた。少し足を引きずっている。母は七十歳を過ぎたころから、ひざを悪くしている。


「ちょっといい?」


 テーブルにぼくの食事を置きながら、母が話しかけてきた。ちらりとデスクの上のディスプレイモニターに送る視線がくもっている。ぼくが自宅にいる間はずっとゲームをしていることを、彼女がよく思っていないことは分かっている。でも、母がぼくのゲームをじゃましてまで話しかけてくるなんてことはほとんどなかったことだ。


 そのときからいやなかんじだった。


「なに忙しいんだけど」


 そう言ってみたけれど、モニターに映し出された『Mssing Quest』は、たったいまフィールド画面からタイトル画面に戻ったところで、“play start” の文字がぼくを誘うように明滅している。二人の間に白々しい空気が流れた。母がぼくの部屋にはいるタイミングをうかがっていたのはまちがいない。


「ごめんね。でも、ちょっと聞いて。今日、警察から連絡があったの」

「警察?」


 ますますよくない。不吉な予感で胸がざわついた。なんだって彼女はぼくを不愉快な気分にするんだろう。あらゆる意味で警察なんかとは関わりたくない、面倒なことは知りたくない。


「叔父さんが死んだんだって」


 つかの間、頭の中に空白が生まれた。

 母は、ぼくの前にきちんと座ってエプロンの端で指をぬぐっている。


 母のいう「叔父さん」とは、彼女の弟のことだったはずだ。彼が死んだ? 母の表情がくらくなるのもあたりまえだ。でも、彼は姉よりずっと若い。病気だともきいたことはない――もっとも、彼の存在をぼくはずっと忘れていたわけだけれど。


「どうして」

「分からないわよ。ずっとあの子から連絡はなかったんだから」


 警察も電話ではくわしいことは説明できないという話があったらしい。叔父は自宅で倒れているところを近所の人に発見され、通報を受けてやってきた警察官により死亡が確認されたのだという。


「それでね、遺体を引き取りにきてほしいって警察署が電話してきたのよ」

「ぼくはいやだ」


 記憶のなかに叔父の姿を探してみると、十年前に死んだ父の葬儀に参列した彼を思い出すことができた。青白い顔をした猫背の男だった。母や親族の目をさけるかのように常に部屋のすみにいて、一度だけぼくの前にやってきたかと思うと「大変だったね」となにが大変なのかもわからなそうな口調でお悔やみを口にしていたように覚えている。それだけだ。以来、姿を見せるどころか、電話で声をきいたことすらない。そんな彼が死んだからといって、なぜぼくらが引き取らなければならないのか。


「わたしだっていやよ」


 でもねえといって母は長くため息をついた。その指先はエプロンの刺繍をなぞっている。


「あのうちにはまとまったお金が置いてあるはずだから」


 その金だけは引き取りたいと母はいう。叔父の自宅は、貿易商として成功していた頃の祖父が都心の一等地に建てた家で、母の実家でもある。事業はとうの昔に他人のものになってしまっているけれど、その時の売却益の一部がお金に変えられ、自宅にまだ置いてあるはずだというのだ。


「いらないよ、そんな金」


 と言えればどんなにかいいだろうと、ぼくは自分の周囲を見回して思った。六畳の和室にこぶりなテーブルとクローゼット、となりの四畳半は母の寝室だ。家賃四万五千円の公営住宅はてぜまで、二人家族でさえ息がつまる。お嬢さま育ちの母には耐えがたい環境なのだろう。その顔に『金がほしい』と書いてあった。


「母さんが行けばいいじゃないか」

「でもほら、わたしは足が悪いし」


 死んだ人間など怖くて見られない。あんたにいってもらうしかないのだとエプロンを握っていいつのる。


「ぼくだって仕事があるんだ」


 そういうと母は鼻を鳴らしてしわだらけの口元をゆがめた。


「そんなのアルバイトにでもやらせときゃいいじゃないの」


 清掃作業の監督といっても、形だけの現場監督なんだし、もらってるお給料の額からすれば外国人のアルバイトにやらせておけば十分よと、母の鼻息は荒い。そして実際そのとおりなのにちがいない。ぼくでないといけない理由はない。情けないことだけど、ぼくの仕事というのは、そこにだれかがいればいい――いざという時、そいつに責任をとらせてやめさせるために――そんなだれにでもつとまる仕事だから。


 しかたがない。その場で、次の日の仕事はアルバイトにヘルプを頼むと会社に連絡を入れ(もちろん、二つ返事で了承された)、翌日は都心の警察署へ向かうことにした。


 そんなぼくの様子を見て、母はようやく肩の荷を下ろせたといった顔をしてさっさと立ち上がった。


「ああそれから――、ゲームなんてやめたらどうなの。お母さん、そういうの嫌いよ」


 捨てるようにいい残して、足早に台所へ消えた。さっき足の具合が悪いといったばかりではなかったか、ろくでもない。なぜぼくはこの歳になってまで、母親からあれやこれやといいつけられなければならないのだろう。



 ※



 人の皮を被ったぼくは何者だ。

 翌朝、ぼくは鏡をのぞきこんで考える。まばらに伸びたひげが、ちくちくと手のひらを刺激していた。


 会社にはいつも作業服で出勤している。主な仕事はオフイスの清掃作業であり、こぎれいな服装で出勤しても、どうせすぐに着替えるのだからそれがいい。でも、警察署をそんなかっこうでたずねてゆく勇気もでないので、警察署へはスーツを着てゆくことにした。普段は気にしない髪も一応整えようとして鏡の前に立つ。


 しみが浮き、しわが刻まれはじめたこの顔の皮膚の下に、ぼくはぼくを閉じこめている。あまりにふかく厳重に閉じこめてしまったものだから、もとのぼくがどうな風だったのか当のぼくにもわからなくなってしまった。いつからぼくはこうなってしまったんだろう、皮膚の弾力とともにそれは失われてしまった。


 ぼくは後悔していた。母に代わって警察署へ出かけるといってしまったことを。昨日のことはなかったことにしたい。なかったことにならないだろうか。ぼくは本当は行きたくないんだ。ことさらグズグズしてスーツに着替えた。


「はやく行かないとお昼になっちゃうよ」


 母の声が飛んでくる。ぼくに下駄を預けてしまった後はとても元気で、昨晩の沈んだ表情がうそのようだ。この切り替えの早さはまねできない。このひとはぼくの胸の中を見せてあげたらなんていうだろうか。


「はやく」


 玄関で靴をはこうとしゃがむと身体のあちこちが突っ張るように感じる。慣れないものを着たからだ。数時間後には、いつもどおりでちょうどよかったと考えることになるのだが。


 ガチャリ。

 重い鉄の扉を開けて廊下へ出ると真夏の熱気に包まれた。ああ、警察署につくまでに溶けてしまいはしないだろうか。いっそ溶けてしまってもいい。ぼくはぼくであることにうんざりしている。

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